42.愛の証明
「美也子!? ゴメンね、あたし、とっても悪いことした……」
滂沱の涙を流す美也子を見て、愛奈はひどく取り乱した。
そんな彼女に向けて、そっと頭を振る。
「違うの、愛奈に怒ってるわけじゃない。ただ、夢だって分かって安心しただけ」
唇が震えてうまく言葉が紡げないが、この不安を吐露せずにいられなかった。
「でも、でも……気になって仕方ないの。エイミと前世の私が、一体どんな関係だったのか。でも知りたくないの。もし本当に、あの二人が……あんなことしてたらと思うと、言葉にできない激しい気持ちが湧いてきて、胸が張り裂けそう」
寝間着の上に何粒も滴が落ちる。
安堵と自己嫌悪の涙が止まらなかった。
あれがただの夢で心からよかったと思う。それでもあれは、美也子の嫉妬が生み出した汚らわしい妄想なのだ。
「ゴメン愛奈、私のこと嫌いになった? あんなことばかり考えてる私、気持ち悪いよね」
「美也子……」
愛奈の顔が歪む。それが軽蔑なのか分からない。
しばしの沈黙。美也子が鼻をすすると、愛奈はローテーブルに手を伸ばし、ティッシュボックスを取ってくれた。
愛奈は呆れて黙っているのではない。美也子が落ち着くまで待っていてくれているのだと分かった。
「あのね、美也子」
愛奈の手が、美也子の肩を強くつかむ。
すっかり元に戻った瞳が、わずかに揺れながらもしっかりとこちらを見つめてきている。
「そんなに気になるなら、エイミちゃんに聞いてみたらいいじゃない」
予想外の言葉に、愕然と頭を振る。
「そんなこと、できないよ」
「どうして?」
「だって、もし本当に――」
「もし本当に、エイミちゃんが前世の美也子と肉体関係があったら、嫌いになるの?」
愛奈の言葉が厳しさを増す。
「汚らわしくて、側にいて欲しくなくなるの?」
美也子には答えられない。
逡巡した様子を見せた後、意を決したように愛奈は続けた。
「……美也子は、もう分かってるよね。あたしが、処女じゃないこと」
友人の生々しい告白に、息を呑む。
その通りだ。考えないようにはしていたが、大学生の彼氏がいたのなら、そうであって当然だ。
「あたしのこと、汚いと思う? もう友達じゃいられない?」
「そんなわけないよ。そんなこと思わない」
美也子ははっきりと答えた。優しい嘘ではない、まごうことなき本音。
同時に、それは先ほどの問いの答えでもあるのだと自覚する。
「ねぇ美也子。ちょっと刺激の強いこと言うよ」
愛奈が息を吸い込む。
「あたしはね、まーくんと付き合ってる時、たくさんしたよ」
子どもの美也子には、確かに刺激の強すぎる告白。わずかに動揺が走るが、真っ直ぐに受け止める。
「親がいない時なんかは大抵ね。それは、魔力をもらうためだけじゃない。――まーくんのことが、大好きだったから」
愛奈は少し遠い目をした。辛い記憶を思い起こさせて、申し訳なく思う。
「まーくんもその時はあたしのこと、本当に愛してくれていたんだと思うよ。だって、あたしが嫌がることはしなかったし、して欲しいことはしてくれた。だから、あたしも本当に楽しかった、嬉しかった」
「愛奈――」
明け透けな言葉に戸惑わなかったと言えば嘘になる。
『嫌がること』『して欲しいこと』。それは性行為に関連することなのだと分かったからだ。
でもいやらしいとは、汚らわしいとは感じない。友人はただ真摯に、美也子の憂苦を晴らすために事実だけを述べているのだから。
柔らかく微笑み、愛奈は続けた。
「だからね、エイミちゃんもきっとそうだよ。もしエイミちゃんが処女じゃなかったとしたら、それは美也子の前世の人が、エイミちゃんを深く愛していたっていうことの証明なんだ。そうでなかったら、絶対に異世界まで追いかけてこないよ。嫌いな人相手に、そんなことしないでしょ」
「――うん」
声はかすれてしまったが、しっかりと美也子は頷く。
愛奈の思い遣りが深く胸に刺さったからだ。彼女は、自分の秘事を暴いてまで美也子の苦悩を取り払おうとしてくれている。
「嫉妬するのは仕方ないけど、でも前世の自分のおかげで、エイミちゃんに会えたんだって思わなきゃ」
「うん」
「みんなそうだよ。誰だって、過去のことは気になる。嫉妬しちゃう。でもそれを乗り越えられないなら、一緒にいる資格はない」
「うん、愛奈の言う通りだ」
気付けば涙が止まっていた。最後の一筋を手で拭う。
愛奈が優しい声で囁いた。
「美也子は、エイミちゃんのことが本当に好きなんだね」
「うん」
こくりと頷くと、愛奈が視線を落とす。
「そう……だよね」
今度は愛奈の瞳に涙があふれた。
「どうしたの?」
「ううん。もらい泣き、かな」
そう言うと、愛奈は乱暴にティッシュを抜き取って、目元をごしごしと拭く。
「帰ったら、エイミちゃんときちんと話すんだよ」
「うん。ありがとう愛奈」
精一杯の謝辞を込めて、友人の華奢な身体に抱きつく。
すると愛奈は無言で美也子の肩口に顔をうずめ、大きく息を吸い込んだ。
「美也子、いい匂いがする」
「愛奈の方がいい匂いだよ。――いや、同じシャンプー使ったんだから、同じ匂いなんじゃない?」
「そうかな~?」
友人の間延びした喋り方が復活した。そのことに胸を撫で下ろしていると、愛奈はさっと離れて行く。何か不興を買ったかと思っていると、勢いよく掛布団をまくり上げた。
「じゃ、寝よ。もう意識にちょっかいかけたりしないから~」
「……楽しい夢なら、見てもいいよ?」
美也子がそう言うと、愛奈は激しく動揺した。
「今日は、もういいの!」
なぜかつっけんどんに言われたため、首を傾げて尋ねる。
「じゃあ、今度泊まりに来たら見せてくれるの?」
「えっ、また泊まりに来てくれるの?」
愛奈は意外そうに目を見開いたが、次回のお泊り会を断る理由など別段存在しない。
「うん、愛奈が迷惑じゃなければね」
「迷惑なわけないじゃない!」
勢いよく返答した愛奈は、口元を手で覆い隠した。笑っているのだろうか。
「じゃあ、次来たら楽しい夢、見せちゃおうかな~」
その目が再び金色に光り輝いた――ような気がしたが、見間違いかもしれない。追及するほどのことだとも思えなかったため、そのままベッドに横になる。
明かりを消した愛奈も美也子の横に並び、布団を掛けてくれた。
その時わずかに起こった風の中には、花とも果物とも異なる、甘い香りが混ざっていた。ルームフレグランスか、柔軟剤の香りなのだろうと勝手に推察する。
先ほど入眠する際は気が付かなかったが、決してイヤな香りではないし、きっとこれが女子力というやつなのだろう。
暗闇の中でうつらうつらしていると、愛奈が話し掛けてきた。
「ねぇ美也子」
「ん、なに?」
「ぎゅってしていい?」
「いいけど、暑くない?」
「暑くないから大丈夫~」
友人は遠慮なく抱き付いてきた。
布団を掛けられた時に感じた独特の甘い香りが、美也子の鼻腔にはっきりと届く。どうやらこの香りは、友人の身体から発せられているようだ。ではボディクリームの香りだろうか、と納得する。
そんなことよりも、他に気に掛かることがあった。
「愛奈って、体温低いよね。ちゃんとごはん食べてる?」
「ちゃんと食べてるよぉ。……あたしの身体、心配してくれるんだ」
「それはだって、友達だもん」
そう言うと、一瞬沈黙が流れた。首筋に、愛奈の吐息が掛かる。
「だよね」
その小さな呟きは、かき消えそうなほど小さかった。
以後、言葉は紡がれない。
おそらく、眠くなったのだろう。