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103.『希望』

 美也子は立ち上がると、動揺しかけている己を制するために息を整えて静かに言う。


「神がアスラに戻っても、失われた命は戻らない、苦しんできた過去もなくならない。それは理解しています」


 天変地異があったと聞いた。一体どれだけの人命が失われたのだろう。決してあがなうことのできない罪が、その世界に体現している。

 そうだとしても。


 深く息を吸い、今までにないほど声を張り上げ、眼前の三名、両隣の二名に訴えた。


「それでも――それでもせめて、これから生まれる人たちが、獣人を憎まないようにしたい」


 みな、唖然と美也子を見上げている。

 小娘が世迷言を、と思われていないことを祈りながら続ける。


「だから事が成った暁には、その憎悪を終わらせて欲しい。あなたがたには、子孫へ憎しみが伝わらないように、他の世界で獣人への偏見がなくなるように、尽力して欲しいんです。一人の獣人の少女が、一人の大魔導師の心を動かして、すべてを救ったのだと、どうか伝えて欲しい……」


 遥かに年上の大人たちに見つめられ、緊張の糸が切れそうになる。恐怖でわずかに声が震えた。目頭が熱くなり、涙がこぼれそうになるが、必死でこらえた。


「私は、彼女が獣人である己を卑下せず、堂々と胸を張って、対等に過ごせるようにしたい」


 頬に流れた雫は無視をする。まだ、泣き喚くわけにはいかないのだ。


「横に立って、一緒の目線で、同じものを見たいのです。そのために、私は神のいる場所へ行きたい。そしてアスラを救いたい――」


 語尾はかすれてしまった。すぐに泣いてしまう己の幼稚さが悔しくて、さらに涙があふれる。

 腕で強引に拭き取り、鼻をすする。

 嗚咽が喉を満たす前に、ただ一言、庭を放置し生き物を苦しめる創造主への怒りを吐き出す。


「悪魔を従え神々を脅してでも、そうしてやる」


 かつて神と戦ったという白い魔王を召喚し、品評会の場を蹂躙し尽くしたっていい。その覚悟はできている。


「ご主人様……」


 気付けば、エイミも静かに泣いていた。美也子以上に、大粒の雫を太ももに垂らしている。ポケットからハンカチを引っ張り出して渡すと、腫れた目が美也子をとらえた。


「エイミ」


 膝をついて目線を合わせ、肩に優しく触れる。


「これが、私の気持ち、最大の願い。心からのエイミへの贈り物だ」

「ご主人さ……」


 エイミは美也子に抱き付いてきた。そして幼子のように大声で泣き喚く。その柔らかい後頭部の毛を、そっと撫でてやる。

 恐らく――いや、間違いなくクリスデンもそれを望んでいたはず。そのために、オーヴィの神と密約を結んだのだ。品評会に出てやる代わりに、魔法のない世界で生きたいと。

 彼の遺志を、誰に指図されたわけでもなく、今生きている美也子もまた望んだ。


「あなたは、本当にそれでよろしいのですか?」


 穏やかな絹代の声。


「たった一つの願い事も、そして自分の生涯まで他人のために使うなど」

「私の願い事は、今言った通りこの子との幸福な未来です」


 エイミを抱く手に力を込める。

 美也子の胸の中で、エイミは洟をすすりながらも安心しきったように身を預けてきている。

 温かい。体温だけではなく、何もかもが温かい。


「それさえ死守できれば、他に何もいらない」


 と言ったものの、一つ気が付き、あ、と声を上げる。


「もちろん家族や友達も大事。だから、ヨーロッパにはあんまり行きたくないです」


 苦笑すると、絹代も破顔する。強かな孫へ向けるような笑いだった。


 美也子は次にヘラーを見た。女は、苦い顔でうつむいている。エイミを抱く美也子を見ていられない、といったふうに。


「ごめんなさいヘラーさん……」

 

 その謝罪には、色々な意味を込めた。


「私は絶対にネヴィラには帰らない。例え神使が関門を通してくれたとしても、ネヴィラの神様との約束なんて、知ったことじゃない。勝手に怒らせておけばいいと思っています」

「……好きにするがいいさ」


 そしてヘラーは顔を上げた。瞳がわずかに潤んでいるが、グロスの乗った形のよい唇で微笑をくれた。


「小娘だと罵ったこと、謝罪する。お前はやはり、クリスデンの生まれ変わりだ」


 予想外の言葉に面食らいつつ、艶っぽいその顔にどきりとする。

 誤魔化すように、次はイザベルへ問う。


「えっと、イザベルさんはどう思います? 生まれはアスラなんですよね」


 魔女は、両手をすり合わせてうきうきとした様子で答えた。


「賛成だわ! あたし、あなたに投票する。アスラには今も両親と妹がいるもの。生きているか分からないけど、あなたがその願いを叶えれば、もう一度会うことができるかもしれない」


 と、その瞳が剣呑な色を帯びる。


「……それに、神を脅すなんてとっても面白いじゃないの。あたしの愛しい悪魔もきっとそう言ってくれるわ」

「魔女は黙っていろ」


 アレクシスが吐き捨てると、イザベルは鼻を鳴らす。


「ふん、あんたはどうせアスラに戻る気ないんでしょ。こっちにガキが五人もいるものね、全員母親違いの!」

「なぜそれを知って!」

「分かりました」


 ぴしゃりとした絹代の声に、二人が黙る。


「あなたの気持ち、すべて受け取りました」


 絹代は正座のまま少し腰を浮かせ、数歩下がる。


「これから、世界中に散らばる同胞に連絡を取り、あなたの意志を伝えます。品評会と投票のことも」


 しわの刻まれた上品な顔に、柔和ながら強固なものを感じさせる笑みを浮かべた。


「確約はできませんが、きっとみな、祖国のために協力してくれるはずです」


 そして、膝の前に三つ指をついて、畳につかんばかりに頭を下げた。


「ですから美也子さん、どうかアスラのことをお願い致します」

「絹代さん……!」


 色よい返答がもらえたことに安堵し、また涙があふれそうになる。それをこらえて、美也子は鼻声で叫んだ。


「――はい、ありがとうございます!」


 そして絹代に倣って正座し、こちらも頭を下げた。こんな土下座のような真似をしたのは初めてだが、何も惜しくはない。互いの間に流れるのは誠意なのだから。


「ところで」


 頭を上げた絹代は、首を傾げた。


「投票方法はどうなさるおつもりでしょう?」

「あ」


 方法に関しては、聞いていなかった。一番大事なことが抜けてしまっていた。

 どうやら近々、矢吹櫻子に連絡を取る必要があるようだ。


 嘆息を漏らすアスラ人たちも、苦笑するヘラーも、誰も彼もが温かい眼差しで美也子を見ていた。

 胸の中のエイミを見遣れば、泣き腫らしたその目に柔らかい光をたたえていた。

 

 皆の抱くその感情は間違いなく『希望』だと、美也子には理解できた。  

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