6 待ちわびた客人
(逃げよう)
向きを変え、駆け出そうとする視界の中、その端の方に何かが映った。黒い布の塊の中から、どさりと吐き出された黒い塊。
「………逃がすか」
ひゅっ、と、風が鳴る。
吐きだした黒い塊を捨てて、男は水色へと一気に距離を詰める。何か冷たいものが、その水色の獲物へと腕を伸ばす。
「………っ」
カイの体は頭で考えるより先に動いた。
上半身が大きく屈められ、地面へと手が付く。小さくしゃがみこむとともに、その真下にある地面を思いっきり蹴り、横へとその身を転がした。つい癖で、頭にかぶったフードを抑える。
乾いた砂埃が幾らかたった。カイは口の中に入った砂を吐き出し、重たげにのおの砂まみれになってしまった身を起こした。
「…はぁ、…はぁ、はぁ………」
(なん、だ………?)
一瞬の出来事に思考が止まり、頭の中が真っ白になる。自らの鼓動がばくばくと鼓膜を叩き、連打する。
何。なんだ。いったい何が起きた。
身に覚えのない事ながら、その驚きは大きい。
カイは先ほどの黒い塊を思い出す。
あれは、本当に黒だったか?あれは、あれが、嫌な臭いの元凶に思えなかったか?
そうだ。あれが布の中から吐き出されたとき、確かに鉄くささが増したではないか。
そうだ、あれが、あれだ。
先ほどの一瞬の記憶が、頭の中で再生される。白黒で、不確かなシーンもありながら、確かにカイは見ていたのだ。
あの黒い塊が、一人の男の亡骸であったことを。
なんであの男は殺された。
そして、なんでそれを殺した人物が、次は自分を殺そうとしている。
わからない。
なにも理解できない。
だが、混乱している頭の端では落ち着いた自分も居て、ひっちゃかめっちゃかの思考とは裏腹に体はちゃんと反応していた。なんともおかしな話だ。
(それだけ、死にたくないってことかな)
自分の唇が自嘲的に吊り上がったことに、当の本人は気付かない。
カイは小さく視線を動かし月を見る。
銀とも金とも目に映る一番大きな星は、真円。煌々と輝き、辺りの風景を聡明に照らし出している。
カイは今日が満月なことに感謝した。
水色の視線の先。しゃがんだようにうずくまる影が、何事もなかったかのように立ち上がる。
その様子を眺める瞳は、首筋に冷たい汗を感じて身を一震いさせた。
すくっと立ち上がる影の隙間から、銀色の光が伸びて生えた。それは、月明かりを細く鋭く反射する。
生えてきた銀の光―――違う。あの人物がコートの中に潜ませていた凶器が、その布と布の間から垣間見えて、伸びて生えたかのように見えたのだ。
触れるもの全てを飲み込もうとしているように見えるのは、きっとあの刃が人の味を知ってしまったからだろう。知ってしまい、依存してしまい、求めるようになってしまっている。
もとはきれいだったであろう刃の銀。それに淀んだ味を教え込んでしまったのは―――あいつだ。
水色の瞳は、“優しげ”という言葉からは程遠い視線を黒いコートの人物へと向けた。
「誰だ」
その声は熱を失ったかのように冷え冷えとしていた。
「誰だ、お前」
カイは、自分へ凶器を向ける人物へと問いを投げかける。
「………ひゃ、ひゃはははは、…ひゃははははははははははっ!!!!!!!!!!!」
気味の悪い笑い声も気には留めず、カイは視線を相手へ向ける。その瞳には恐れも無ければ戸惑いもない。かといえば、怒りも、興奮も。殺気さえも、無い。
「ひゃはははは、ひゃはははははは!!!!………」
フードの下から発せられる笑いはぴたりと止まり、突然低くざらついた音へとそれを変えた。
「…獲物」
男の銀色が“かちゃり”と唾を鳴らす。
「えもの」
カイは男の言葉を呟くように繰り返した。何も見当たらない夜闇の中に、ポロリと落とされた落し物。そして、それの拾い人は怪しげな銀色をなまめかしく輝かす狂気じみた一人の男。
「そう、獲物」
すっと静寂を取り戻した暗闇の中、カイは爛々と光を放つ二つの眼を見つけた。それは目の前の男のフードの下から、粘っこい視線を自分へと一直線に向けて笑んでいた。
知らぬ間に流れ着いた雲が、ゆっくりと月を覆って行く。
煌々としていた柔らかな明かりが、ゆっくりとゆっくりと、更に柔らかく、薄い絹を通したような明かりへと変わっていった。
先ほどまでの明るさが消えていく。
ジャボジャボという噴水の音が大きくなっていき、木々もぴたりと啼くのを止めた。
見覚えのない人物に突然襲われて、砂が口に入って、面倒事のど真ん中に見事に入り込んでしまって。
だが、それでも、今日は天気がよくて、風も静かで、空もきれいで。
今日は本当に“気持ちのいい日”なんだな。
なぜかそんな事を頭の片隅に思い、あまりの場違いさにカイは小さく首を振った。
―――ざんっ
突如、風が生じ地面がえぐれる。
カイの今まで立っていた場所に、あの男の刀があった。
ぼんやりとした明かりを舐めるように、その凶器はちらりと輝く。そこに、地面に転がる子供の姿が映る。
「助かったな」
男の口端が吊り上がる。
刀をまた自分へと向け、次の体制に入った男の言葉にカイは答える。
「うん………、よかった」
「そうだな。だが次は、」
カイは自分へと向かい来ようとしている刀を、まっすぐに見つめた。その場から動こうともせず、じっと、じっと…
諦めたのだろうか。
男はにやりと笑いを浮かべ、遠慮なしにその刃を目の前の獲物へと振り上げる。
―――どさり
「な、………っ!」
降ろされた刃が軌道をそれる。視界を何かにおおわれ、一拍ほど男は平常を失った。
刀を何もない空中にぶんぶんと振り回し足元もおぼつか無い様子でふらふらと後ずさった。
「こいつ!!」
頭に何かが飛び乗ってきたことを知った男は、刀をそれへと向け突き立てる。するとそれはひらりと飛びのきその狂った銀から逃れた。その身軽な体が、少しずつ現れ始めた透明な月明かりに照らされ、ふさふさと現れる。
狼だ。
灰色は月明かりに銀へと透けて柔らかく流れ、茶色の瞳も月明かりを浴びると銀の鉱石のように輝く。男の握る淀みで研ぎ澄まされたような銀とはまた違う、清らかさがそこにはあった。
獣は、男の頭から飛び降りると小さく唸り、身を構える。
「くっそ、この犬が!」
生意気な事を、と怒りに男も身を構え、カチリと刀のつばをならした。
互いににらみ合うと、緊張感はあっという間にピークに足した。
獣の耳がぴくりと動き、男の握る刀も、張りつめた空気に身を震わせ、ピィィィンと小さく高い音を発した。
来る!
そう思い男が片足に力をいれ、じゃりっと大きく地を撫ぜると同時、獣の足は地を蹴った。
獣の背が、あっという間に男から遠ざかって夜闇に消えてしまう。
逃げる獣を拍子抜けしたように眺め、立ち尽くす男を、小さくて柔らかい風が撫でた。
雲がゆっくり流れ、月明かりを遮断して、またすぐにその場を通り過ぎ月を開放する。
フードの下から覗く唇が、震えるように小さく動き出す。
「…やら、れた………・・・」
やがてその震えははっきりとした動作として動かされ始める。
「やられた、………やられた……ふふふ、ははっ、ひゃはははははは!!」
男は片手で両目を覆った。そのまま月のあらわになった天を仰ぐ。
「やられた!やられたぁ!!」
彼はそのまましばらく、その場で一人笑いながら余韻に浸っていた。
地を蹴った獣はというと、男へは向かわず、自分の後ろ正面へと振りむき駆けていた。
彼(獣)が去った後には、ともにいた子供の姿は見当たらず、毛むくじゃらの彼が自らおとり役となって飛び込んだことを告げていた。
*
はぁ、はぁ、と息をあげ、カイは一つの路地裏へと駆け込んだ。
「今日は、ついてないな」
辻斬りに出くわすなんて、本当についてない。
ミネがいれば、あの男との出会いを“ついてない”で済ませてしまうのはどうかと思う、と指摘したはずだろう。
何はともあれ助かったのだ。今日はもう、大人しく帰ろう。と、水色はフードに手にかけ顔を上げる。
「―――――!!」
その時になってやっと気づいた人の気配。
顔を上げると、そこには。
(またかよ)
もういい加減にしてくれ。と言わんばかりにカイは表情を濁らす。瞬間的に、フードを取ろうとした手は何もなかったかのように降ろされた。
カイが「またか」と思った理由。
目の前に現れた、黒いコートの人影。
またもやフードをかぶり、自分の前へと表れた誰か。
カイは額に手を当て、小さくため息をつく。
「誰だよ、お前」
相手はその問いに答えず、悪魔で自分の言葉を優先しようとした。
「カイはどこだ」
「は?」
とっ拍子もない質問に、カイ本人は目を丸くする。
先ほどの奴ではないのは確かだ。背も、自分より少し高い程度であの男よりは低いし、声もまるで違う。あの臭い、赤の匂いもあまりない。先ほどの奴の仲間か?という考えも浮んだが、絶対に違うという自信がカイにはあった。
相手の様子を窺うように全身へと視線を走らせていると、一瞬フードの下の瞳と目があった気がした。
カイはその一瞬、小さく口を開き言葉を失う。
路地裏という、光の届きにくい場所で本当に相手の瞳がみえたのかと聞かれると、少し息詰ってしまったりもする。見間違いだろう。
カイは少しの間をとり、開きかけた口をしっかりと開く。
「カイを、さがしてるの?」
相手の質問には答えず、逆に質問を投げかける。
「あぁ、」
目の前のフードはこくりと頷いた。その声から受ける印象は、何とも無愛想。
カイの視線とフードの下の視線が、今度こそしっかりぶつかった。このまま自分が何も言いださなければ、きっとこの場は挑発的な空気に満たされてしまう。カイはそんな流れを感じ、小さくため息をついた。
なんて面倒事の多い日だろう。
だが、相手から返ってくる答えによっては、きっといい日になる。
カイはまっすぐとその水色の視線を相手へと向け続けた。口元に小さな笑みを浮かべ。
「内容によっては教えてあげるよ」
「内容?」
眉を寄せているのだろうか。カイは顔の見えないその声音から頭の隅で想像する。
相手がどこから来たのか。何をしているのか。何者なのか。
(きっといい日になる)
自信があった。
カイは自分でも根拠がないと分かっていながら、その自信に満ちた予想を相手へぶつけた。
「旅の人?」
「そうだ」
「あっちの大陸から?」
「あぁ」
「火は?」
「………、使う」
「女、のはずないか」
「は?」
「決まりだ!」
物を言わせず、カイはその人物のコートを掴んだ。
「約束だ、連れて行く。カイのい場所ならそこで好きなだけ訊くといい」
「おい、まて、どこに行く気だ」
「いいから、あんたに用がある奴がいる」
「俺に用?」
わけがわからない。
その声は確かにそう言っていた。
町長の家、つまり自分が今“我が家”と呼ぶべき家が目の前に迫ってきた頃、自分を逃がす手助けをしてくれた獣がもどってきた。
彼はがカイの手助けをするのはいつものことだ。その割にはカイには何もねだろうとはせず、気が向くとそばに行っては、一緒に歩いたり、おとなしく座っていたり、すやすやと眠っていたり。餌をねだることもないのだ。
そんな彼への感謝を忘れたことはない。見返りを求めず、ともにいてくれる。
親しい友とも呼べる彼へ、カイは遠慮なく今回も手助けを願い出た。
「ミネを、ちょっと呼んで来てくれないか。私は裏庭にいるから」
獣は一度ゆらりと尾を振り駆けていった。
まっすぐに、ミネの眠っている家を目指して。
カイもその後を歩きながら追う。
その後ろを、コートの人影が付いていく。
水色の瞳はその様子をちらりと盗み見て訪ねた。
「なぁ、どこかであった事、………とかないよな」
カイは後ろへと、振り向きもしない。
後ろも、首を振りもせず否定する。
「知らないな」
「だよな」
カイの声はあまりに小さく、風の無い空にまでかき消されてしまった。
裏庭につくまでに、一瞬でも思ってしまった“似てる”という言葉を頭の中から一掃した。