32.暗黒の思考
しばらく重い話が続きます。
不快に思う表現、描写も多々あるかと思います。
雪解け回は準備しております。
高校は一学期期末テストの期間に入った。
一週間前にはまだ余裕があったものの、いよいよ明日からとなった日曜日には、すっかり追い詰められていた。
美也子はイライラとしながら机に向かう。
集中することは昔から苦手だった。しかも高校の授業内容は中学の時のそれを凌駕する難しさだ。
気分転換にスマホでSNSを閲覧する。普段は興味もない芸能人のものまで見てしまう。
無為に過ぎる時間に唇を噛みながら、エイミを想う。普段はまとわりついてくる彼女も、今は邪魔するまいとリビングに行ってしまった。
触りたい。背中の毛を触って、くすぐってからかって、落ち着いたら勉強を再開しよう。
リビングへ向かおうと部屋を出ると、廊下に母とエイミの談笑する声が届いていた。
そっと覗くと、ダイニングテーブルに通販カタログを並べていた。
エイミの夏服を通販で買うことにしたのだ。
ただ服を選んでいるだけではなく、あれが似合うこれが似合うと、母がアドバイスをして、エイミが真剣にそれを聞いている。
ああ、楽しそうだな、それだけ思うと踵を返した。
あれは、美也子がしてやりたかった。
数十分後、再度リビングへ向かうと、ソファで母がエイミの背中の毛を梳いていた。
アンダーコートの抜け毛がよく取れる目の細かいコームは、エイミのために母が買ってきたものだ。エイミは上着を脱いで肌をさらし、すっかりリラックスしている。
「気持ちいい? エイミちゃん」
「はい、お母様にこのようなことをして頂き、誠に恐縮でございます」
「んもう、そんな大袈裟な」
「ふふ、美也子様も、よくそうおっしゃいますよ」
「あらまあ」
そんなふうに、二人で穏やかに笑っている。
「夏になったら、抜け毛が増えたりしないの?」
「どうでしょう……。あまり気にしたことはありませんでした」
「日本の夏は暑いから、これから身体が気候に合うように変わっていくかもしれないわね」
「確かに、こちらの夏はいささか湿気が厳しいですね」
「この毛って、切ってもいいのかしら」
コームには抜け毛が玉のように付着していた。
「まあ、その発想はありませんでした」
「あら、切っても差し支えないなら、バリカン買ってこようかしら。きっと涼しくなるわ」
母の手が、エイミの背中の体毛を優しく撫でる。
くすぐったかったようで、エイミがわずかに身をよじった。耳が数回小刻みに動く。
それを見た母が、敏感なのね、と笑う。
自分の大切な者たちが慈しみ合う姿を見て、本来ならば和むところだろう。
だが、心に湧いてきた複雑な感情は、明らかに負のものだった。
リビングの扉を開けたまま呆然と立ち尽くす美也子を見て、エイミが立ち上がろうとしたが、首を振って止めた。
そのまま自室に戻る。
さらに数十分後、母はエイミにマニキュアを塗ってもらっていた。
そんなこと、母にしてやったことはないし、エイミにしてもらったこともない。
そもそも、あのシャネルの容器に触れることは、美也子には許されていない。高級ブランド品だから、十年早いと。
それをエイミが先に触れている。
「エイミちゃん、上手ね。器用だわ」
「お褒めに預かり光栄です。元の世界には、爪を装飾するという文化がなかったので、斬新です」
間近で顔を寄せ合って、二人で微笑んでいる。
これらはすべて、母の気遣いなのだということは分かっていた。美也子がエイミを構ってやれないから、母が相手をしてくれているのだ。
だが心に湧いたもやもやの正体、それがはっきりと分かってしまう。
二重の嫉妬だ。
お母さんは私のお母さんなのに、エイミが独占している。
エイミは私のエイミなのに、お母さんが独占している。
そこまで考えて自己嫌悪に陥る。二人とも、誰のものでもない。いつからこんなに傲慢な子になったんだろう。
暗い気持ちで机に向かうが、集中力は数十分ほどで切れた。
ぼんやりしていると、次に頭に浮かんだのはクリスデンのことだった。
立派な人物だったのだろう。百年かけて研鑽を積んだと言っていた。
一時間も集中できない美也子には真似できそうにない。魂が同じはずなのに。
――座りっぱなしで痔気味、胸や尻にホクロのある女に興奮する、勃起不全だった――。
その台詞を思いだし、赤面する。冗談だと言っていたが、その割には具体的過ぎるだろう。絶対に本当のことだ。
そもそも十五歳の少女に向かって言うべき内容ではない。ふざけるな、と思う。
特に、勃起不全って何だ。
意味はなんとなく分かるが、正確には一体どういった症状なのだろう。
スマホで検索しようとして、慌ててベッドに投げ捨てた。検索履歴に残すことも、汚らわしい単語である。
それに、いわゆるホクロフェチだったのだろうか。
エイミの左の胸の横側、脇から少し下の部分にホクロがあることは初日に気付いていた。背中を洗ってやるときに自然と目に入る。
身体にホクロがあるなんて珍しいことでもないから、意識したことはなかった。
だが、先のクリスデンの言葉を聞いて以来、つい目をやってしまう。
美也子はもちろん興奮したりしない。
それでも考えてしまう。そのホクロはクリスデンの目に入ったのか。ならばどういう状況で見られたのか。それを見てあの男は何を思って、何かしたのか?
『クリスデンとえっちなことしてたの?』とエイミに尋ねることなどできはしない。己の倫理観念に反する。
だが、気になっているのもの確かだ。
それを聞いてどうしようというのか。
していたらなんだというのか。いい年をした大人の男女なのだから。
いや、していてほしくない。そんなの汚い。あれは私のものだ。
だから、私のものじゃないって。
それに、勃起不全なのだからしていないはず。
いやいや、そもそも勃起不全って具体的にどういう症状なの? 調べたい、調べたくない。
散らかった思考は、テスト勉強には邪魔でしかない。




