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てんじょう

作者: 満腹亭白米

夏も盛りの、とても蒸し暑い季節だった。


すっかり日が落ちて辺りは暗く、僕は彼女の後ろについてアパートの階段を上っていた。

いや、ここが本当に彼女のアパートなのかはわからない。彼女と会話をしたのは今日が初めてだったし、

どこに住んでいるかなんて確かめようがなかったからだ。


とにかく、靴底に錆びた鉄の感触を感じながら階段を上った。


風が無い夜で、僕はショルダーバッグを下げた背中にじっとりと汗をかいていた。


「ごめんなさい、少し散らかっているかもしれません」


そんな彼女の声と共に、ドアが開かれる。

カーテンを締め切っているのか、部屋の中の様子は真っ暗で何もわからない。


肩の少し上で切りそろえた黒髪を揺らして、彼女が先に部屋に入った。

僕はそのあとに続いて、恐る恐る部屋の中に入った。


「少し待ってください。明かりをつけますので」


部屋の印象は、住人のそれとはかなりかけ離れたものだった。


照明は主に、そこら中に置かれた提灯。


和紙に色がついているので、青や赤、それに紫や橙色といった色の光が畳を照らしている。

他の家具はうっすらと輪郭が見える程度で、全体のシルエットは判別できない。


「先輩、何かお飲み物は?」


彼女が僕に話しかけているのだと気が付くまで、少し間があった。


「いや……ありがとう、大丈夫だよ」


「そうですか」


彼女は僕に背を向けて、次々と提灯に明かりを灯していく。


床、本棚、テーブル。およそ平面だと思われる場所には、必ず提灯が置かれていた。

そのすべてに、彼女は丁寧な手付きで火を灯していく。

たまに明かりが揺れるところを見ると、提灯の中には電球ではなく蝋燭が入っているのだろう。


「いや……それにしても、すごい部屋だね。これは君の趣味なのかな?」


「これ……といいますと?」


「つまり、その、提灯だよ。普通の明かりはないの?」


「はい。私、蛍光灯の明かりが苦手なので」


「あぁ、それはわかる。ずっと見ていると頭痛がしてくるよね」


僕の言葉に、彼女は何も答えずににっこりと笑った。


「先輩、お面は今お持ちですか?」


「お面?」


「そうです。八幡宮で拾われたお面です」


なんのことだろう。僕はお面なんて拾った覚えはない。


「申し訳ないけれど、僕はお面なんて持っていないよ」


「いえ、そんなはずはありません。私は見ましたもの」


「見た? 見たって……何をかな?」


「夏季休暇に入る少し前、先輩はお参りをされたでしょう? 

その時、小銭を落とされたはずです。それを追っていった先で、お面を見つけられたはずですよ」


「えっと……」


彼女が言う通り、お参りに行ったのは本当だ。


夏の半ばになると、その神社は祭りの舞台として騒がしくなる。

あまり賑やかなのが好きではない僕としては、静かなうちに訪れておきたかったのだ。


「でも……どうして僕はお参りに行ったのだろう?」


「それは、今は重要ではありませんよ。それよりも先輩、お面です」


いつの間にか、彼女が僕のすぐ近く立っていた。


華奢な彼女の肩が、僕の胸に当たる。


黒髪からふわりと香る甘い香りは、男だらけの交友関係を営んでいる僕にとっては蠱惑的ですらあった。


「ま、待ってくれ……僕は本当に知らない。嘘はついていないよ」


「その鞄の中にしまわれていましたよ?」


そう言って、彼女は僕のショルダーバッグを指さした。


「いや……そんなはずはない。この中にはペンやメモ帳くらいしか入れていない」


なんだか怖くなってしまって、僕はバッグのストラップをきつく握りしめた。


「そんな意地悪は仰らないで下さい。今日はそのために来てくれたんじゃないですか」


「そのために……?」


「ええ。私に、その不思議なお面を見せていただける、と……」


「いや、待ってくれ……そもそもいつ約束をした?」


彼女が僕に密着してぐっと体重をかけてきた。


さらりと、彼女の黒髪が白いうなじを滑った。


「お忘れなのですか? それは少し……傷つきます」


やがて、僕は尻餅をつくように後ろに倒れこんでしまった。


「大学に来るとき、いつもその鞄に入れて持ち歩いていると仰っていたじゃないですか。

だから私、先輩と同じゼミにしたんですよ」


僕に覆いかぶさるようにして、彼女が迫ってくる。

ずるずると後ずさってみたけれど、やがて壁にぶつかってしまった。


「ほら、先輩……私に、お面を見せてください」


驚くほど冷たいもので、僕の両頬が包まれた。


それが彼女の白くて細い指だと気が付いたとき、僕の呼吸はすっかり乱れてしまっていた。


「震えていますね、可哀想に……怖いんですか? 大丈夫。この部屋に蛍光灯はありませんから」


「ま、待ってくれ……僕はお面なんか知らない。それに……」


僕の顔をつかんだまま、彼女の顔が近づいてくる。


悪戯っぽい、やや吊りがちな大きな瞳。

細面の顔は雪のように白く、大理石のように生気が感じられない。


薄い唇がゆっくりと動き、僕の頬に接吻をした。


その直後、彼女がさっと離れた。


「今日は蒸しますね。やっぱり何かお飲み物をご用意します」


「い、いや、僕は……」


「何かさせてください。先輩をお招きして、お茶も出さないなんて恥ずかしいじゃありませんか」


そう言い残して、彼女は隣の部屋に消えた。


どうやら僕の右手には窓があるらしく、ざわざわと木々の揺れる音が聞こえた。

外は風が出てきたらしいが、部屋の中は相変わらず蒸し暑い。


しばらくして、彼女はお盆に二つのグラスを乗せて戻ってきた。


「先輩は珈琲がお好きですよね。お財布がさみしいときは、よく学食で飲んでいらっしゃいますし」


コトン、と音を立てて、彼女がグラスを僕の前に置いた。


琥珀色のグラスに注がれた液体からは、アルコールと微かに珈琲の香りがした。


「珈琲焼酎ですよ」


グラスを見つめている僕をよそに、彼女は美味そうに自分のグラスを傾ける。


カラン、という涼し気な音と共に、淡く照らされた彼女の白い喉がこくりと動いた。


「いや、その……女性の部屋に二人きりで酒はダメだよ」


「あら、どうしてですか?」


「どうしてって……」


「氷、解けてしまいますよ?」


彼女はなんとも美味そうに珈琲焼酎を飲み進める。

それを見ているうちに、僕は自分の渇きに気づいてしまった。


このグラスを空けたら帰ろう。そう決めて、僕もグラスに口をつけた。



気が付くと、僕は布団に横になっていた。


顔も腕も腹も熱い。自分の脈がやけに大きく、そして速く聞こえる。


「先輩……お気づきになられましたか?」


声の方を向くと、彼女が団扇で僕に風を送ってくれていた。


「お酒、あまりお強くはないのですね」


「あぁ……そうなんだ。ごめん、迷惑をかけてしまって」


「いえ、勧めたのは私ですから。気分が良くなるまで、もう少し横になっていてください」


その提案は魅力的だった。頭はジクジクと痛んだし、全身がとてもだるい。


彼女の言葉に甘えて、枕に頭を預ける。本来は照明器具があるべき天井は、暗くて何も見えない。


その暗闇を、僕はじっと見つめた。


すると、筆で乱雑に塗りつぶしたような暗闇の中にチラチラと白いものが見えた。


「先輩……? 横になったままでよろしいので、何かお話をしませんか?」


最初は、その白いものが揺れているように見えた。


しかしそれは、提灯の明かりの方が揺れているだけだった。


「私、大学で先輩をお見掛けした時から思っていたんですよ?」


一度それに気が付くと、他にも同じものが目についた。


どうやら天井からぶら下がっているらしく、それは一体や二体ではない。


おびただしいほど、大量にぶら下がっていた。


「こうして、一緒にお酒が飲めたら嬉しいな……って」


やがて、ぶら下がっている物の輪郭が見えてきた。


つま先だ。


暗闇の中にある天井から、小さなつま先がぶら下がっている。


「だから、今日は嬉しいんです。先輩が先に潰れてしまったのは残念ですけど、

私は女性の中ではお酒が強い方ですから、仕方ないですよね」


いや、もちろんつま先が単独でぶら下がっているわけではない。

目を凝らすと、その先にはふくらはぎや太もも、それに腰も見える。


大きさから見て人間ではない。たぶん人形だろう。


しかし、小さな女の子が遊ぶようなおもちゃではない。


もっと精巧で、手作りされたようなもの。


「それに……こうして先輩の介抱をするのも、なんだか気分が良いんです」


色とりどりの提灯の明かりを淡く反射している、無数の白いつま先たち。


視線を上へ上へと向けると、一体のソレと目があった。


「だって、独占しているみたいじゃないですか? 私、コンパは嫌いです。

どうして興味も無い人のお話を、ニコニコして聞かなくちゃいけないのでしょう?」


それは、狐だった。


いや、正確に言えば狐のお面を被った人形。


マリオネットというやつだ。


「それってなんだか馬鹿みたいじゃありませんか?

女は愛想よくしていなくちゃいけないって、誰が決めたんでしょう?」


やがて、僕と目が合ったマリオネットの右腕がゆっくりと動いた。


そして、ゆっくりと自分の狐面に手を指をかける。


「ねぇ……先輩?」


お面が、外される。


その下にあった顔は。


「お面……見せほしいなぁ。先輩」


今にも泣き出しそうな、僕の顔だった。

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