30.及川 マスト ダイ その1
17話、18話から続く話になります。
昼食後の空いた時間、美也子は愛奈と一緒に話をしていた。
場所は本校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下。もう六月後半だというのに、今日は曇り空で穏やかに風が吹き、室内にいるよりも涼しい。
「ねぇ愛奈、二組に及川くんって男子がいるの知ってる?」
「んー、知らない」
さして興味もなさそうに首を振る友人に、美也子は頬を掻きながら告げた。
「同じ町内で小学校から一緒なんだけど。今度の土曜、二人で映画観に行くことになったの」
乾いた音がした。愛奈が飲んでいたパックジュースを落としたのだ。
びっくりしてその顔を見ると、この世の終わりのような表情をしていた。
「……なんでぇ?」
「何でって、誘われたから……。とりあず一回くらいは一緒に遊んでみようかなって」
「ヤダ! そんなのヤダヤダヤダヤダ、なんで、なんでぇ~?」
愛奈が激しく喚いてすがり付いてきた。
あまりの過剰反応にこちらも焦ってしまう。
「ど、どうしたの」
「ちょ、ちょっとそこで待ってて」
駆け出して行った愛奈を見送り、落ちたジュースを拾う。中身はこぼれておらず、廊下が汚れなかったことに胸を撫で下ろす。
及川との映画の件は、ぼかして保留にしていた。だが、このまま放置も申し訳なく、期末テスト期間に入る前に誘いに応じてみようと思ったのだ。
そして、異性と遊びに行くからには友人に報告すべきだろうという、女子特有の情報共有意識があった。ゆえに当然のように愛奈への報告に至ったのだが、彼女の反応が想定外の方向だったため、戸惑う。
彼氏と別れたばかりの傷心の身に何を言うのか、という悲憤の感情ではないようには見えたが。
数分後戻って来た愛奈は、真由香の手を引いていた。
真由香が般若のような顔をしているのは、愛奈に触れられているからではないだろう。
わざわざ一組まで行って連れてきたのか。いつの間に仲良くなった(?)のか。
「及川ってあの冴えないボウズじゃない! やめときなさいよ!」
開口一番、真由香は絶叫する。
愛奈も追随した。
「やめてやめて、美也子はそんなことしちゃだめぇ」
「あのクソガキ、美也子を狙っていたなんて! 金持ちでもないくせに」
「ちょっと、うるさいんだけど」
冷ややかな美也子の声に、女子二人は一旦沈黙した。
「何時に、どこの映画館行くのよ」
真由香が据えた目で尋ねてくる。
「えーっと、時間は十時十五分からのやつで、名古屋駅前のあのでっかいビル……」
「はぁぁあああ~? 及川のヤツ、気取りやがって!」
「なんでわざわざそこまで行くのぉ~、市内にもあるじゃない」
また二人が騒ぎ出した。
「市内の方は、車がないと行けないじゃない。名古屋なら電車ですぐだし」
冷静に説明すると、また真由香の質問がやって来る。
「あれでしょ、見終わった後ランチするんでしょ?」
「そうなるね」
すると鼻で笑われた。
「及川も大馬鹿だわ。映画終わったらちょうどお昼時じゃない。名駅で食べるところ探そうと思っても、すでにどこも大行列よ!」
「あたしもそう思う~。スマートに進めるなら、十一時半くらいにランチしてから映画観るよね、普通」
再度、愛奈も追随した。
妙に気の合う二人を、冷めた目で見つめてしまう。
「あっそう。じゃあ、そう及川くんに提案してみる」
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
「やめてやめてやめてぇ!」
騒ぎ立てる二人の声が耳障りで、腹が立ってきた。
「何で止めるの! 真由香ちゃんには以前言ったよね、彼氏ができるのは止められないって」
「それはそうだけど……」
「あたしには言われてないから、止めてもいいよね」
「愛奈は、私が一生独身でもいいの?」
「結婚まで考えてるの!?」
非常に煩い。二人しかいないが、これが『姦しい』というやつか。いや、自分も含めて三人、まさにその言葉がここに体現されているのか。
つい眉間を押さえてしまう。
しかしまさか愛奈が、美也子を思い留まらせるために真由香の助力を乞うとは、予想外だった。いや、そもそもここまで反対することさえ。
「第一、何で愛奈まで反対するの?」
「だ、だってぇ、あたしは、美也子がぁ~……」
もじもじし始めた。
そんな愛奈を横目で睨み舌打ちして、真由香が声を張り上げる。
「及川のヤツ、呪ってやるわ! ハゲの呪いと、一生童貞でいる呪いと、どっちが男にとってダメージ大きいかしら?」
「分かんないけど、両方かけたらいいと思う~」
調子を取り戻した愛奈が賛同する。
――こいつら……。
美也子は心で嘆く。
この二人は、引き合わせてはならなかったのだ。
「あの獣人は何て言ってるのよ!」
「エイミは……」
エイミの名を出されると、心が少し痛んだ。彼女は、この二人のように嫉妬すらしてくれない。
どうぞ行ってくださいませと、にっこりと笑っていた。
それならそれで楽しんできてやると、当てつけの気持ちがあることは自覚していた。
「二人みたいに、うるさく言ったりしないよ!」
苛立ちで、つい二人に当たってしまった。
愛奈の眉尻が下がり、真由香の眉は吊り上がる。
「美也子ぉ~」
「暗くなる前に、帰ってくるのよ! 家になんて行ったらダメだからね!」
「んもう、お昼ご飯食べたら帰るよ!」
長い溜息がこぼれた。
映画は、人気少女漫画の実写版だった。及川のチョイスである。
男子にはつまらないのではと思ったが、中学時代にクラスの女子の間で流行っていたので、それを覚えていたのだろう。
上映前、ポップコーンを購入するか聞かれたが、美也子は上映中には何も食べない主義であった。
それを伝えると、及川は美也子の流儀に合わせてくれた。その上、飲み物をおごってくれる。映画代も美也子の分まで出すつもりだったようだが、さすがにそれは固辞した。
映画が終わり、スタッフロールが流れると、席を立つ客も散見された。
「最後まで観る?」
及川は、小声でそう確認してきた。
「もちろん」
そう答えると、だよね、と呟きスクリーンに向き直る。
ものすごく気を遣ってくれているのだと感じた。
映画館を出て昼食場所を探すが、真由香たちの言った通り、土曜日の名古屋駅周辺の飲食店はどこも大行列だった。
愛奈のアドバイス通りに先に昼食をとってしまうと、手頃な上映時間のものがなかったのだ。
名古屋では食事をとれないだろうこと、美也子はとうに覚悟ができていた。さっさと地元へ戻れば済む話だ。
及川はそうでもないらしく、セントラルタワーのレストラン街を巡り、桜通口から太閤通口まで渡り(要するに名古屋駅を横断した)、地下街を一周し、ようやく『どうしようか』と聞いてきた。
それまで美也子は黙って着いて歩いていた。疲労感はあったが、映画に関していろいろと配慮してくれた及川のデートプランに口を出すことがはばかられたのだ。
「ええと、地元に帰ってファミレスか喫茶店行こうよ」
「そうだね」
悄然としながらも及川が同意してくれたためホッとする。
電車の騒音で腹の虫の音がかき消けされていくことに安堵しながら、地元に帰る。
駅から少し離れたファミレスでは、少し待ったが比較的早く席に着くことができた。
美也子がパスタを注文すると、及川も味の違う同種を注文した。ドリンクバーもつける。
「もうすぐ期末テストだよね。図書館で一緒に勉強しない?」
食事中、及川のその言葉に、パスタを巻く手が止まった。
「ゴメン、家の手伝いもやらなきゃいけないから」
もちろん母はテスト期間中くらい、手伝いは免除してくれる。だが、微妙な仲の異性と勉強なんて、集中できないに決まっている。
「朝は一緒に登校していい? できるだけ時間合わせるよ」
「朝は真由香ちゃんと一緒に行ってるから」
これも嘘。真由香と共に登校するのは、週の半分くらいだ。
「真由香ちゃん?」
「ほら、中二の時、及川くんは同じクラスだったじゃない。野沢真由香ちゃん」
「ああ、あの小柄でおとなしい子ね」
その印象はまさに表の姿の真由香を表す言葉としてふさわしい。本性は気が強く毒舌家の大人の女だ。
そのギャップに思わず笑ってしまう。
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」
「あ、コップ空だね。持ってくるよ」
「いや、いいよ! 自分で行くから、食べてて」
慌てて断ると、及川はそっか、と微笑んだ。
ドリンクコーナーで炭酸飲料を注ぎながら、及川のことを考える。
なんと細やかに気遣いできる男の子なのだろう。
他人のコップが空になっているかどうかなど、いちいち見ていられない。
美也子の持つ同年代男子の印象は、もっとやんちゃで粗暴なものだ。それに比べると、及川は非常に穏やかで丁寧だ。
隣の席だった頃は意識していなかったが、こうして二人で行動していると、それがよく分かる。
いい子だと思う。だが、ゆえに美也子にはもったいない気がした。
席に戻って、単刀直入に聞いてみる。
「ねぇ及川くん。私と一緒にいてもきっと楽しくないよ」
「え、何で?」
及川は目をしばたたかせた。
「家の手伝いがあるからそんなに遊べないし、だからこそ友達付き合い優先したい。そういうのイヤでしょ」
「うーん、確かにちょっと寂しいかも」
「だよね。それに私、がさつだから、ずっと気を遣わせてばかりで申し訳なくって」
「いや、それはいいんだよ」
「え?」
意外な返答に呆けた声が出た。
「気を遣うのって当たり前だよ。仲良くなりたいし、嫌われたくないからさ」
照れた様子で及川は続けた。
「うちの姉貴、去年結婚したんだけどさ。その旦那さんが、姉貴に対してすっごい気を遣ってるんだよね」
「うん」
突然始まった話の意図をつかめず、とりあえず相槌を打つ。
「尻に敷かれてるみたいで、最初は格好悪いと思ってたんだ。だから、姉貴が怖いからでしょ、って聞いたの」
「ストレートだねぇ」
「あはは、そうだね。そしたら、姉貴のこと好きだから、って答えるんだよ。俺もう恥ずかしくって」
その感情を誤魔化すように、及川は飲み物をあおった。
「好きだから、気を遣うのが苦にならないって言うんだ。媚びてるんじゃないって。で、姉貴の方も、よく見たら、ちゃんと礼を言ってるんだよな」
「へぇ?」
「旦那さんに何かしてもらったら、ありがとう、ごめん、助かるって。それで、二人でいる時はいつもニコニコしてるんだよね。その姿見たら、なんかいいな~って思って」
「そっか、それは確かに素敵かもしれない」
「そう、それで俺も早く彼女欲しいなって思ってさ」
及川は美也子を見てはにかんだ。その視線に込められた思いを感じ取って、ついうつむく。
これは遠回しに、告白しているのだろうか。
「ええと、私のどこがいいの?」
「人の悪口とか言わないじゃん」
「それは……」
当たり前のことだ。だが内心では、他人に対して、ムカつく、死ねと思ったことくらいある。
「ちゃんとお礼言うし、先生にタメ口使わないし、掃除の時とかテキパキしてるし。なんか、見てて気持ちいい」
褒めちぎられて、美也子は顔が熱くなるのを感じた。
「いや、気持ちいいって、変な意味じゃないからね」
「わかってるって」
気恥ずかしさを胸に秘めながら、美也子はパスタの最後の一口を咀嚼する。
「先生にタメ口なんてきいてたら、お母さんに殺されちゃうよ」
「だからさ、そうやってちゃんと親とかの言うこと聞くところがいいんだって。クラスのヤツらなんてみんな、カッコつけて反抗してさ、ガキみたい」
「私だってガキだよ」
「俺もガキだよ」
美也子は小さく呻った。どんなに謙遜して逃げても、及川が逃げ道を塞いでくる。
ここで初めて、映画の誘いに乗ってしまったことを後悔した。
このまま付き合おうかと言われたら、流れに乗ってしまいそうだ。断る理由がないのだから。
及川はいいヤツだ。このまま付き合って、一緒に過ごすうちに、愛情が湧いてくる可能性もある。
――付き合うことにしたら、エイミは何と言うだろう。
一瞬にして、頭の中が彼女で満たされる。
『おめでとうございます』と笑うのだろうか。それとも、嫉妬してくれるのだろうか。
エイミの反応を考えたら、胃のあたりが重くなった。
嫉妬してほしい。嫉妬してくれるのか、試したい――。
それが醜い思考だと分かっていた。及川への侮辱でもある。
「千歳さん?」
表情が陰ったことに及川が疑念を抱いたようだ。笑みで誤魔化さねばならないが、うまく笑えるだろうか。
その時、やけに明るい調子で声が掛かった。
「あれ、美也子じゃなーい」
それは果たして、助け舟となるのかどうかはまだ分からない。
ローカルネタですみません。
名古屋駅にはもっと他に食べる場所があるだろう!
と思われる方もいるかと思いますが、
及川くんは高校一年生なので、家族や友人と行ったことのある場所しか分からないのです。