24、苦しみの末に
どれくらい時間が経ったのだろうか。時計も周りの変化もないから判らない。ただ、かゆい所が増えていることだけは確かだ。
掻きたくても掻けないほどツラいものはなく、時間がどうだとか考える余裕もない。
かゆい所に力を入れようが身をよじろうが、いっこうにかゆみは治まらない。気にしないでおこうとすればするほど逆に神経は集中する。
「なぁ。やっぱり蚊ぁみたいな小っさいもんでも、血ぃ吸われ続けたら血ぃなくなってきて干からびてきよるんかなぁ?」
「知るか」
「気のせぇか、何か気ィ遠なってきたわ」
干からびるよりも、おかしくなるほうが先だ。手に足に顔に、黒い糸くずのような物がサワサワとまとわりつき、言わずと知れたあの不快な羽音が耳元を飛び回り続けている。
この羽音、かゆさ…かゆいなんてもんじゃない。感覚もどうにかなりそうだ。かゆいんだか痛いんだか、冷たいんだか熱いんだか分からなくなってきた。
どう考えても、モントの奴が恨めしい。モントだけじゃない。あの英雄のジジイもクソ親父も、何もかもが恨めしい。俺が化けて出てやりたい。
「あ~、かゆいわ~。頭ン中もかゆいわ。俺の脳ミソ取り出して、熊手でガリガリ掻いてぇな。半分、欠けてもエエから。いや、脳ミソ入っとらんかも。脳ミソ入ってるか入ってないかは~、さて~、御慰ぁみ~」
おかしくなったのか、アルは変なことばかり言っていた。…いや、いつもどおりかも知れないが。
狂うか、シャレじゃなくて干からびて死ぬか。このまま幾日も放置されるのか?冗談じゃない。
つぶれた蚊だろうか、目尻に何か冷たい物がついた感触がある。まばたきをした時に蚊を挟んだのか。気持ちが悪い。
「…なぁ、起きとる?」
アルが心配そうに問いかけてきた。俺が黙っているから眠っていると思ったらしいが、さすがの俺も、この状況じゃ眠れるわけがないだろ。
と、前を見遣ると、水面の向こうの暗みでホタルのように小さな光が一つ揺れていた。
それは、ゆっくりと近づいて来ているようだ。
あんな光が見えるとは、ついに俺まで狂ったか?
「アル、あの光が見えるか」
「目ぇに蚊ぁ入ってしもて蚊ぁしか見えんわ。視界は全部、黒と白のシマシマやねん。お前、光なんか見えるんか?ほぼ幻覚やん。おそらく頭おかしなったんやで、ソレ」
アルを見ると、たしかに目をつぶってクシャクシャの顔をしている。
もう一度、光のほうを見ると、闇に浮かぶ光の正体は…ランプだ。どうやらモントのようだ。
何しに来やがった?
「御霊は来たか?」
モントは対岸の橋のたもとで立ち止まって皮肉混じりの声で言った。嘲笑いに来たのか?
つもり積もっていたありたけの恨みを目線に乗せてモントをにらみつける。すると、モントはニヤリとしたように見えた。
「あの話には続きがあってな、それを話しに来たのだ」
そう言って橋を渡り始めた。
板橋をきしませてこっちまで来ると、モントは自分の腰の道具袋から小刀を取り出してアルの縄を切った。
さっそくアルは身体を掻こうとした。
「いたたッ」
だが、すぐに悲痛な顔で肩を押さえた。そりゃそうだろう、長時間うしろ手にされていた関節をすぐには戻せない。
モントは続けて俺の背後へ回って足首と手を縛めている縄を切った。
瞬時に身体は自由になったが、無理していた肩の関節が痛む。代わりに足の先を使って届く範囲を掻くが、非常時でなけりゃ人には見せられないようなみっともない光景だ。
モントに対して疑問が先に立ち、さっきまでの怒りは消えていた。
なぜ助けるんだ。もう生贄にならなくてもイイのか?
「蚊が寄って来る。歩きながら話す」
そう言ってモントは灯籠の灯を念入りに消して回った。闇が拡がり、一気に灯りはランプだけに収斂された。
モントは橋を渡り始める。肩をかばいながらそっと手の甲を掻いていたアルは、たどたどしく靴に足を突っ込んでモントを追った。俺もそのあとへ続く。
うしろを気づかうこともなく先々と歩くモントの持つ灯りを目指してついてゆく。
「蚊を殺すなよ。この地方で蚊は先祖の御霊だからな。また生贄になりたくなければな」
振り返りもせずにモントは言った。
「もう生贄は終わりか」
俺が問いかけてもモントは答えなかった。黙したまま先に立って歩き続けている。左手にランプを持ち、抑止のためか右手には依然として抜いたままの小刀がにぎられている。そのうしろ姿に隙はない。
小さな灯りだけじゃ、うしろの俺たちは足元もロクすっぽ見えやしない。時おり木の根に足を取られそうになりながら、足の速いモントについてゆくのが精一杯だ。
アルは案の定、俺の上服の裾を固くにぎりしめてキョロキョロしながら歩いている。
どれだけの時間、沈黙が続いただろうか。モントは黙ったままで、その話の続きというのを言い出そうとはしなかった。
景色は移ろわず、深い木々の茂るさまは坑内を歩いているみたいだ。生まれてくるのも死んでゆくのも、ちょうどこんな感じなんじゃないだろうか。暗くて淋しくて、救いようもなく孤独な一本道で。
何だか分からないが、その話の続きというのを聞きたくはなかった。
それは親父のことなのだと、おぼろ気ながらも確信していた。しかも、俺が知りたくない部分のような気がする。…知りたくないというよりも、それは知ってはいけない親父の誇りの部分とでも言おうか。
「聞きたくなさそうだな」
振り返りもしないままのモントは見透かしたかのように言い、ランプとともに鞘を持っている左手へ右手を寄せ、刀身を静かに収めた。
「もう三十年以上も経つのにもかかわらずな、その少年兵だった男は詫びのつもりなのか、今でも私刑に処した父親の一家にカネを持ってくるのだ。そんなものでは償いにもならんのにな」
さっきまではハッキリとした輪郭を持っていなかった思いが、手に触れられそうなほど確かな感触になってしまった。
何も言えなかった。
「はは!あんたは知らなかったのか?どうしてだろうな。息子は一番の好敵手だから弱みを見せたくなかったからか?」
モントは言い、カラカラと笑いながら灯りを消した。いつの間にか空は薄明るくなっていた。
夏の終わりを告げる蝉が讃歌のように鳴いている。
まだ、うまくは鳴けていない。
…………
モントと別れ、そのまま村へ入らずにさびれた街道へと抜けることのできる道を歩いていた。
親切なことに、俺たちの荷物はモントがコッソリと村外れまで持ち出してくれていた。俺たちが村へ入れば村人が生贄の逃亡を許さないだろう。
空はまだ明けきらない。まぶたが重い…と言っても眠いからじゃない。蚊のお陰だ。腫れたまぶたじゃ視界はふだんの半分しかない。重いわけだ。
「スゴい顔やで。めっちゃきしょい。明るなってきたから、よう見えるわ」
アルは笑うが、お前も人のことが言えないヒドい顔だぞ。
それよりも、早くヤム村から遠ざかりたい。思い出しただけでゾッとする。真っ平ごめんだ。
「せやけど、あのモントさんの言うてはった話、お前のお父さんのことやったん?ちゃうん?」
肯定も否定もしたくなくてアルの問いに俺は黙ってヒジを掻いて頬を掻いてあごを掻いていた。
そうしてしばらく歩いていた。
ふと見ると、アルの頬に蚊が一匹食いついていた。まだ本人は気づいていない。
俺は、そっと狙いを定めて平手でブッ叩いた。ついつい憎しみのあまり、力が入り過ぎたか。
「イタっ!何すんねんッ!俺、まだ何もしてへんやんか!」
アルは驚いて頬を押さえ、目を三角にして俺を見上げた。お前が憎いんじゃない、蚊が憎いんだ。
蚊のついた手の平をアルの目の前に示してやった。
「な~んや。蚊ぁかいな。てっきり俺に何か恨みでもあるんかと思たわいな」
笑うアルの頬には、くっきりと指の型がついている。さすがに少し悪い気がした。
…と、その時、道の向こうからやって来た老人と目が合い、その場は凍りついた。
「あ、あんたがた、もしかして、蚊を…?」
ヤムの村民だろう。カゴを背負った老人は年に合わない素早さでこちらへ走り寄ってきた。思わず証拠の手を下ろして固くにぎりしめた。
「いえ…そんなん、蚊ぁとちゃいますよ!コイツとケンカしとるんです!ムカつくなぁ、このヤロ~」
アルは口ではそう言いながら、助けを求める顔で俺を見ている。
「だったら、そのにぎった手を見せなさい!」
老人は剣幕で俺に詰め寄ってきた。
「爺ちゃん、どした?」
老人が振り返った向こうから、筋肉隆々の強そうな野郎が三人、後れて坂を上がってきた。
捕まる!
瞬時にあの恐ろしい生贄の一夜が脳裏に浮かんだ。逃げるが勝ちだ!
俺はアルに逃げるように目配せし、老人の脇をすり抜けて走り出す。続けて野郎たちの横も走り抜けた。一瞬後れて気づいたアルも俺を追って走り出したようだ。
振り返ると、追いかけようとして足をからませ転倒している老人が見えた。
何だか少し悪い気もしたが、それどころじゃあない。こちらも命懸けだ。強そうな野郎が追いかけてくる!
これでもかというくらい遠くへ、ヤムから離れるため、執拗に走り続けた。
だが、駆けながら心に引っかかっていることがあった。
…今さっきつぶした蚊、まさかあの婆さんの夫じゃなかっただろうな…。
『血の記憶』おわり
《第4話へ、つづく》