27 奥底から浮かび上がって
男は白眼をむいていた。
だが、その手はまだカイの首筋を締めつけている。
カイにはその手を振りほどき水面へと泳ぎ切る力も残っていない。
湖の底へ底へと沈みゆく水色を、濃い赤が大きく包み込む。
ぶくぶく、ぶくぶくと沈みゆく視界の奥、水色の瞳は、微かに見える、乳石の祠と小さな光を見つけた。
赤い液体は、水色の髪も、瞳も、赤く赤く包み込む。
(………死ぬ)
力の抜けることのない男の手。肺にためられていた酸素も限界に達し、カイは自分の死を背後に感じた。
(………しぬ)
カイは水中から見える外の明かりを眺める。
(………し、ぬ?)
前に一度自分は死んだと思ってた。
この場所で。
この暖かく優しい水の中で。
あの頃に戻ったと思えばいいのだろうか。
(………―――)
今までの辛いこと、悲しい事を全て無かったことにして。ミネとの楽しい思い出や、最近出会ったあの、腹の立つ赤い旅人の事も、…全て、全て無かったことに、して………?
ポツン、と胸元にぶら下げられた水ノ音石が響き渡るような音をあげた。
その瞬間、水色を中心に全てのモノが動きを失う。
水は温度を失い、液体から固体へと変わる。
*
―――ピシッ
急激に下がる温度。
ヨウはその場の異変に目を疑った。
「凍って、るのか………?」
獣の退いた場所に膝をつき、ヨウは湖の水面を指でなぞった。
まるでガラスのようだった。色も、透明度も、何も変わっていないように見えるのに、温度と質感だけが違う。ほんの一瞬でこの大きさの水たまりを凍らせることははたして可能なのかどうか。ヨウには想像もできなかった。
逆に、この氷の塊を、先ほどの水へと一瞬で戻せるかと考えれば、答えは簡単だ。
それは“不可能”でしかない。
いくら腕には自信があると言っても、自分の炎ではこの量の、しかもこんなにも低温の氷を溶かすのに、三日三晩かけてもできるとは思えない。
いったいなぜこんなことに、とヨウは凍りついた水面の上に立つ獣へと尋ねる。
「これは、お前の仕業か」
獣は何も言わない。
そして湖の中心で、ただ静かに横になり、その下を眺めていた。
「まさか、“あいつ”が………?」
ヨウは同じように、その水面に足をやる。獣の正面にたどり着くまでに、靴の上から霜焼けになりそうだった。
(くそっ)
一定の炎を足元に集中させることで、何とか獣のもとへとたどり着く。
ある程度の炎ではびくともしない氷。
ヨウは、その氷を張ったのが、まさかあの水色ではないであろうことと疑った。
水面に横たわる獣と、その正面に立ち、凍り付いた湖の底を眺める赤い少年を、朝日は静かに照らし始めた。
*
あれは、いつのことか。
物音。悲鳴。匂い。すべてが雑音でしかなく、不愉快な思いででしかないそこに、いつしか自ら土をかぶせていた。
忘れようにも忘れられるはずがないのに、二度と掘り返したくはないと、記憶に蓋をしていた。
だが、それは違ったのだ。
本当に自分がしたかったのは、本当に自分が望んでいたのは…
『………全部、全部を、受け入れること』
だから違うのだ。
言い逃れなどするつもりはない。
過去から逃げようとも思わない。
今の自分からも逃げるものかと、強く思ってきた。
だって、あの時誓ったのだ。
シンに出会い、何かを教えてもらって。
だから、いつも自分に親殺しの罪を忘れないようにと、記憶のどこかに隠してしまわないようにと、自分と約束した。
事実を認めようと。
だが、その後のことを忘れていた。
親殺しと同じくらい重要な物事を。
それはもしかしたら、自分のなかで、親殺しよりも重要で辛い出来事だったのかもしれない。
はじめて自分を見てくれた人。
たじめて自分に名前をつけてくれた人。
はじめて、自分の頭を撫でてくれた人、の、死。
いつしか自分は、その事実を忘却の彼方に埋めて、今の自分から隠そうとしていた。
なによりもそれを、覚えていなければいけなかった。その筈なのに…。
***
―――ヒック、ヒック…
この泣きじゃくる声は誰のものか。
―――ヒック、ヒック…
自分?
違う。
これは、眼の前に突き刺さる男のものだ。
―――頼む、おねがいだ、タスケ…
その言葉を言い終わる前に、男はこと切れた。
自分の目の前に“突き刺さる”沢山の骸。そして、自分の背後にも、横たわる骸。
後ろは…そう。自分の両親。
父はとっくに逝っていた。だが、母は、まだ少し生きていた。
生きていて、“ソレ”を見ていた。
地面から生える氷の槍。
それは、父母から流れる血から出来たもの。
それに突き刺さる男たち。
無表情の少女。
まっさらな水色の瞳。
あの時、私が無意識に握っていたのがあの短剣だった。
古びた彫刻が鞘と柄にわずかに掘られた短剣。
これは、両親を殺した張本人。そして、この場の成り行きを始めから最後まで、自分の足元で眺めていた傍観者。
いつしかそれは、私の腰にいつもぶら下げられていた。
けど、いつも使うのは他のナイフ。短剣とともに、同じ側の腰にかけられた、少し大きめの刃渡りを持つ短剣よりは小さめの物。
『コレを、弔ってやりたいんだね?』
赤い髪のあの人は、眼の前にある呪われた家を見た。
『少し、中を見ても良いかい?』
中は真っ黒だった。
「真っ暗」ではなく「真っ黒」
そして沢山の、鍾乳石のように地面から突き出る黒い柱。
『これは血だね』
柱に触れてあの人はその指を見つめる。その指にはまるで血など付いていないのに。
『凄いな。こんな大量に。凍らせた、のか? いったい誰が』
あの人は、はっと言葉を飲み込む。
『…そうか』
そう言って足元に立つ私を見下ろした。
あの人はそのまま一言もしゃべらず、家の奥へ行き、しばらくして戻ってきた。
リビングの中心で立ったままの私のもとへ戻ってくると、『もういいよ』と言って外へと出た。
私も黙ってそれに続く。
『本当に、燃やして良いんだね』
こくり、と私は頷いた。
あの人は『そうか』とつぶやき、片手をその家へとかざす。
あっという間だった。
どこからともなく現れた火は、まるで、この家の中心にもとからあったかのように大きくなった。
私の瞳の中、その炎は真っ赤に煌々と輝いていた。
私は唯、その家が燃え行く様子を眺める。
『ずっと、とけなかった』
自分の耳に届く、自分の抑揚のない声音。
あの人は静かに私の横、腰を下ろす。
『ずっと、ずっと、あのまま。あつい日もあったのに、ずっと、なくならないの』
あの人は目を細め、私の頭に手を乗せた。
『大丈夫。この炎に、燃やせないものはない』
私は頷く。
赤い瞳の奥に、悲しみを垣間見た気がした。
『君は、僕と似てるよ』
自分も力に悲しむ人間だから、という胸の中の呟きは、もちろん私の耳には届くはずもなかった。
『けど、大丈夫だ。』
―――君はきっと僕より強い
『なんで?』
あの人は私の頭を優しく撫でる。
『その剣、どうしたんだい?』
疑問に対し、疑問で返し、あの人はほほえんだ。
『殺したの。皆。だから、持ってきたの』
私の言葉は断片的だった。
だが、あの人には全て理解できたのか、『やっぱり君は強いよ』と微笑んだ。
やがて、あの人の言葉通り、今までに全く溶ける気配の無かった氷は全て消えた。元からそんなもの無かったかのように。
そしてあの家も燃え、あとには黒い炭と灰が家のあった場所にばらまかれていた。
『よし』といって立ち上がるあの人。
私は一言、『ありがとう』と言って微笑んだ気がする。
その時の自分の表情なんてよく覚えてないが、自分では笑ったと思った。
少女は笑った。
青年の前で、初めて。
それを見た青年は、一瞬、罪悪感に胸を痛め、目を細めた。
だがもう、青年の中にはゆるぐことのない強い決意があった。
「じゃぁ、次は僕の番だ。良いかな?」
青年は優しく微笑む。
痛そうに、悲しそうに。
すぐ後に、少女はその痛々しい微笑みのわけを知った。
***
『僕を、見届けてくれるかい?』
首を振る私が見える。
泣きそうな顔で。
彼にすがり付くような目で。
『お願いだ』
シンはそう言った。
これが、最期の願いだった。
あの本を渡されたのだ。
表紙の約半分が燃やされて黒くなっていた、小さな古書。
燃えていたのは表紙だけで、中の本文には全く火の手の気配がなかった。
それは、彼が燃やそうとしたものらしい。
あの氷を消したあの炎でも、この本は燃やせないのだと、シンはそう言っていた。
本当は大切なものだとも言っていた。だのに、彼はそれを燃やそうとしていたのだ。
そして、燃やせないとわかった末に、代わりにそれを封印しようと心に決めた。
彼は自分に火を放った。
燃え盛る炎の中、彼は私に微笑む。
私は言われたとおり、あの短剣で彼の本を貫いた。その瞬間、彼の鼓動が止まるのも、本に宿った命の灯火のようなものも消え行くのを感じた。
頬がやけに熱かったのを覚えている。
『ありがとう………カイ』
シンは湖へと沈んだ。
不思議な事に、水中だと言うのに彼の体は炎に包まれていた。
私は約束通り、彼を追わせるようにあの本を湖へと沈めた。
―――そして、自分も………
なのに。
***
カイの胸元、水ノ音石はまた“ポツリ”と、深い洞窟のなか雫が落ちて響く様な音を鳴らす。
(なのにアイツ)
凍りついた湖の底。
共に凍りついてしまっているはずのカイの口の端がそっと持ちあがる。
今あるはずの無いふさふさの毛並みと茶色い瞳が、彼女の脳裏に浮かぶ。
「………わたしを、たすけるんだもんな」
カイは、まぶたを持ち上げる。
湖の上、獣はピシャリを尾を振り、その身を持ち上げた。
「………どうした」
勿論、獣は何も喋らない。
だが、確かに湖の中で何かが起こっているように、その茶色の瞳は凍りついた水中へと向けられていた。
ヨウは視線を追い、その奥へと目を凝らす。
朝日が上り、あの時刻がやってくる。
普段見せない、湖の表情。
奥底まで注ぎ込む、朝焼けの波。
だんだんと照らしだされる湖の中に、赤い瞳は水色の姿を見つけた。
男の胸に突き刺された短剣。
赤い血潮に染められた、水色の髪。
そしてその更に奥、乳石で作られた祠の傍らに眠る、小さな、小さな―――古書。
「―――あれは!」
ヨウが声を上げるのが先か、それとも、その古書が赤く輝くのが先か、あっという間に湖は赤い光に包まれた。
水の中、カイは記憶の中の暖かい手を感じた。
頭に乗せられた、大きく平べったい手。
動けるようになった体。男に突き刺したままとなっていた短剣を思いっきり引き抜いた。
男の体がびくりと揺れ、首に巻かれた指がはがれた。
カイは辺りに充満した赤を、苦笑交じりに掻きわける。
(血は苦手だ)
短剣を口にくわえ、水面へと腕を伸ばす。
すると、その脚に重みを感じた。
あの男だ。
(―――シツコイ)
その眼にはもう、生気はない。
「オ前、だけデも…」
(………息、が…)
カイは苦しげに目を細める。
もうとっくに限界はむかているのだ。今を逃せばもう生きて陸に上がることはない。
(クソ)
咥えていた短剣を握り締めようとしたが、体に力が入らなかった。
本当に自分はここで死ぬのかもしれない、と思った時、ぼおっ、という音と共に、男の体は一瞬で炎に包まれた。
(………シン?)
カイの足をひくものは、もう何もない。
遠のきそうになる意識を必死に掴み、水面へと泳ぐさなか、一瞬で灰となる男の姿と、燃え尽きる小さな古書が目の片隅に映った。
あの本は消えた。
シンの意志とともに。
―――ありがとう
この声は少女のものか。青年のものか。
カイは眩しい朝日の充ちる水面へと両腕を伸ばす。




