45.二人の再出発
異様な迫力を感じて、美也子は強引に膝上から逃れた。
「あのね、もう一つ聞きたかったの」
迫りくるエイミに気圧されて、このおかしな空気を壊すために慌てて質問をした。
「愛奈には嫉妬するのに、どうして及川くんには嫉妬してくれなかったの?」
「それは……」
エイミの顔が愁いを帯びる。もしかして、複雑な事情があるのだろうか。
「わたくしでは、ご主人様の子が成せませんもの」
その返答は、予想の斜め上だった。
「手頃な殿方がいらっしゃらないと、ご主人様がお子を成すことができません」
「ま、まあそうだね」
さらに身体を引く美也子に気付くことなく、エイミは恍惚の表情で身悶えした。
「ご主人様のお子様をお世話する日を想像すると心が躍ります。さぞ可愛らしい子がお生まれになることでしょう」
「あー、ど、どうだろうね」
赤ん坊が父母どちらに似るかなど分からない。父親似だったとしても、果たしてきちんと世話をしてくれるのだろうか。
エイミは首を傾げて美也子を見てくる。
「ですが……先日テレビで見たのですが」
「何を?」
「この世界には、殿方不要で子を成す技術があるみたいですね」
美也子は言葉を喪失した。
一体何の番組を見たのだろうか。クローンのことを言っているのか、体外授精のことか?
「その技術を使用するのなら――わたくしは殿方に嫉妬してもよろしいでしょうか」
「ええと、まだその技術を使用するか分からないから」
まだ十五歳の美也子には、出産のことなど考えられない。ましてや科学技術で子孫を残すことなど。
「そうですか……」
「使用するかは分からないけど……嫉妬はしてもいいよ」
「いえ、滅相もない」
あっけらかんとしたものだった。エイミにとって、男は種馬に過ぎないのだ。ただの馬に嫉妬する必要などないということか。
「でも、愛奈には嫉妬してたでしょ」
追及すると、エイミは何か考えるように黙り込んだ。そしてぽつりと漏らす。
「あのかたは、魔精ですから」
また同じことを言う。美也子は唇を尖らせて不満を訴えかける。
「魔精だと嫉妬しちゃうの? 魔女の真由香ちゃんには嫉妬しないの?」
「ええと……魔精は、他人を強く惹き付ける力があります。あのかたが本来の力を使えば、ご主人様はきっと虜になってしまいます」
「愛奈はそんなことしないよ?」
当惑しつつ率直な意見を述べる。
虜にされるなどとんでもない。愛奈は『いい友人』だ。
彼女のおかげで、今こうしてエイミと腹を割って話すことができているのだから。
「そ、そうですか……」
エイミはまだ納得できていないようだった。
「ですが、本当に嫉妬しても宜しいのでしょうか……?」
遠慮がちに窺う茶色の瞳、それを美也子は真っ直ぐ覗き込む。
「そういえば結構前に言ったよね。エイミが嫉妬したら、謝るって。エイミが嫉妬した時、全部に応えてあげることはできないと思う。でも、ちゃんと意思表示してくれたら謝るし、できるだけエイミを優先するよ」
我知らず、美也子はエイミの手を握っていた。相変わらず荒れてカサカサした皮膚。苦労を経験してきた者の手、ゆえに愛おしいエイミの手。
「ご主人様……」
エイミは逡巡した様子を見せた後、深々と頭を下げた。
「わたくしは、浅ましい下僕でございます。ご主人様を独占したいといつも思っております。嫉妬してしまったら、それをご主人様に奏上しても宜しいのでしょうか」
大袈裟だなぁ、と美也子はつい笑ってしまう。そして己の素直な気持ちを伝えた。
「私だって、エイミをいつも独占したいと思ってるよ」
すると、弾かれたようにエイミが顔を上げた。そのまま抱き締められる。
「そのような、可愛いことをおっしゃってはいけませんよ。下僕の心が惑います」
「可愛いのはエイミの方だよ」
「まあ」
喜びの声を上げたエイミの腕の力が強さを増す。
これは抱擁というよりも『拘束』ではないだろうか。美也子の喉奥から『うっ』と声が漏れた。
「……それではご主人様、改めて、ご命令を下さいませ」
エイミは話を元に戻し、美也子の耳に熱い囁きを吹きかけた。
「わたくしは、長い間ずっとこの思いに身を焦がしてきたのです。それが今この瞬間にも叶うなど、夢のようでございます」
強く抱き締められたまま、今度は逃げることができない。
「んー、あー、えーっと」
困惑したまま、マイクテストのような声を発してしまった。
一体、何を命令して、何を叶えたらよいのか分からない。脇の下を濡らすのは冷や汗だ。返答が遅れるたび、締め付けが強まっている気がするのだが……。
「こら美也子! バッグが置きっ放しよ!」
廊下から聞こえた母の怒声は、今日ばかりは助け舟だった。
経験上、あの声は『怒りレベル3』といったところか。顔を見せれば説教コースだ。
ちなみに最大値は5で、未だに年に数回程度やらかしてしまう。
「怒られちゃった。行ってくるよ」
「はい……」
やんわりエイミを押しのけると、先ほどまで硬く反り返っていた耳が萎びていく。
「ごめんなさーい!」
母に聞こえるように大声で謝罪し、ベッドから降りた。追従しようとしたエイミに頭を振ってその場に留める。お説教を受けている姿は見せたくない。
「あ、そうだ」
ドアを開ける前に振り返り、ベッドでうなだれているエイミに告げる。
「これからもクリスデンのこと、話してよ。エイミの心の中だけに仕舞っておきたいものは、そうしてくれていい。でも、共有できるものは、私にも教えて。クリスデンのこと、知りたい」
「はい!」
明るい返答を背中に浴びながら、美也子は怒れる母の元へ向かった。
夜、美也子は清々しい気持ちで床に就いた。
エイミとクリスデンに肉体関係がなかったことよりも、クリスデンという男が、エイミを大切にしていたという事実が何よりも美也子を安堵させていた。
己の前世の男が、立派な人物で本当によかった。
やはり、彼にもう一度会ってみたい。
『魔法』を使ってみれば会えるのではないかと思い至った。
駄目で元々、かつて関門に飛んだ時のように唱えてみる。
「オーヴィの神に乞う――クリスデンに会わせて……」
――結果、悪夢を見た。
何もない空間に何者かが立っている。
全身に霞が掛かっていて容姿も何もかも判別できないが、聞こえてきた笑い声で若い女だと判断した。
一体全体、何がそんなにおかしいのやら。
「あいつがお前に会いたがるはずがない」
開口一番そんなことを言われ、ムッとしてしまう。
「どうして?」
「あいつは、お前のことが嫌いだからさ」
なぜ前世の自分に嫌われなければならないのか。
「あいつは、お前の年頃には母親に殴られ父親に利用され、十も老けたような顔だった。それに比べてお前というヤツは、遥かに幸福だ。父が早くに死んだ分、母にも祖父母にも愛され、友人に囲まれ天真爛漫」
クリスデンに関する予想外の情報に、言葉を失った。虐待を受けていたということなのか。
「あいつはずっと怨念を抱えている。もしお前のように恵まれた人生であったら、死を望まなくて済んだだろう、可愛い獣人の娘と今もネヴィラで暮らしていけただろうと。幸福で何不自由ないお前が憎らしいのさ」
だから、あえて魔法の知識を渡してくれなかったのだろうか。
「――ううん、信じない。あの人は、そんな心の狭い人じゃない」
「へぇ、言うねぇ。まっ、私はどっちでもいいんだよ。お前の健康な肉体さえあれば、中身がクリスデンだろうと千歳美也子だろうとね」
独り言のようにそいつは言う。手をひらひらさせ、美也子を嘲弄しているようだった。
なぜかすさまじい不快感がこみ上げ、美也子は叫ばずにいられなかった。
「うるさいな! どこかに行って、この悪魔!」
そう、こいつは『悪魔』に違いない。
真由香の召喚した友好的な悪魔ではなく、この世界の創作物で語られるような悪魔。
悪言を放ち人の心を惑わす邪悪な存在。
「悪魔だって? この私が?」
女は背中を反らせて高笑いした。
その狂ったような姿に、美也子は一歩後退してしまう。
呼吸が続く限り笑い続けたのだろう。それが止まったとき、ぜいぜいと肩で息をし、そして怒鳴り散らす。
「あんな汚らわしいヤツらと一緒にしないでよ! 色情狂の二番目のお兄様が戯れに作った玩具だ!」
「そんなの知らないし」
「ふん、このバカ! 自分で呼んだくせに。もう帰る!」
「バカって言う方がバカなの! さっさと帰って!」
幼児の喧嘩のような応酬ののち視界が黒く染まり、美也子は夢から覚醒した。
「変な夢」
枕元に小犬姿のエイミの小さな呼吸を感じながら、目を閉じて再度眠りへと潜っていった。
あと番外編を挟み、次章へ移ります。
ここまで投稿し続けられたことを、皆様に感謝いたします。
次章ではファンタジー路線に戻り、可愛い?悪魔が登場します。
少し進展した二人の関係と共に、ぜひお楽しみください。