16.ひとまず、凪
「母親が夕食用意して待ってるだろうし、帰るわ」
しばらくソファに座ってうなだれていた真由香が、唐突に顔を上げた。
その中身が異世界の魔女のものだとしても、今の家族を思う気持ちを感じた美也子は微笑む。
「うん、それがいいね。お母さんたちは、真由香ちゃんの中身が変わってること知らないんでしょ? 目が赤いから、心配かけちゃうね」
「まぁ、母親は私のこと、どこかおかしいって気付いているみたい。死にかけたショックだって無理に納得してるようだけれど。記憶は元の真由香のものを受け継いだけど、中身は三十路だし。それに私、どうしても方言が喋れなくって」
そう真由香は失笑した。確かに真由香の両親はきつい尾張弁を喋る。
「うん、あれは真似するのは難しいかもね」
美也子もつられて笑う。それから玄関先まで見送った。
「あなたにあげたウサギの置物、本当にあなたを守っていただけなの。もう術はあの獣人が解いちゃったみたいだけど、気味悪がらず置いてあげて」
そう言った真由香は、嘘をついているようには思えなかった。その言葉を信じ、あのウサギは捨てたりせずに置いておくことにしよう。
「分かったよ、ありがとう。エイミよりずっと昔から、私を見守ってくれていたんだね」
「……やめてよ、また泣きそう」
深くうつむいたまま、真由香は帰っていった。エレベーターではなく階段を選択したところを察するに、帰宅までに少しでも落ち着いておきたいのだろう。
その心情を思うと切なくなるが、走って行って抱き締めてやることなどできはしない。同情でそれをしたとしても、きっと真由香を傷付けるだけだ。
「あのかたは、お帰りになりましたか」
家へと戻ると、エイミが部屋から顔を出す。頬が少し腫れていた。
「ごめんエイミ、かばってあげられなくて。私、びっくりして」
「滅相もございません、ご主人様が気に病むことなどありません」
優しい笑みを浮かべるエイミのうなじを撫でてやると、目を細めて喜んだ。
「エイミ、リーサって魔女のこと、知ってる?」
「いいえ、存じません。あのかたはわたくしをご存知のようでしたから、会ってはいるのでしょう。ですが心当たりのあるかたが多すぎて。クリスデン様の周りには、大勢の魔女、魔導師、その他の種族が集っていました」
「へぇ」
『大魔導師』と呼ばれるだけあり、人気者だったのだなぁと感嘆する。
ではその人気者の女性関係はどうだったのだろうか。
「えっと……恋人とか、奥さんはいなかったの?」
「はい、伴侶はお持ちになりませんでした。もちろんお子様もおられなかったはずです。クリスデン様は、莫大な力を持つ自分が、うかつにそういったことを為す危険性を承知しておられましたから」
「モテたのに、自制してたんだ」
さぞ魅力的な爺さんだったのだろう。今も現役で活躍している日本のとある老俳優を想像した。
「そうですね……ただ、正直申し上げると、若かりし頃のことは分かりかねます」
複雑そうなエイミの顔を見るに、若い頃は遊んでいたのかもしれない。
「あはは、そっか。……私も、あんまり色々な人と付き合ったりしないほうがいいのかな?」
「ご主人様はまだまだお若い。今は存分に交友関係を広げたほうが宜しいかと」
「そう……エイミはイヤじゃないの?」
何気なく言った言葉だったが、エイミは目を丸くした。
「えっ?」
「私が色々な人と友達になったり、恋人ができたりしたら。真由香ちゃんみたいに嫉妬して怒ったりしない?」
すると、エイミは予想以上に動揺を見せた。
「ご、ご、ご主人様の交友関係に口を出すなど、とんでもないことでございます」
「やっぱりちょっとイヤなんだ」
くすりと笑うと、エイミは激しく頭を振る。
「そんな、わたくしはただの下僕でございますゆえ、滅相もない」
「私は、エイミのこと下僕だなんて思ってない。だから嫉妬して怒っていいよ」
「お戯れが過ぎます」
焦るエイミをすっかりからかう形になる。
エイミはしばし逡巡していたが、意を決したように口を開いた。
「ですがもし、わたくしが嫉妬してしまったら、どうなさるのです……」
「えーっと。謝る、かな」
「謝る?」
エイミは何度も瞬きをする。
「うん、エイミのこと一番にできなくなってごめんって」
本心からの素直な言葉だったが、エイミは見る見るうちに真っ赤になった。
「……今は、一番だと思って下さっているのですか」
「え? そりゃあね」
それは当然のことだ。そうでなければ毎日一緒に風呂に入ってやるものか。
するとエイミはぼそりと呟いた。
「ご主人様は本当に『たらし』でいらっしゃる」
「ど、どういうこと?」
慌てて聞き返すが、答えは返ってこなかった。代わりに手を握られる。
「さぁご主人様、夕飯に致しましょう」
「うん、そうだね。今日は本当にくたびれたよ」
「それは、お疲れ様でございます」
手を繋いでリビングまでの短い距離を歩く。エイミの足取りはどこか軽く、そして三角の耳がピンと立っていた。
翌朝、エレベーターで真由香と遭遇した。
「あ、おはよう真由香ちゃん」
「……おはよう」
少しバツが悪そうに見えたが、目を見て挨拶してくれたので安堵する。
「昨日はあれから大丈夫だった? お母さん心配してなかった?」
「問題ないわ。母親より父親の方がしつこかったわよ。学校でいじめにでも遭ってるんじゃないかって」
つんけんした態度だったが、不快げではなかった。実の両親ではないが、騙すような形で養ってもらっている以上、彼女なりに恩を感じているのだろう。
「実際いじめて来たヤツには百倍にして返すけどね。ほら、中一の時、夏休み明けに転校して消えたメスガキが数人いたでしょ」
からからと笑う真由香には、今までの面影は一切ない。恐るべき変貌ぶり――いや、こちらが本性か。一体どれだけ深々と猫を被っていたのやら。
「はぁ、あはは」
美也子は乾いた笑いを返しておいた。報復の内容を仔細に尋ねる勇気はなかった。
「それでね、美也子」
呼び名からは『ちゃん』が外れていた。だがその方がしっくりくる。
「どうしたの?」
聞き返すと、真由香は急にもじもじし始めた。
「来年からクラス同じになるように操作していい? あと、大学も同じところに行っていいわよね……? あっ、毎日一緒に登校したいなんて言わないから!」
「なんだ、そんなこと遠慮しないでいいのに」
思わず吹き出すと、真由香はうつむいた。怒りを買ったかと思ったが、どうやら照れているようだ。口元を震わせ、にやつくのを我慢しているように見える。
「でも、私はこれから新しい友達も作るし、もしかしたら彼氏もできるかもよ。それは真由香ちゃんには止めることはできないからね」
ためらったものの、はっきりと言っておく。途端に真由香はひどく傷付いたような顔をした。
「……分かっているわよ。でもクズ男と付き合ったりしたら、そいつ呪うから。私は、魔女だからね」
吐き捨てたその横顔は、確かに冷酷な魔女のものだった。
その後、教室で。
元気に登校してきた愛奈を見て、美也子は胸を撫でおろす。
だが努めて笑顔を作っていることが分かった。
心配して机の周りに集まるクラスメイトに、愛奈は明るい調子で彼氏にフラれたのだと言った。あえてクラス中に聞こえるような大声で。それは、昨日教室を悲壮な雰囲気にさせたことへの贖罪だ。
本心から愛奈を慰める者だけではないだろう。野次馬根性をひそませた底意地の悪い女子に、彼氏の後釜を狙う男子。
それらの存在を知っているだろうに、朗らかに笑う愛奈が健気で切なかった。