43.もう我慢しない
翌日、昼食をご馳走になった後に佐原家を後にした。
今回は、愛奈の父親に送ってもらう。
体格のよい父親は、運転しながらしみじみと言った。
「美也子さんのように、しっかり者の友人ができて安心だなぁ。中学の時なんか愛奈は――」
「ちょっとやめてよパパ」
娘の鋭い声に、父親は言葉を呑み込んだ。
「でも、愛奈だってしっかりしてますよ」
フォローすると、父親は豪快に笑った。
「そうだなぁ、愛奈は妙に大人びたところがあって――」
「だからやめてってパパ。もうバレンタインに何もあげないんだから!」
「そんな先の話をされてもなぁ?」
苦笑する父親と、頬を膨らませる娘を見て、美也子は失笑する。
微笑ましいことこの上ない。
だが、こんなに家族仲がよいのに、愛奈はいつか異世界へ去ってしまう気なのだと思うと切なくなった。
気が変わっていないか、今度もう少し深く聞いてみようと思う。もしくは美也子が引き止めたなら、もっと長くこの世界に留まってくれるのだろうか。
いつものコンビニではなく、マンションの前で降ろしてもらった。
「美也子さん、またいつでも泊まりにおいで」
「はい、お世話になりました。ありがとうございます」
父親に頭を下げてから、愛奈へと視線を向ける。
「じゃあ、また月曜日にね~」
友人は後部座席から手を振っている。
それに応じながらも、今日は別れ際に抱き締めてくれないのかと、少しだけ寂しくなってしまった。
「ただいまぁ」
自宅の扉を開けると、すでにそこにエイミが立っていた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
「うわ、びっくりした」
「申し訳ございません……」
急いでスニーカーを脱ぎ、うなだれるエイミに近付く。
「ずっと待ってたわけじゃないよね」
「ええと……エレベーターの開く音を聞いておりましたので……」
千歳家はエレベーターの斜め向かいだ。静かにしていると、エレベーターが到着した際の電子音が美也子の部屋にまで届く。
それが聞こえるたびに、廊下に出てきていたというのか。
祖父母宅の犬も、祖父の車の音を聞き分けて玄関に迎え出るのだが、エレベーターの音は誰が乗っていようと常に同じだ。ならば、バッグに鈴でも付けておこうかと思う。
「お母さんは?」
「先ほど外出なさいました。本屋へ行くとおっしゃっていましたよ」
「そっか」
ならば、遠慮することもあるまい。
手荷物を廊下に投げ出すと、両手でエイミに抱き付き、胸に顔をうずめる。
「ご主人様……」
「あれ? 抱き締め返してくれないんだ」
身体を強張らせるエイミをからかうと、美也子の倍以上の力が背中を絞めつけた。
「うええ、痛い」
「申し訳ございません、つい感極まって」
慌てて離される。
「あの、愛奈様とは何を……」
「何をって、テレビ見たりマンガ読んだりした」
エイミは視線をさ迷わせ、何かをためらっている。
「あの、だって、ご主人様のお身体に愛奈様の匂いが」
「えー、そう? まぁ一緒に寝たし、多少はね?」
それも、汗の匂いで消えてしまった気がするのだが。
何となく腕の辺りの匂いを確認していると、エイミが窺うような視線を向けてくる。
「一緒にお眠りになったのですね……」
「うん、同じベッドでね」
「それで、起床後、ひどく疲れていたりしませんでしたか?」
「うん? そりゃ、慣れない布団で寝たら、多少は肩がこるかなぁ」
首を左右に動かすと、今度はエイミから抱き付いてくる。
「んもう、そんなに匂いが気になるなら、今度はエイミの匂いを付けたらいいじゃない」
夏場だということもあり、毛深いエイミの体臭はやや増していた。もちろん、イヤな匂いではない。
「そんなっ」
顔を赤らめてエイミは美也子から飛び退いた。
羞恥と共にエイミの表情に浮かぶ苦々しいもの。美也子はそれの正体を悟った。
「愛奈に嫉妬してるんだ?」
なぜか今は、それがはっきりと分かった。先週愛奈が遊びに来た時の態度も、すべて納得がいく。
愛奈に嫉妬していたからこそ、あえて『ご主人様』と呼び、親密さをアピールしていたのだ。
「嫉妬など……滅相もございません」
「嫉妬してもいいんだよ」
否定するエイミに、美也子は優しく諭す。
「わたくしめが、そんなおこがましい……」
「嫉妬してもいいよ。――だから、私も嫉妬する」
エイミの腕をつかんで、自室に引きずり込んだ。
ベッドの上でエイミをうつぶせにして、その上にのしかかった。
うなじの毛に頬を擦り寄せ、馴染み深い体臭を吸い込む。
下から、エイミの動揺混じりの声が聞こえた。
「ど、どうして嗅がれるのですか」
「イヤなの?」
「さすがに恥ずかしいです」
「私がいいって言ってるんだから、いいじゃない」
いや、よくなかった。鼻腔にアンダーコートの抜け毛が入ってくすぐったい。
慌ててティッシュで拭っていると、その隙を見てエイミが身体を起こした。
二人は、ベッドの上で真っ直ぐ向かい合う。
「昨日は、一人でお風呂入ったの?」
「いえ、お母様が誘って下さいましたから」
やはり、そうか。仕方ないことだと分かっていても、胸がもやもやするのは止められない。
だが、その気持ちはもう抑圧したりしない。
「お母さんはどんなふうに洗ってくれたの?」
「ええと、普通に……」
「再現して! 今夜!」
叫ぶ美也子を見て、エイミは不安そうに眉をひそめた。
「今日はどうなさったのですか? いつものご主人様と少し違います」
「それは、いつもの私の方が違ってたの。私って本当は、甘えたがりで嫉妬深くて、まだまだ子どもなんだ」
愛奈の家族を見ていて、はっきり感じた羨望と寂寥。それを、この少女に癒して欲しいと思う。
「お母さんの前じゃ、しっかりしなきゃって物分かりのいい子を演じてたけど、それって、エイミの前ではしなくてもいいでしょ?」
「ご主人様……」
「幻滅した?」
上目遣いで尋ねる。
「またそのようなことをおっしゃって――。ご主人様はまだ十五歳なのですから、存分に甘えて下さい」
一瞬迷ったようだったが、エイミの手が美也子の頭に載せられる。そのまま頭頂部を優しく撫でられると、胸に温かいものが広がった。
――頭を撫でられるのって、こんなにも心地よかっただろうか。
美也子は自覚していた。エイミと過ごすうち、その関係が逆転していることを。
初めてこの部屋を訪れた時、抱き付いて頬を寄せ、撫でろと甘えてきたエイミ。
だがいつの間にか、美也子が甘える立場になっている。
この関係の何と気持ちのよいことか。
エイミだって、まるで自分が撫でられているかのように目を細めて美也子を見ている。
今の二人の間には、壁など存在しない。今ならば何でも話せる……はず。
「ねぇエイミ……。聞きたいことがあるの」
優しく微笑むエイミの目を見つめる。
「何なりとお聞きください」
息を吸い込んで、その疑念を吐き出す。
「エイミは、クリスデンとえっちなことしてたの?」
エイミの顔に疑問符が浮かんだが、すぐに意味を察したようで、リンゴ以上に赤くなる。
それを見た美也子もまた、己の言葉の大胆さを痛感し、体温の上昇を感じた。
――うわあああ! 聞いた! とうとう聞いた!!
心の中で、絶叫する。




