20.お前は何者だ
自室の中央で美也子はへたり込んでいた。
魔導師協会についてエイミが言っていたことを思い出す。
残飯を与えられて、貯金を没収されて。
けだものだと罵られて、挙句にあの暴行。
エイミは人間扱いされていない。あんなやつらのところに何年もいたというのか。
今だって、どんな目に遭っているか分からない。
だが美也子には解決策がなく、無力な自分に涙するしかない。
その時、インターホンの音が響いた。
オートロックの正面玄関からのものではなく、共有廊下から鳴らされているものだ。
――おそらく、真由香だ。
リビングの壁にかかるモニターを確認する手間を惜しんで、すぐにドアを開ける。
私服に着替えた真由香が立っていて、泣き顔の美也子を見ると目を丸くした。
「真由香ちゃぁん」
「ど、どうしたの」
思わず抱きつくと、真由香は一瞬身体を硬くしたが、落ち着かせるように背中を撫でてくれた。
家に招き入れて、リビングで事情を話す。
「真由香ちゃん、エイミを助けて」
腰にしがみついて懇願すると、真由香は苦い顔をした。
その理由を悟り、美也子の涙が止まった。
真由香は、エイミを嫌っている。美也子に最も近しいエイミに強い嫉妬心を抱いている。助けてはもらえないかもしれない。
絶望の眼差しで真由香を見ると、今度は彼女が泣きそうな顔をした。
「そ、そんな顔しないでよ」
「真由香ちゃん……」
「あなたにそんなふうにすがり付かれて、無視できるわけないじゃない」
「ありがとう、真由香ちゃん」
年上の魔女の言葉に安堵し、鼻をかむ。
「でもヘラーが来るなんて。しかもあの女、副長になったのか」
「知ってるの?」
「直接の面識はないわ。あの女は、先々代の魔導師協会長の娘で、クリスデンの研究仲間。単に順応性の高さだけで人選されたならいいけれど、もしかするとクリスデンのこと満更でもなかったのかしら……」
「すごく冷酷そうに見えた」
美也子を小娘だと嘲弄したその表情が忘れられない。
――ふと、脳裏をかすめる姿があった。
「工藤さんは関係あるのかな」
「確かに、ちょっかいを掛けたその日にこんなことが起こって、偶然にしてはでき過ぎているわね」
「ヘラーって人が変身してたってことはないよね。この世界には魔力がないから、頻繁にはできないってエイミが言ってたし」
工藤は毎日学校に来ていた。それにヘラーたちは明らかに美也子と初対面の態度だった。
「美也子、工藤の連絡先は知っているの?」
「うん、一応……」
「電話してみなさい」
「えっ!」
真由香の指示に驚く。
「なりふり構っていられないわ。少しでも情報を引き出して」
「分かった……」
震える手でメッセージアプリを起動して、コールボタンをタップする。
今の時間は部活中ではと思ったが、意外にも数コールで応答があった。
「あの、工藤さん……」
唇がわなないて、うまく言葉を紡ぐことができない。
「今日は、面白いことをやってくれたわね」
電話の向こうから聞こえる工藤の声は冷たく、硬直する。
「く、工藤さんも、魔導師なの?」
「『も』ですって? 他にたくさんいるのかしら。――あなた以外に」
やはり、美也子の前世を知っていたか。
「お前、何者だ!」
横で耳をそばだてていた真由香が声を張り上げた。
「ネヴィラの魔導師協会の手先だろう! ヘラー共に情報を流したか!」
しばし、工藤は沈黙した。
「……知らないわ」
少し、困惑しているような声音だった。
真由香の眉が吊り上がり、尋問口調で叫んだ。
「嘘をつけ!」
「本当よ。私はそんなもの知らない」
「じゃあ、工藤さんは一体何なの?」
美也子が尋ねると、工藤は小さく息を吐いたあと、しっかりとした口調で答えてくれた。
「私は、普通の人間よ。ただ、ちょっとだけ前世の記憶がある。その伝手で、ある人から千歳さんの監視を依頼されていたの」
「それがヘラーっていう、金髪の人じゃない?」
「違うわ。異世界の人じゃない、純日本人だもの」
「異世界の人じゃない?」
今度困惑するのは美也子の番だった。この世界の人間にも、美也子は目を付けられているというのか。
「千歳さん、その様子だと、何かとんでもないトラブルがあったみたいね」
「そ、それは」
工藤の声には、やや心配するような響きがあった。
「解決を手伝ってあげましょうか?」
意外な言葉に、真由香と顔を見合わせる。
「どうやって?」
「言ったでしょう、私には伝手があるって。連絡すれば数日内には……」
「……数日じゃあ、ダメだ」
絶望する美也子に、電話の向こうの工藤は何かを察したようで口をつぐむ。
「……そう、急ぎなのね。ごめんなさい」
「こっちこそ急にごめん、せっかくの厚意を断って。もう少しこっちで考える」
「いいのよ。ひとまず、あなたが困っていることを伝えて、準備だけしておいてもらいましょうか?」
「そうだね、お願い」
美也子の請願に、工藤の声がやや厳しくなる。
「相応の借りができるわよ。私ではなくて、ある人に」
「そんなの、構わないよ」
電話を切って深く息を吐く。すさまじく緊張していたようだ。
「なんだかややこしくなってきたわね」
真由香がぼやいた。
「工藤に悪戯した日にヘラーが登場したのは、ただの偶然か。でも、他にもあなたを狙っている人間がいるなんて」
「……うん。落ち着いたら、工藤さんとはもっと話さなきゃ」
美也子の監視を依頼したという『ある人』。その者の正体を知る必要があるだろう。
真由香も眉根にしわを寄せて呟く。
「それに、工藤は『私は普通の人間だ』って言ってたけど、絶対に嘘よ。私が魔法を使った時、真っ先にこっちを見たときのことは忘れてないわ。あんな鋭敏な察知能力があるなんて、ただ者じゃない」
懸念事項が増えてしまったが、今はとにかくエイミのことだ。
「真由香ちゃん、どうしよう。やっぱり工藤さんにお願いしたほうがよかった?」
だが数日かかるようでは、エイミの指が何本か無くなってしまう。一刻も早く行動を起こさねば。
「いいえ、方法はなくもない」
「どんな方法?」
「居場所を追跡するだけなら私の力で簡単にできるの。でもそこからが……」
なぜ真由香が言葉を濁したのか、すぐにピンと来た。
「争いになるかもしれないんだね」
「不意打ちしても私の力で二人相手にできるか分からない。大怪我させてネヴィラに追い返せばいいんだけど、それでも渡界できる魔力が溜まればまたやって来る。今度は入念な対策をしてね」
美也子は息を呑む。今回乗り越えられたとしても、また危機が来るなんて。絶望感に血の気が引く。
「だからあなた、記憶を取り戻せるか試したらどう?」
「で、できるの?」
意外過ぎる真由香の言葉に顔をしかめた。真由香は静かに頭を振る。
「確証はない、試すだけ。でも成功すれば、あなたの力でやつらを追い返して、以後自衛するもよし、いっそクリスデンとして帰るのもよし。……その場合は私も帰るわ」
「でも真由香ちゃんは仲間に恨まれてるんだよね?」
おずおずと問うと、真由香は寂しく笑った。
「あなたのいない世界で生きていても仕方ないわ。あなたがネヴィラで魔導師どもを相手に戦争するっていうなら、私も隣に立つ」
それは、尽くしても愛されないことを理解している、覚悟を決めた者の笑みだった。
美也子はすぐに返答できない。
記憶が戻れば、愛奈のように元の世界に帰りたいと望むようになるかもしれない。――母を棄てて。
だが記憶がなければ、エイミを救うことができない。
脳裏に、血まみれで腫れた顔のエイミの姿が浮かんだ。あんなに痛めつけられているのに、助けを乞うこともなく美也子のことを案じていた。
「真由香ちゃんは、私が記憶を取り戻したら嬉しい?」
「いいえ」
はっきりと真由香は答えた。
「今の、幼くて優しい美也子が変わってしまうのは、寂しいわ」
「ありがとう真由香ちゃん。その言葉、本当に嬉しい」
美也子は真由香の強く手を握る。胸いっぱいに広がる、感謝の気持ちを示すように。