25.家に帰ろう
カリュピナは気を失ってしまっていた。
エイミは取り戻したのだから、この人たちのことは放置して、今すぐここから逃げようか。
その誘惑は、良心を凌駕しえなかった。
「ヘラーさん、あの、大丈夫ですか……」
ヘラーは青い顔をしながらも、ソファに寝かせたカリュピナの頭を撫でている。
「ごめんなさい、あんなことになるなんて。ただの脅しのつもりだったのに……」
殺されても仕方のないことをした。罪悪感に泣きそうになる。
「お前が気に病む必要はない。警告を聞かず、手出ししようとしたのはカリュピナだ。それに、この者は獣人ほどではないが、高い順応性を持っている」
「……ヘラーさんは?」
答えず、ただ微笑む。
「私は、お前を連れずに帰る気はなかった」
切なげな表情を見せる年上の女に、美也子は何も言えず立ち尽くした。
「ひとまず帰れ」
追い払うような仕草をするヘラーには、質問がたくさんあった。これからどうするのか、お金は、仕事は、ネヴィラに家族がいるのでは。順応できなかったら、どうなるのか。
だが、それを聞いてもどうしようもない。
「ご主人様」
エイミの声がかかる。手を握られ、帰宅を促される。
「洗面所を借ります」
答えはないが、ひとまずエイミの血を濡らしたハンカチで拭ってやった。
ホテルのタオルは、ヘラーたちがまだ使うだろうから、汚すわけにはいかなかった。
「怖い思いをさせてごめんね、エイミ」
いろいろな感情のこもった涙があふれる。
「とんでもない……。わたくしこそ、ご迷惑をおかけしました。それに、ヘラー様たちは、わたくしの指を切り落とす気など、更々なかったはずです」
「ショック療法のつもりだったんだね。それでも、私は本当に死ぬほど怖かったんだから。それに、殴られたのは間違いないでしょ」
「それは当然のことです。わたくしは、ご主人様に会うために、魔導師協会の方々をたばかったのです。必ずご主人様を連れて帰ると言って。ご主人様がそれを拒否なさる可能性があると知りながら」
「エイミって、意外としたたかだね」
鼻をすすりながら、無理に笑みを作る。
「私よりずっとお姉さんなだけあるな。落ち着いてて、頼もしい」
抱きついて、すぐに離れた。今はひとまず自宅に帰って落ち着きたい。
エイミに隠密の魔法をかけてもらって、ヘラーたちの部屋を後にする。
最後の挨拶にも、返事はなかった。
エレベーターを降りると、心配そうな顔をして浮いていた悪魔が破顔し手を振ってくる。隠密の術を見透かしたようだ。
悪魔を見て、エイミは合点がいったようだった。
「魔女の――真由香様のお力を借りたのですね」
「うん。お礼を言わなきゃ」
「何をしたら喜んで頂けるでしょう」
「甘いものが好きだから、チーズケーキ作ってあげてよ」
エイミはレシピと材料さえあれば何でも作ってしまう。
「毛が入っていると、お怒りになりませんか?」
「あれ? もしかしてこの前のこと、根に持ってる?」
吹き出すと、エイミも笑った。少し、日常が戻って来たような気がする。ほんのわずかだけ心が軽くなった。
「美也子!」
エントランスを出ると、真由香が走り寄ってきた。
エイミと連れ添っている姿を見て、少し顔をしかめたが、それだけだった。
「心配かけてごめんね。とりあえず、エイミは無事に帰って来たよ」
「見れば分かるわよ。もう、ヘラーと二人で行っちゃったときは、どうなることかと思ったけど。……それで、ヘラー共はネヴィラに帰ったの?」
無言で頭を振る。
「また明日話す。だから、今日は帰ろう」
疲労が声ににじみ、真由香はそれを察したらしい。
「そうね。終わり良ければ総て良しって。私も、美容院に行かなきゃ」
「そのままじゃ、またいじめに遭ったかって思われちゃうもんね。美容師さんもビックリしちゃうかな、何て言うの?」
「うざかったからつい切ったって言う。……メンヘラっぽいかしら」
メンヘラの意味はよく分からなかったが、真由香はあえて軽口を叩いているようだった。場が和むよう、気を遣ってくれているのだろう。
「悪魔さんも、本当にありがとう」
「お安い御用よん」
「お二人とも、ありがとうございます」
エイミも、悪魔と真由香に深々と礼をした。悪魔は、丁重なエイミの姿勢に感心したようだ。
「可愛い獣人さん、蜂蜜ちゃんのライバルねん」
「余計なことを言うな。お前はもう帰れ」
「ひどぉい。今日一番頑張ったのはアタシなのに~ん」
大袈裟に嘆きながらくるくると回ると、不意に悪魔はエイミに接近し、頬に口づけた。
三人で驚いていると、エイミの顔の腫れが見る見る間に引いていく。
「余った魔力でサービスよん。これからも蜂蜜ちゃんをよ・ろ・し・く・ね」
ウインクして、真由香に向き直る。
「召喚時にもらった魔力はまだまだ余ってるから、またいつでも呼び出していいわよ~ん」
そして、気の抜けた爆発音と共にかき消えた。古風なアニメの演出のようだった。
真由香は大きく嘆息した。
「真由香ちゃん」
「真由香様」
「礼はいらない!」
再度謝意を述べようとする美也子とエイミに、真由香はつっけんどんに叫んだ。
それから言葉数少なく、三人で歩く。真由香は途中で行きつけの美容院の方向へ向かった。
真由香には申し訳ないが、その姿が見えなくなった後、エイミとしっかり手を繋ぐ。
家に帰るころには、すっかり暗くなっていた。
玄関を開ければ、すでに母の靴がある。こういう時に限って、帰宅が早いと苦笑するしかない。
「美也子、どこ行ってたの。洗濯物もそのままで」
リビングに仁王立ちしている母の声は、まだ怒ってはいない。
「ごめんなさい、事情はちゃんと説明する……」
「エイミちゃん!?」
美也子の言葉を遮り、母は愕然と叫んだ。エイミの服に点々と残る血の跡を見つけたのだ。
「えっと、エイミが誘拐されたから取り戻しに……」
「どういうことなの?」
母の声が厳しさを増す。美也子とエイミを交互に見た。
次の瞬間、美也子の一歩後ろにいたエイミが進み出て、リビングの床に平伏した。
「お母様、申し訳ございません!」
「エイミ、そんなふうにしなくていいから」
慌てて起こそうとするが、エイミはびくともしなかった。
「この度はわたくしの不手際で、ご主……美也子様を、ご息女を危険な目に遭わせてしまいました。伏してお詫び申し上げます。二度とこのようなことがないよう努めますので、何卒お許し下さい!」
しばしぽかんとしていたが、母は大仰に嘆息して見せた。
「エイミちゃんにそんな謝り方されたら怒れないわね」
獣耳を震わせるエイミの前に膝をついて、その腕を引いて立つように促す。
「二人とも無事に帰ってきたのなら、それでいいわ」
朗らかに笑い、場の空気を和ませるよう、テキパキ指示を出す。
「さぁ、エイミちゃんはその服を洗濯してきて。血液汚れ用の洗剤がある場所は知ってるわね。そして美也子はお風呂を掃除して、お母さんはうどんを茹でる。それでいいわね」
その目が美也子を鋭く見ている。
後で事情を聞かせなさいと、無言で告げていた。