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「待った無し! 撥氣用意!」
重々しい甲冑姿の裏行事の声が響き渡ると、地下国技館にいる誰もが息を呑んだ。
もう仕切り直しはない。いよいよぶつかるのだ。
雷剛はいつものクラウチングスタートのような姿勢で腰を高く、頭を低く沈めている。対する鶴翔はそんな雷剛を上から睨みつける形だ。
両者から立ち上る相撲闘氣で砂かぶり席の観客は呼吸困難に陥っている。
「残った!」
裏行事の声と共に雷剛が飛び出した。得意のブチかましだ。その動きを鶴翔は当然読んでいた。右へ飛びながら右手で雷剛の首を押さえにかかる。
雷剛のブチかましは異様に低い。頭を上から押さえて押しつぶす作戦だ。
グシャ! 肉を打つ音が響き渡った。次の瞬間土俵に転がっていたのは鶴翔だった。
雷剛はブチかましの勢いをそのまま左腕に乗せ、鶴翔の足をラリアットのように力任せに刈ったのだ。鶴翔は空中で半回転し、両腕で受け身を取った。仰向けに転がった鶴翔の視界に入ったのは高々と掲げられた雷剛の足だった。
雷剛の四股踏みである。
四股踏みは現代の表相撲でも知らない人はいないメジャーなオスモウ・ムーブだ。主に下半身を鍛えるエクササイズ、ウォーミングアップの動作だと考えられている。
しかし裏相撲での四股踏みは地面に転がる相手へのトドメを刺す一撃必殺の技となる。
「どすこい!」
雷剛は高く掲げた右脚に全体重と力を乗せ、鶴翔の胸めがけて踏み下ろした。
巨体に似合わぬ俊敏さで四股をかわした鶴翔は、ハンドスプリングで起き上がる。
「オゴー!」
鶴翔の悲鳴が響く。起き上がるのを読んでいた雷剛の張り手が鶴翔の胸を捉えたのだ。
なんという威力! たった一発の張り手で鶴翔の肋骨は折れ、肺に突き刺さった。
鶴翔の口から血が噴水のように吹き出している!
駄目押しの2発目の張り手が、鶴翔の頭に突き刺さる!
どぱん。二階からバケツの水をぶちまけたような音がした。鶴翔の頭が弾ける音だった。
砂かぶり席の相撲通の悪魔ミュージシャンが言う。
「ま、まさかあれは…本物の破裏掌≪はりて≫!!」
破裏掌≪はりて≫
裏相撲において最もシンプルで最も危険な技である。この技は習得が難しく、裏相撲でも長らく使い手は現れなかった。
モーションは通常の張り手となんら変わりはない。しかし極限まで鍛え上げられたバカげた膂力で放たれた張り手は破裏掌となる。
破裏掌を受けた箇所、鶴翔の顔面は陥没しているのみだが、後頭部がザクロのように口を開けて赤黒い血と灰色の脳漿をぶちまいていた。
「一説によると衝撃が音速を超えて伝わることにより体内の水分を瞬時にフットーさせ、衝撃面の反対側の皮膚や骨を破って血肉が吹き出すのだという。我輩も見るのは久しぶりだ」
悪魔は興奮した面持ちで隣に座るVIPに解説した。
この悪魔は大の裏相撲ファンで有名であり、数万年生きているため古代の裏相撲を知っていると嘯いていた。本当かどうかは確かめようも無いが、ほとんどの人が冗談の一種だと思っている。
鶴翔は即死であったが、肉体が死んだことに気付くのにしばしの時間がかかったようだ。雷剛が悠々と仕切り板に戻り、蹲踞の姿勢を取る間にゆっくりと倒れた。
雷剛の宣言通り、立ち合いから5秒までの出来事であった。
「アナターーーーーーーーーー!!!!」
場内の沈黙を破り絶叫を上げたのは鶴翔のオカミサンだろうか。傍らには幼子もいるが、何が起きたのか理解できていない様子だ。いや、理解できないことが幸せなのかもしれない。
偉大な大横綱のあっけない最期に観衆は静まり返ったが、事態が呑み込めると同時に割れんばかりの大歓声に変わった。
「雷剛!雷剛!」
雷剛コールが響き渡る。新たな横綱の誕生であった。雷剛は裏行事が差し出すアタッシュケースほどの大きさのご祝儀袋をむんずと掴み取ると大喝した。
「黙れクソ豚ども!」