22.大魔導師ヒュー・クリスデン
どこかで幼い少女が泣いている。
恥も外聞もなく大声を上げて。
わがままを言っているわけではなく、本当に悲しいことがあったのだと分かる泣き声だった。
――違う、幼い子ではない。エイミだ。
床にくずおれて子供のように泣き喚いている。
頭を撫でてやろうと手を伸ばした。
――私の手じゃない。
それは、骨と皮だけの痩せこけた手だった。
「エイミ、そんなふうに泣かないでよ」
自分の口から出たのは、かすれた男の声。
「だって、だってご主人様、わたくしを置いていってしまわれるなんて」
しゃくりあげながら獣耳の少女は言った。
「永遠の別れってわけでもない。すぐに僕はいずこかの世界に生を受ける」
「そんなことは分かっています! それでも、わたくしは――」
転生すると知っていても、別れは辛い。
あまりに胸が痛む。
この健気な娘のために、何かしてやりたい。だが、『自分』はもうすぐ死ぬ。それを選択したのは、『自分』なのだ。
すさまじい後悔で胸が引き裂かれるようだった。
場面が変わった。
若い女性が、中年の女性の膝にすがり付いて泣いていた。
美也子はそれを少し高い位置から見ている。誰かに抱かれているのだ。
女性は母親で、中年の方は祖母だった。美也子の知る姿より、だいぶ若い。
「私も死にたい、死にたいよぉ」
「そんなこと言ったらあかんよ。あんたにはまだ美也子がおるやないの」
「でも、だってぇ」
母は幼子のようにぐずっている。
美也子を抱くごつごつした手、手首の腕時計は覚えがある。おそらく祖父だ。ぐすぐすと鼻をすする音が聞こえる。
「そんなに泣いとったら、義孝くん成仏できんやろ?」
「成仏しなくていい、側にいてほしいよぅ!」
――ああ、これ、お父さんが死んだすぐあとなんだ。
美也子には父の記憶がない。写真の中でしか知らない。
いつも毅然としている母が、あんなふうに泣いていたのか。
愛する人が死ぬ辛さを、美也子は未だ知らない。
また場面が変わった時、眼前に若い男が立っていた。
「まさか悪魔の力を使ってくるなんて。面白い友を得たなぁ」
赤毛で長身、灰色のコートを着ており、苦笑しながら頬を掻いている。その反対の腕の先では、真由香の悪魔が首根っこを押さえられて憮然としていた。
ここはどこだと辺りを見回せば、何もないただ白いだけの空間だった。
「あなたがクリスデンね」
美也子は直感した。そしてここは美也子の記憶の中なのだと。
「僕はクリスデンじゃない。クリスデンは即ち君だ」
問いを否定する男に、美也子は眉をひそめた。
「じゃあ、あなたは何なの?」
「記憶の守り人。未来の自分へのメッセンジャーとして、かつての君が遺したものだ。魂の深奥に」
胸のあたりを指さされ、美也子はしばし考え込んだが、すぐにあることに思い至る。
「……まさか、昔、お母さんと接触したのって、『あなた』なの?」
「そうだよ。ご夫君を亡くされたばかりの静香さんを見ていられなくてね」
男は当時のことを思い出したように悲痛な顔をした。
「……ありがとうって、言うべきだよね」
「いやぁ、美人が困っているなら手を差し伸べたくなるさ」
軽薄な物言いに美也子はわずかな嫌悪を感じてしまう。
「……どんなイケメンかと思ってたけど、わりと普通の顔」
つい皮肉が口をついた。
男は気にしたふうでもなく、ただ笑う。
「よく言われるよ」
「それ、何歳の時の姿なの?」
「えーと、たぶん百歳くらい」
美也子は耳を疑った。
「百三歳で死んだんでしょ? そんなに若かったの?」
「老いて死んだわけじゃないんだよ。肉体の維持に回す魔力を停止したから、身体が弱っていったんだ。衰弱死かな」
確かに、眼前の『クリスデン』は疲れたような顔をしている。よく観察すれば、目元に病的な隈ができているし、手の甲にも骨が浮いている。
「自殺ってこと?」
「緩慢な、ね」
「どうして……」
美也子が愕然と呟くと、男は肩をすくめた。
「疲れたから。来世に乞うご期待、ってやつをしたのさ」
「……エイミが泣いてたじゃない!」
つい声を荒げてしまう。だが、強く後悔をしていたことは先程知った。
「ネヴィラに残した唯一の悔恨さ」
自嘲する男に、悪魔が楽しそうな眼を向けている。人間の内情を知ることができ、嬉しいのだろう。
「記憶を、魔法の知識を、私にくれるの?」
「どうしようか」
のらりくらりとした態度に、苛立ちを隠せない。
「エイミを助けたくないの? あなたが自殺したから、ネヴィラの人が追ってきて、エイミを人質にしたんじゃない!」
暴力まで振るわれて、可哀相なエイミ。無責任な前の主人と、無力な今の主人のせいで。
睨み据えると、男は小さく息を吐いた。
「知識を復活させたたけじゃ、意味ないよ。分厚い研究書をそのまま渡すようなものだ。研鑽を積んで、ノートから必要な内容を瞬時に検索できるようにならないと」
「……その経験値は、引き継げないんだね」
落胆に肩を落とす。
「そう。僕が百年かけて習熟したもの。答えだけ分かっていても、方程式を理解していないと何の意味もない。解答だけ書いても、テストで点はもらえないでしょ」
「……それはそうだけど、マークシート式なら大丈夫じゃない?」
それが屁理屈だと分かってはいたが、男の態度に焦れ込み、つい口をついてしまった。そんな美也子を男は笑い飛ばした。
「それでも、提示された問題を見てからノートをめくっていたら、すぐにタイムオーバーさ」
ぐうの音も出ない。
男は大仰に手を広げた。
「それに、一から魔法を勉強するのって面倒臭くない? この世界で生きていくんだったら、英単語の一つでも覚えたほうがよほどいい」
「でも、こういう状況は想定していなかったの? 私が魔法を必要とする状況を」
のんきな物言いにやきもきしてしまう。
「してあるよ」
男はにっこり笑った。
「とっておき、一番簡単で一番配点の高い問題の答えを教えてあげる。方程式なんていらないさ」
下手なウインクを飛ばされて、美也子はため息を吐いた。
「……あなたって、想像していたイメージと全然違った。子供っぽくて、いい加減で面倒臭がりなんだね」
そこまで言って、笑う。
「……私とよく似てる」
少し、恥ずかしい。
「真由香ちゃんは、あなたを冷酷で傲慢だとか言ってたけど――」
「それはそうだよ、年を取ればどうしてもそうなる。責任のある立場になって、無能な部下やクソみたいな上司、底意地の悪い同僚に囲まれたらね」
「そ、そっか、そういうものなの」
納得できなくもないが、まだまだ高校生の美也子にはピンとこない。部活にも入っていないので、先輩後輩の関係も未経験だ。
男はへらへらしながら続ける。
「それに、前世の記憶なんて覚えていないに越したことはないんだよ。君だって、来世の自分にプライベートを知られたいの?」
美也子には来世のことなど想像が付かなくて、黙ってしまった。
「僕のこと知りたい? 座りっぱなしで痔気味だったことや、ホクロが胸や尻にある女にやたら興奮すること、四十代ですでに勃起不全だったこと」
「…………」
思いもよらぬ単語の羅列に、美也子は嫌悪の眼差しを向けた。
「ほらぁその目、来世の自分にそんな可哀相な目で見られたい? ちなみに今のは全部嘘だからね」
「そういえばエイミは、左胸にホクロがあるよね」
「そうだったかな?」
しらばっくれる男に、美也子は声を荒げた。
「お風呂に一緒に入ってたんでしょ! いやらしい!」
「ほらほら、そういういかがわしい想像が膨らむでしょ。余計なこと知っちゃうとね。僕たちは男と女で、ジジイとJKなんだから、残念ながら分かり合えない」
「私が年を取ったとき、あなたを反面教師にすることができるじゃない!」
気付けば悪魔が口を押えて笑いをこらえている。
前世と今世の自分の嫌味の応酬なんて、悪魔にとっては一大スペクタクルなのだろう。
「ねぇ悪魔さん、さっき私にあんな悲しい記憶を見せたのは、あなたのせい?」
非難がましく問うと、悪魔は困ったように言う。
「そんなわけないでしょぉ。あれはクリスデンちゃんがやったのよ~」
「あんな記憶を見せられたら、もう死んでも死ねないじゃない。意地悪だわ」
きつく男を睨むと、ばつの悪そうな顔をした。
「僕が後悔していることを、君には容易に選んで欲しくなかった。ただ、それだけだ」
そして真剣な眼差しを向けてきた。
「――千歳美也子に問いたい」
「ど、どうぞ」
場にぴりりとした空気が満ち、美也子は息を呑む。
「生きることは誠に辛い。生きる限りは常に愛しい者との別れを経験しなければならない。そして死ぬことも辛い。見送る者が泣き叫ぶ様を見ながら逝かねばならない。君はどちらがましだと思う?」
「そんなのもちろん、今度は、私が泣き叫ぶ番でいいわ」
迷うことなどない。エイミと共に長生きして、祖父母を、母を見送りたい。
「そうか、ありがとう。来世に記憶を繋いだ意味があるってものだ」
男は清々しく笑った。それは、とても魅力的な笑みだった。モテていたというのも理解できる。
美也子も年を取れば、あんなふうに笑えるようになるのだろうか。
だが、自虐と下ネタで笑いを取る姿はやはり反面教師にしたい。
「エイミを頼めるかな?」
「当たり前でしょ!」
「ありがとう」
真摯な男の礼に、美也子は笑みを返す。
「よし、作戦会議だ。僕らの可愛いエイミにひどいことをしたヘラーさんたちに、思い知らせてやろうじゃないか」
そういって唇を吊り上げた男は、百年生きた老獪な魔導師の顔をしていた。
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