14 真夜中の散歩
寝静まった家の住人達。
物音がない事を確認し、カイは窓に手をついた。
ひらりととび出て着地したのは、この家の裏庭だ。いつものごとくそこには獣がいて、カイの外出を待っていた。
昨日に続き、今日も、とても散歩をしたいきぶんだった。
カイは獣の頭をわしゃわしゃと撫でてやり、ゆっくりと歩き出す。
「俺も連れていけ」
声のした方を見ると、二階から顔をのぞかせるヨウの姿があった。
あれは確かミネの部屋の隣だ。なるほど。確かにあそこは物置きにもされていない完璧な空き部屋だった。
「隣の人を起こすなよ」
カイはそう言って、また何もなかったかのように歩きだす。
後ろから芝生を踏む音が聞こえ、赤が二階から飛び降りたのを感じた。
(なんでこいつと散歩なんか………)
こちらを見上げてくる獣を見ながら、カイは内心でむすりと呟く。
いつもの道だ。
いつものごとく、まっすぐ続く道。
横を歩く旅人は、水色に「どこに行くのか」と訊く事もない。水色も同じく尋ねない。「どこまで付いてくる気だ?」と。
二人と一匹はただ歩いていた。
別に何をするでもなく。
月に照らされる家々を幾つも通り過ぎて行く。
広場に入り、見物人の無い噴水を通り過ぎ、そのまままっすぐまっすぐと進む。
やがて見えてきたのは森だった。
この町の南に位置する森。
そこはもう町の外だった。
その森の向こう。ヨウは目を細める。
「何かあるか?」
ずっと口を開くことの無かったカイが尋ねる。
「たしか、この向こう側に村があったな」
「あぁ、そうだな」
水色は特に興味はなさそうな言葉を返し、そのまま森の中へとはいっていった。
ヨウも黙ってその後をおう。
獣はカイの横を離れることなく、ご機嫌な様子で四本脚を動かしていた。
たくさんの木という木。
水色が歩いてるのは人が作った道ではない。動物たちが歩き、草草が踏まれてできた獣道。
こんな場所をよくも不安げもなく進んで行けるものだ、とヨウは水色を見る。
その隣には獣。
どことなくこちらを見ていた気もするが気のせいだろうか。
ヨウがふさふさの尾を揺らす彼を見ると、茶色い獣の瞳はそっと逸らされた。
(観察されている?)
「獣の分際で、」と赤い瞳は不機嫌そうに細められた。
カイはそんな二人(一人と一匹)の様子に気づこうともせず歩く。
どうやら彼女には迷うという心配は無いらしい。
よく来る場所なのだろう。
まぁ、あの獣がいるなら心配するだけ無駄かもしれない。
ヨウはやはり黙って後を追うばかりだ。
やがて、木々に覆われて月の明かりが届かない世界から、突然視界が開けた。
目の前にはきらきらと輝く水面。
木々に囲まれて、そこには美しい湖があった。大きすぎず小さすぎず。
湖は二人と一匹を歓迎するようにその美しい水面を月明かりにちらちらと輝かす。
カイはそのまま湖に向かって歩き、湖に突き出て生えたような形の岩に軽々と上った。そしてその上で大の字に寝転ぶ。獣はその隣で静かにお座り。
ヨウは湖全体をぐるりと視線で見渡したのち、静かに一人と一匹の元に歩いていった。
「秘密の場所ってやつか」
カイは寝転がったまま答える。
「いや。町の人間は皆知ってるよ。ただ、『神聖な場所』だから立ち入り禁止なんだって。祭りの日以外」
その言葉はまるで人事だ。自分には関係ないと言っているかのよう。
月明かりがまぶしいのか、水色の眼は細められる。
「祭り?」
「あぁ。センレルって言葉の意味、知ってるだろ? 湖の町だ」
「まさかここが昔話の舞台になった場所、ってか」
ヨウの嘲りに、カイも同じように「まさか」と返した。
「あれはあくまで昔話だ。ただの物語だよ。あんな場所存在しない」
「ならなんだ」
ヨウも月を眺める。脚を前に伸ばし、後ろの方に手をついて、空を仰ぐように座る。
「昔話にのっとって、年に一度祭りがあるんだ。昔の人が、この湖の底に祠を作った。水をつかさどる獣を祭った祠らしいけど、…こういう話はミネの方が詳しいな」
「私はよく知らない」と、カイは呟くように言った。
***
少女は目の前に広がる水面を見つめる。
ぼろぼろな体は、傷もないのに赤く染まり、空っぽな瞳は、透明すぎてそこに何も見いだせない。
感情も、人格も、意思も。その少女からは、人間らしさが全て抜け出ていた。
まるで壊れたロボットのよう。
彼女の小さな体は、吸い込まれるように水面へと飲み込まれていった。
***
「祭りの日以外立ち入り禁止だから、だから誰かがここに侵入しても気づかない」
「ばかな話だ」
ヨウの言葉に、カイは「確かに」と笑う。
「それに、ここには主がいるんだ。そいつは祭りの日以外にここに来た人間をかみ殺すらしいよ。だから、見張りの人間もつけられない」
「なるほど。なら、俺達はこれからそいつに噛み殺されるわけか」
「あぁ」
カイは否定しない。だがそこには明らかに冗談交じりの嘲笑。
ヨウは彼女の隣で、忠犬のごとくお座りをする狼をみた。
「まさか、そいつがそれの用心棒とでも」
カイはヨウの視線を追い獣を見る。
獣は水色の瞳に見つめられ、小さく首をかしげた。
その仕草にカイは微笑む。
「おしい」
「それは残念だ」
その声は全く残念そうではない。
カイはまた月へ視線を戻す。
「正解はこいつがその主だから、だ」
「そりゃすごいな」
「だろ」
どちらも表情と言葉がばらばらだ。
赤は赤で、無愛想な位に興味のなさそうな瞳と声音。
水色も水色で、なにもかもどうでもよさそうで適当な表情と声音。そこからは全てが嘘のようにも聞こえる。
だが、不思議と赤にはどれが嘘でどれが本当かが分かった。
たぶん、全て真実。
腰をおろした赤の手前、大の字にねっ転がった水色は、反応の薄い彼へ「つまらない奴」とつぶやく。
赤はそれを聞いて何もいわない。
本当につまらない奴だ、と水色は小さく笑った。
***
少女は沈みゆく意識の中で、そこに揺らめく祠を見た。
真っ白な、滑らかな外装。
乳石といっただろうか。前に村の小さな工房で見たことがあった。ミルクをゆっくりと固めたような、きれいで柔らかな白。それが自分の頭上にある。
いや、自分は沈んでいるのだから、あれは下にあると言った方が適切なのか。
苦しい………
違う。本当は何も感じていない。
この冷たい水も、肺に染みわたる重たい液体も、全て全て、もうすぐ消える………。
だが世界は消えなかった。
自分はまだ生きていた。
銀色の獣が見える。
茶色の、優しい瞳が見える………―――
***
夢を見た。
懐かしい記憶。
あの人はまだ元気だろうか。
きっと、まだ旅を続けている。
またこの場所で、いつか会うことだろう。
「………ふ、ぅあぁー…」
カイは大きくあくびをかいた。
空を見れば少し白ばみ初めていた。
「………寝てた、のか?」
ぐしゃぐしゃになった後ろ髪をほどき、眠気眼な目をこすると、顔を洗おうと岩から飛び降りる。
その岩の根元に、見覚えのない黒い塊を見つけて、一瞬ばかしカイは驚く。
ヨウだ。
彼も丁度今起きた様子だ。
「よくこんな場所で眠れたな」
自分のことは棚にあげ、カイは赤を見て呆れる。
「旅をしてれば嫌でも慣れる」
「なるほど」
自然と納得できたれた。そして少々苦笑が浮ぶ。
澄んだ水を手にすくい、ばしゃばしゃと顔に叩きつけると、気持ちいいぐらいに頭が覚めた。
朝焼けが早々とあたりを照らし始める。
すると、深すぎて見えないはずの水底に、少しずつ変化が表れた。
まず、きれいな水にしか生息しないという魚が姿を現す。だがそれは決して水面近くに上がってきたということではない。彼らは水底から一定の距離を取ってしか生活できないから。
その後に水中の壁が姿を現した。でこぼことえぐられたような地面の壁だ。水草がところどころに生え、揺らめいている。
そして、だんだんと朝日が水中へと行きわたり、上から下に、中の様子を照らしだす。
見えることのない水中が、この一時だけ、全てをさらけ出す。
いつかに見た乳石の祠。
その少し上を泳ぐ滑らかな魚のシルエット。
水面の下に広がる、こことは別の、もう一つの世界。
「すごいよな」
カイの言葉に温度が籠る。
昨日の適当な言葉の羅列とは違う、心のこもった言葉。
「そうだな」
ヨウも水面を覗きこみ、水をすくった。そのままばしゃばしゃと顔を洗う。
「お前、空気読めよ」
呆れたようなカイの言葉も、どこか少し楽しそうだった。
見つめる水色。
いつかの祠。
確かあの人ともこれを見た。
朝日がぐんぐんと上って行く。
水底は少しずつ消えてゆこうとしていた。
乳白色の祠が水中の光の反射で消えて行く際、その手前で何かがキラリと輝いた。
あの人は、きっと………
カイは茫然と湖がいつもの物へと戻っていく様子を見ていた。
あの人、は………
水色の瞳はじっと固まったまま湖へと向けられる。もう、水底も何も見えなくなり、水面を朝日にきらめかせるだけのまぶしい湖を。
「………し…ン、は…」
隣から何か聞こえた気がして、ヨウは水色へ視線を向ける。
「どうした」
水色は頭を抱えていた。
表情に苦痛はない。
だが、喜怒哀楽も感じない。
なにも、その表情には見てとれるものがなかった。
ただ、その瞳はここではない別のどこかを見ているようにも感じた。
水色の体が、ぐらりと湖へと傾ぐ。
「おい!」
ヨウは反射的に、湖へと倒れ込みそうになったカイの服をつかんだ。
カイは我に返ったかの様に目を丸くし、ゆっくりと首を持ち上げた。
その瞳が、ヨウを捉える。
「………少し、ぼーっとした」
「は?」
「いや、少しぼーっとしちゃって。戻ろう。朝食に遅れる」
「あぁ、」とだけ頷き、ヨウは髪を結びながら歩き出すカイの背を追った。
獣は湖の水をぺろりと舐める。
茶色い瞳が、そうっと細められ湖の中心へと静かに向けられた。
きらきらと輝く水面の下には、あの祠が眠っている。
獣はもう一度ぺろりと湖の水を舐める。
朝露に湿った毛を乾かすかのように、ぶるりとその身を震わして、二人の後を追った。




