23、地獄の苦しみ
「…なぁ…」
蚊の鳴くようなアルの呼びかけに俺は我に返った。
「何だ」
「なぁ、吸血鬼ってな、あのブランさんみたいな牙しとって、目ェがギラッと光っとったり…爪が、こうシャキーンと尖っとって、耳も鼻も尖った…黒い服とか着とったりするんとちゃうんか??うわっ!あれ!」
アルが何かに驚いたような声を出した。アルの見るほうへ目線を遣ると、濃紺の空に黒い物影が二、三飛び回っていた。カラスよりは小さい。
「あれが吸血鬼かぁッッ!?」
アルは悲鳴のような悲愴な声を上げた。
ハナっから吸血鬼なんてもんは疑っている俺は少なくともコイツよりは冷静でいることができる。よく見ると、ただのコウモリじゃないか。
「馬鹿。コウモリだろ」
「コウモリ??たぶん、吸血コウモリやでソレ!こう、バサバサーっゆうて来るんちゃうん?!いや~ん」
冗談なのか本気なのか分からない口調だ。
しかし、別にコウモリはこちらへ飛びついてくる気配はこれっぽちもなく、彼らは彼らで忙しく闇の森を飛び回っているだけだ。
「う~ん、何や、ちゃうんかいな。…せやったら、吸血蜘蛛やで、たぶん。ヒヒヒヒ、ほれ、肩んトコ、お前のうしろ~ッ!」
恐ろしいことを言うな!
背後に蠢く八つ足を想像してしまい、途端に寒気がしてきた。背筋がゾクゾクし、肩の辺りが気になって仕方がなくなる。
「馬鹿。そんなもんいるか。縄を解く方法だけを考えろ」
「っんなアホな!せやったら、俺ら何の生贄なっとんねん!生贄ごっこかいな。それか人柱ごっこ?」
人柱とは、シャレか?
そうだな。言われてみりゃそうだ。村人は迷信を信じていそうだが、あの現実主義的なモントがこらしめるためだと言っていたからには何もないわけがないだろう。
もしや、吸血鬼というよりも、野犬や狼の類いに喰わせる気か。それなら分かる。
「うわぁッ!プィーンゆうとる!また蚊ぁ寄って来よった!ぎゃっ、止まっとる!すでにかゆいし!何とかしてくれ~!」
アルは縛られたまま必死に首だけを振っていた。何をしても騒がしい奴だな。
「ちょー、蚊ぁ叩いてくれッ!もう!血ィ吸うとるしー!肩にも止まっとるし!脚かゆいし!」
血を吸う…もしや、吸血鬼というのは蚊のことじゃないだろうか?
「アル、それが吸血鬼だぞ」
「うっそ~!じょーだんやろ!こんなん生殺しやがな!はよ、雨上がりのミミズの干物みたいなんになりたい!」
干からびたミミズにはなりたくはないが、蚊が吸血鬼だということは恐らく間違いない。そのために、こうして袖なんかをたくし上げられているんだ。
そう言う俺の手や足の甲にも蚊が止まっていたが、この格好じゃ叩くこともできやしない。文字どおり手も足も出せないじゃないか。
かつてこんな苦痛があっただろうか。様々な処刑があるだろうが、身動きできないところを蚊に喰わせるなんて…ある意味で究極に恐ろしい処刑方法だ。
「せや!お前が蚊ぁで終わらしとるからや!」
「?何のことだ」
「あれやがな、あれ!しりとり、お前が蚊ぁで止めたまんまやろ!せやから、蚊ぁ止まりに来よんねや!」
馬鹿な。本気で言ってやがんのか?見ると、真面目な顔をしている。
「せやから、続きや!かぁやで、か!はよ、ゆえ!」
あきれた。今しりとりをするつもりなのか。
「…そんな場合か」
「そんな場合や!はよ!」
俺は馬鹿らしくて黙っていた。