107.この世界で生きていく(挿絵あり)
※文末に挿絵を載せております。閲覧時、ご注意ください。
「ただいま」
帰宅すると、すぐにエイミが迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
靴を脱いで廊下へ上がると、エイミが腰を曲げて目線を合わせてくる。いつものように、ただいまのキスをした。
「オムライスを食べましたか?」
「う、うん」
ケチャップの風味が残っていたのだろう。気恥ずかしさに、美也子は肩をすくめて小さく笑う。
「ところでご主人様……」
口づけに上機嫌だったその表情が曇る。
「あのかた、お帰りになられません」
「ええ~」
慌ててリビングへ向かうと、ソファには幼い悪魔が鎮座していた。美也子のTシャツを着て、無表情のままテレビを眺めている。
美也子は努めて自然な声で尋ねた。
「あれ、リュー、今日帰るんじゃなかったの?」
するとリューは冷ややかな目で美也子を見た。
「その方がよかったか?」
短い脚でソファから飛び降り、ずんずんと音を立ててやって来る。
「お前は、このわたしを使うだけ使って、用が済んだらさっさと帰れと言うのか」
憤然と抗議するリューに、美也子は気圧され冷や汗をかく。
「ゴメン、そういうつもりじゃないよ」
その軽い身体を抱き上げ、頬ずりする。
「リューには感謝してるんだから。じゃあ、魔力が切れるまでこっちにいてよ、ね」
本音を言えば、さっさとエイミと二人きりになりたかった。
春休みの間に『厄介事』が片付いて、ようやく戻って来た日常。ゆえに、これでもかと言わんばかりにエイミを愛でて、あれしてこれしようと想像を巡らせていたのだが。
だが、リューにはとてつもなく大きな借りができてしまったのだ。彼女なくしては、美也子の人生を賭けた願いは実現しなかっただろう。
都合のいい時だけ呼び出して、用が済んだら帰っていいよ、というのは美也子の倫理観に反する。それでは、遊び人のクソ野郎同然ではないか。
しばらくリューには頭が上がりそうにない。
それでも、不意のキスを避けるのは上手になったと思う。
現に今、頬ずりの隙をついて唇を近付けてくるリューを引き離すことに成功した。
「魔力はもうあげられないよ。回復期間だからね」
「魔力を吸わないように行うこともできる」
「いや、いらない」
床にリューを下ろすと、眉間にしわを寄せていた。仕方ない、と美也子はその頭を撫でてやる。
「じゃあ、今からアイス食べに行こうか」
「……殊勝な心掛けだな」
「そりゃどーも。着替えてきなよ」
小走りで美也子の部屋へ向かうリューの背中を見送ったあと、エイミに向って両手を合わせ無言の謝罪をする。
「ではわたくしも同行します」
それは予想外の言葉だった。
「あの悪魔はご主人様に何をするか分かりませんから、監視としてついて行きます」
「……うん、いいよ」
有無を言わさぬ笑みに、快諾するしか道はなかった。
本音を言えば、二人の狭間で過ごすと疲労が半端ない。二人とも頑固で一歩も譲らず、水と油のように混ざり合う余地が一切ない。
愛奈と真由香のように御せぬものかと、エイミに気付かれぬよう小さく溜め息を吐く。
「わたくしも余所行きの服に着替えて参ります」
エイミもまた、美也子の部屋へ駆けていく。鉢合わせしたところで、彼女たちは一切会話しないだろう。
美也子は己が制服姿であることにようやく気が付いた。自分も着替える必要がある。
結局、狭い自室に三人が集い、下着姿をさらし合った。
リューへのアイスのご褒美は、コンビニのイートインで済ませることにした。喫茶店やカフェだと単価が高いし、つい今しがたファミレスでランチしてきたばかりだ。
窓際のカウンターに三人で横並びに座る。もちろん真ん中が美也子だ。
ソフトクリームに夢中のリューは、外見年齢相応の少女の顔をしている。
とても可愛いが、彼女を見た時の神々の反応を思い返すと、複雑な気分になる。どこぞの神など、ひっくり返ってそのまま姿を消してしまった。
この悪魔は果たして、一介の女子高生が専有を許される存在なのだろうか。
ちなみにうちの神様は、リューを見た途端に憤怒して美也子を罵倒した。だが兄姉の痴態を見た瞬間、指をさしてけらけら笑いだした。
ネヴィラの神にも恨みつらみをぶつけられるかと思いきや、美也子に一瞥さえくれることはなかった。金髪の女性を伴い、彼女にすっかり夢中のようだった。
むしろ、その女性に睨まれていた気がする。
神々の人間臭いさまを見た美也子は呆れ果てた。こんな人たちに管理され生殺与奪を握られているという事実に怒りが湧くが、どうしようもない。
きっとクリスデンも同じように思っていたのだろう。
「ご主人様?」
美也子の顔が曇ったことを悟ったエイミの声がかかる。その手を、テーブルの下でそっと握った。
幻術で作られた顔が驚きを示したが、すぐに柔らかく微笑む。ここが公共の場でなければよかった、今すぐキスがしたい。
やはり、リューには早く帰って欲しいなと思ってしまった。
その時、スマホが鳴動し新着メッセージの受信を告げる。
見れば、ヘラーからだった。
五月の連休に、温泉旅行にでも行かないかと書いてある。
まさか二人でだろうか、襲われやしないだろうか、と不安になる。
鰻料理屋で再会して以来、彼女とは懇意にしていたから、性急すぎる誘い、というわけでもない。
しかし――最初は、親戚のおばさんのような感覚で接していたが、どうも会うたびにボディタッチの度が増してくるし、どんどん言葉が馴れ馴れしくなってくる。
最後に会った時は、胸元の開いた服で現れた。その右胸に、小さくもはっきりとしたホクロを発見してしまった。
それを、あのホクロフェチの大魔導師は知っていたのだろうか。さぞかし興奮して、手を出したのではあるまいか。
「まさか、ね……」
そんなことはないだろう、という願いを込めて呟く。
大魔導師の『汚い記憶』を管理しているリューに尋ねてみてもよいかもしれない。返答次第では、ヘラーとの付き合い方を考えなければならない。
再度スマホが震える。今度はイザベルだった。
平仮名ばかりの日本語で、五月の連休に、絹代に内緒でイギリスへ来ないかと書いてある。事が成ったお祝いをしたいそうだ。旅費は、欧州のアスラコミュニティが出すとのこと。
コミュニティのアジア地域元締めである絹代は、当面は日本で自由に過ごしてもらって構わない、むしろ未成年を渡欧させるなどもってのほか、と言ってくれたが、ゆえに他地域のコミュニティからのバッシングを受けているようだ。
それに関しては恐縮するばかりだが、外国語を勉強するようにと強く念を押されている。まったく面倒なことだ。
――さて、返事はどうするか。
それはもう決まっている。
温泉旅行も、イギリスも御免だ。
だって、母とゆっくり過ごしたいし、友人たちとも遊びたい。何より、エイミを留守番させることになってしまう。
ああ、勉強もしなくてはいけない。
この世界で生きていくのだから。
【完】
これにて「本編」を終了とさせて頂きます。
あとは、蛇足的になってしまいますが、サブキャラ視点の番外編を何話か投稿し、完結といたします。
もうしばらくお付き合いくださいませ。
ネヴィラ神が伴っていた金髪の女性は、魔導師協会のセントライナ支部長であり、ヘラーさんたちの上司であり、クリスデンの唯一の弟子で、彼の帰還を強く待ち望んでいた人でもあります。だから美也子に対して怒り心頭でした。非常に気の強い、厳しい女性で、そのせいでクリスデン亡きあとの魔導師協会はギスギスしています。




