4.朝の準備
「おはよーお母さん」
「おはよう美也子」
翌朝、七時少し前に起きてリビングへ向かうと、いつものように母親がいた。
すでに朝食を済ませ、リビングの隅の鏡台で化粧をしている。
美也子の家では何年も前に父親を亡くしているので、母の静香が名実共に大黒柱だった。
「そういえば美也子、夜中に長電話してたでしょ」
唐突な母の言葉に、焼こうとしていた食パンを落としそうになる。
「ごめん、うるさかった?」
「大丈夫だけど、なんかもめてるみたいな口調だったわね。あなたこそ大丈夫?」
母を窺うと、フェイスパウダーをはたく手をとめて、じっとこちらを見て来ていた。どこか鋭い眼光におっかなびっくりしながらも努めて平静な声を出す。
「うん、片付いたから」
「だったらいいけど」
そう言って母は化粧を再開した。
やはり話し声は聞こえていたか、と美也子は肝を冷やす。内容について突っ込まれなかったことはまことに幸運だ。
母は身支度を終えると、いつもの通り七時半には家を出ていった。パンツスーツに身を包んで颯爽と出勤する姿は格好いい。
帰宅も美也子の方が早いので、不在時に自室のエイミを見られなくて済みそうだ。
しかし、母の顔を見て美也子は改めて思った。この生活を捨てて違う世界へなんて絶対に行きたくないと。
幼い美也子を女手一つで育ててくれた人だ。
それに、祖父母を始めとした親類。
さまざまな人たちのお陰で、母子家庭の美也子は貧窮することもなく、健やかに成長し何不自由なく暮らしてくることができた。
そんな生活を与えてくれた、すべての人たちに報いたいと思う。
そんなふうに考えながら朝食を取り、洗面所で歯磨きと洗顔を終えてから自室に戻る。
小犬姿になったエイミは、ベッドの上で微動だにしない。ぬいぐるみのふりをしているのだ。
「お母さん出ていったから、動いても大丈夫だよ」
話しかけると、みるみる間に大きくなって元の少女の姿に戻った。
「おはようございますご主人様。朝食はお済みですか?」
ベッドから降りてまとわりついてきた。
並ぶと身長はエイミの方が高い。耳の長さを除いても、百六十センチは超えているだろう。
頭を撫でてやろうかと思ったが、自分より背の高い相手にはやりにくい。とりあえず首の後ろをくすぐってやると感極まったように抱きついてきた。それをやんわり押し退ける。
「今から着替えるから、そしたら学校行くね。なるべく早く帰ってくるけど、暇させちゃってごめんね」
「め、滅相もございません、――ああご主人様……」
エイミが恥じらうような声を上げた。美也子がパジャマを脱いだからだ。
女同士だから気にせず脱いだのだが、まさかエイミがこんなに過剰な反応をするとは。美也子も少し恥ずかしくなってしまう。
だが通学時間が迫っているのだから、気にしていられない。
ブラジャーを着けようとしたら、背中に触れる感触があった。
エイミがホックを留めようとしてくれているのだ。
「ちょっと、それはいいよ」
他人にブラジャーを着けてもらうのは、なんだか照れる。
「どうしてでしょうか?」
エイミはなぜ遠慮するのか理解できないようだった。
美也子は以前観た洋画を思い出す。その映画には、貴族令嬢がメイドにコルセットを着けてもらう場面があった。
だとすれば、『下僕』のエイミが『女主人』に対して為すには当然の行いなのだろう。
主人として振る舞う気はないが、まぁ今日は素直に従おう、と身体の力を抜いた。
「留め具が三つありますね。どの位置にしましょうか?」
「あ、ありがとう……。一番内側でいいよ」
ホックを引っ掛けたエイミはくすりと笑みをこぼした。
「わたくし、クリスデン様の転生先が女性だと知って、女同士もっと親密なお世話ができるって本当に楽しみにしておりました」
「そ、そうなんだ」
もっと親密なお世話とは、具体的にはどのようなことだろうか。今は考えずにおこう。
布地に乳房を収めて肩紐を調整する美也子の所作を、エイミはまじまじ見つめてきていた。
「今度はそれもわたくしが」
「しなくていいから」
さすがにそこまでしてもらうわけにはいかない。あまりに恥ずかしすぎる。
「お身体に触られるのはご不快ですか?」
エイミの耳が垂れ下がる。
「あ、いや、不快じゃなくって、慣れてないだけだよ。ずっと自分一人でやってたから」
慌ててフォローする。エイミが悲しい顔をすると、どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろうか。
「それに、この下着は一人で着けられるように出来ているから、大丈夫なの」
「確かに、この世界の下着は機能的ですね。デザインも美しい」
エイミの感嘆はもっともだ。美也子の胸は押し上げられてきれいな谷間が現れていた。安いブラでも手軽に肉体を整えることができる。
それにこれはセール品だが、レースが可愛く気に入っている。異世界人の感性でも、誉められたのは光栄だ。
衣類のことに関連し、ふと美也子の頭に疑問が浮かんだため、それを投げた。
「そういえば、エイミのその格好って、元の世界のもの……じゃないよね?」
昨夜押し掛けて来たときから、エイミは日本の街中を歩いていても違和感ない服装をしていた。耳があるので実際に歩かせる訳にはいかないが。
首元の詰まったシャツに、グレーのカーディガン、膝丈のフレアスカート。流行に左右されない、無難かつ綺麗目なファッションだ。
「はい、こちらの世界へ来てから調達したものです。他の世界へ渡る際は、その地域の環境や文化、一般常識等を調査して学習せねばなりません」
「服買ったお金はどうしたの?」
「貴金属と換金して頂きました」
引っ掛かる物言いだった。エイミ自身が調達した訳ではないようだ。
「あ、ちょっと、これはいいから」
制服のシャツを羽織ると、エイミが前に回り込み、ボタンを留めようとしてくる。先ほどの悲しい顔を思い出して、ついされるがままになってしまう。
着替えの補助については真剣に話し合わないといけない。美也子は貴族ではないのだから。
「可愛らしい制服ですね」
リボンを着けてスカートとソックスを履き、全身鏡で前後を確認していると、エイミが褒めてくる。
「でも、脚を出しすぎでは? 膝は隠した方が……」
「これくらい普通だよ」
「ああ! お召し物の上から下着の形が見えています」
「……上着着るから大丈夫だよ」
慌ててブレザーを羽織る。すでに洗面所で整えた髪を軽く撫で付け、これで通学準備は完了した。
「ご主人様の黒髪は美しいですね。クリスデン様は癖の強い赤毛で、手入れには無頓着でした」
エイミが、肩甲骨の辺りまで伸びた美也子の髪に触れた。美也子は重めのストレートヘアにしている。
「今度、梳かせて下さいませ」
「う、うん」
それくらいなら問題ないかと思うと同時に、最後にお母さんに髪を梳いてもらったのはいつだったかと考える。ずいぶん長いことそれをしてもらっていないなと気付き、一抹の寂しさを感じた。
ならば、エイミにしてもらえばいいのだ。
美也子の側には、今日からエイミがいる。そう思うと、歓喜に胸が温かくなる。
もう慣れたとはいえ、誰もいない家に帰る寂しさもなくなる。『ただいま』と言えば『おかえりなさい』と返してくれる人ができたのだ。
「じゃあ行ってくるから」
「名残惜しゅうございます」
声を掛けると、エイミが耳ごとうなだれる。可哀想になってくるが、今は学校へ行く方が大事だ。
時間は八時を過ぎたところ。おしゃべりが過ぎたかと思ったが、誤差の範囲内だ。
「行ってらっしゃいませ」
玄関で深々と頭を下げたエイミに見送られ、美也子は扉を閉めた。