窓の向こうの
「あれー、プリント一枚足りないよ?」
僕は、声を上げた生徒を振り返った。
そこには、自分が渡されたプリントを片手に困ったような表情で辺りを見渡す女子生徒の姿があった。
ん? 彼女は一番後ろの席の筈なんだけどな。
近くにプリントを持っていない生徒が居るわけでもないし……。
そこまで確認したところで、僕は興味も失せたので彼女から注意を逸らした。
そして、頬杖をついて窓の方を眺める。
雲が穏やかに流れていく。
……うん、今日は良い日になりそうだ。
その時の僕は、微かな違和感を覚えただけでさして気にしてはいなかった。
「今日はグループワークをするんだって~。……二人一組って言ってたよ」
クラスでリーダーのような役割を務めている生徒が声を掛けたことを合図に、クラスメイト達は皆はばらばらと動き始める。
……とはいえ、僕のクラスは男女共に偶数なので、急いでペアを探す必要は無いんだけど。
何となく組み合わせも決まっているし。
ところが、今度も不可思議なことが起こった。
「うーん、一人余っちゃうね。……一つだけ、三人グループにしようか」
僕は、思わず教室の前にあるサイド黒板に目を向けた。
もしかしたら、窓の外を眺めている間に休みの連絡があったという可能性もあるからだ。
しかし、そこには僕の知らない情報が書き加えられているということは無かった。
ただ席を外している可能性も考慮して辺りを見回してみるも、何処にも空いている席は見つからなかった。
「今日の昼休みは校庭に集合な! ……久しぶりに、皆で手つなぎ鬼とかどうよ?」
四時限目終了後、クラスの「賑やかし」要員の生徒がこのような提案をした。
この時間までに、小さいながらもプリントやグループワークの件のようなことが頻発していたので、僕は警戒を強めながらそちらを向いた。
取り敢えずは皆も手つなぎ鬼についてコメントをしているだけで、今のところは何かが起こっている様子は無い。
それでも僕は、警戒を怠らないように意識しながらお弁当を食べきると校庭に急いだ。
行かないという選択肢は、元より無かった。
……ここまできたら、何が起こっているのか解明したい。
僕の心を占めているのは、こんな思いだった。
「じゃあ、最初の鬼はオレねー」
じゃんけんによって鬼に決まった生徒がそう言ってゆっくりと十を数え始める。
それを合図に、逃げ始める他のクラスメイト達。
僕もその生徒から離れて様子を伺うことにした。
「……0!」
彼は運動が得意な生徒だったので、瞬く間に三人捕まえて鬼は二つのグループに分かれた。
二つに分かれた鬼はまた次の獲物を探して駆け出す。
……今回は何も起こらないのかもしれない。
その時、まるで僕の考えを馬鹿にするかのように再び異変が起こった。
最初の鬼が居るグループが、まだ三人しか居ないのに二つに分かれたのだ。
独りになった方の生徒は、右手をしっかりと握りこんでいて隣にもう一人居るように錯覚した。
今回も、クラスメイト達は何事も無かったかのようにただ鬼から逃げるだけだった。
その後も、何度も同じようなことが起こった。
しかし、皆は何も感じないらしく違和感を覚えているのは僕だけのようだった。
そのことに気味の悪い思いを感じていると、背中にヒヤリとした何かが触れた。
「!?」
声にならない悲鳴を上げていると、クラスの賑やかし要因が僕の肩を軽く押した。
「どう? 怖かった?」
訳が分からず顔を上げると、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた彼の姿が在った。彼の手には、アイスが二つ握らされていた。
……僕の背中を襲撃したのはきっとこれだろう。
でも、「怖かった?」というのはどういう意味だろう?
僕は、彼の言葉の意味を理解しようと瞬きを繰り返した。
「えーっ! もうばらしちゃうのー?」
「つまんなーい」
その言葉にいち早く反応したのは、周りに居たクラスメイト達だった。彼らは、不満を言いながらも皆一様に楽しそうな表情で達成感を感じて居るようだった。
僕は、彼らの言葉に漸く理解した。
つまり、僕はからかわれていただけということ……らしい。
理解した途端、肩から力が抜けるのを感じた。
「なんだよ……。皆で僕を騙していたわけ?」
「いやぁ、悪い悪い。……だってお前、いっつもつまらなそうな表情をしてんだもん。皆でその表情を変えてやろうって言ったら意外に盛り上がってさ」
「……発案者は君か」
僕が溜息を隠さずに言うと、彼はまた軽い調子で「悪い」と返した。
何となく和やかな雰囲気になって、皆で笑いあった。
「……あ、」
そんな時、僕の正面にいた生徒が小さく声を漏らした。
僕と会話していた生徒は、「もういいよ」と笑いながら言った。
僕は流石にしつこいだろうと、その生徒を冷たい視線で睨め付けた。
「何? まだやるんだったら、僕も怒るよ?」
僕の背後を指差しながら未だ顔を青ざめさせている生徒に、少し大きな声で言った。
それでも、彼は何の弁解もせずただ指差し続けるばかり。
それを不審に思ったのか、馬鹿にしたような表情で僕の背後を見た生徒達は、一人残らず顔を青ざめさせ閉口した。
「な、なんだよ。……またふざけているんだろう?」
僕は、この気持ち悪さに耐え切れなくなって後ろを振り返った。
「……何も無いじゃん」
はっきりと苛立ちを感じながら視線を正面に戻した僕の視界に飛び込んだのは、赤。
「は?」
僕の身体が理解することを拒んだのか、口から出たのは間抜けな声だけだった。
さっきまで僕の正面に居た筈の生徒は、ただの赤い水溜りになっていた。
わけも分からず辺りを見回すと、僕の周りはどんどん赤で染め上げられていく。混乱した僕は、後ろに居る「何か」の正体を突き止めようと、策も無く躍起になって様々な方向を見た。
お陰で、僕の真後ろに居る生徒が犠牲になっているということに気付いた時には、教室の中には僕とこの騒動発案者の姿しかなかった。彼は、僕のすぐ隣にいたから上手く免れたのかもしれない。
「何なんだよ……」
呆然と呟いた僕の背後から楽しげな声が響いた。
『幽霊になって人を脅かしたいなら、手伝ってあげるよ♪』
恐る恐る声のした方を振り返った僕の視界には、やはり彼以外には何も映らない。
「君は、何がしたいのさ……?」
『えー? 心外だなぁ。……キミを守ってあげたんだよ? キミを苛立たせるものは、あとこいつだけでしょ。……早くこっちに来てくれないかなぁ♪』
本当に楽しそうに響く声に僕は寒気が止まらなかった。
『キミも、本当は消えて欲しいって思っているんじゃないのー?』
「そんなわけない! ……あ」
叫んだ僕は、今何も考えないで後ろを振り返ってしまったことに気付いた。
……さっきまで、僕は彼の方を向いていなかったか?
そこで、声がした後ろを振り返ったということは……。
出かけた答えを必死に拒否する僕は、どうにか彼の姿を見つけようとした。
しかし、そんな僕を嘲うかのように視界には人の姿などは欠片も映らない。
「あ、れ? さっきまで、ここに居たのに……」
この短時間で見慣れた赤を見つけた僕は、何故だかそれが彼だったと理解出来てしまった。
「あは、僕のせいなの? なにそれ……」
僕は、笑いが止まらなくなるのを感じた。
今朝「良いことがありそう」なんて思いながら見た窓までふらふらと歩いていく。
……これから一生、誰も自分の後ろに居させてはならないなんて、どう考えても不可能だ。登下校だけで、どれだけの人数が犠牲になるのか。
微かに残った理性でそんなことを思った僕は、窓枠に腰掛けてそのまま手を離した。
そして、自分に残された僅かな時間を想った。
誰も居なくなった教室を、一陣の風が吹きぬけていった。
『後ろの正面だあれ?』