17、忍び寄る魔の手
「うるさい。寝ろ」
「寝てられへんって!生きて帰れるかどうかの分かれ目なんやで!あのな、今な、読んどる本に出てくる吸血鬼の物語にな、そっくりやねん。どない思う?」
どう思うも何も、空想と現実を混同させている、お前の頭のほうが大変だろうが。
「何なら、今から読む?」
そう楽しそうに言い、荷物を探っている気配がする。読むワケないだろ、今ごろ…。
俺は応えずにいた。
「せやったら、読み聞かしたるから、聞き」
せっぱ詰まってんだか悠長なんだか分からんぞ。
「…かいつまんで言やぁイイだろ」
「さよかぁ?おもろいのに…」
さも残念そうに言った。回りくどい奴だ。
いつの間にか雷鳴は稲光を伴って近づいて来ていた。雷光が暗闇を一瞬にして青白い光で充たした。それを追うようにして地がうなる。
ひらめく雷光に照らされながらアルが言うには、その物語の中で吸血鬼が正体を隠して善人のふりをし、病気の妻のために旅人を招き入れては血を吸い尽くして殺してゆく…その中に若い兄弟の出てくる所があって、今その場面の状況にそっくりだと言うのだ。
この手の本は、おおかたジェンスにでも借りた物なのだろうが、吸血鬼なんてもの自体が作り話で、そんなものは現実にはいないだろ。ありえない話だ。
「なぁ、俺、怖いわ。一緒に寝てぇな…」
一緒に?!そのほうが怖い…。
「なぁ…お願いや」
「バカ言うな。一人で寝ろ」
考えただけでも気持ちが悪い。それに暑い。なんて馬鹿なことを言いやがんだ。
「そんなイケズ言わんと~、頼むわ~!なァ」
閃光の中、アルがこっちへ来るのが見えた。
「こら!来るな、気色の悪い」
「きしょい言わんでエエやんか」
俺が寝床からアルとは反対方向へ飛び退いて言うと、アルは必死の声で抗議してきた。甘えん坊にもほどがあるぞ!
「あっ!足音が!やっぱ来る!どないしょ~」
急にアルが声を押し殺して叫んだ。同時に、どこをどうやって来たのかアルは寝台を飛び越え、ドサクサにまぎれて俺にしがみついた。速い!
怖い怖いと思うから聞こえる気がするんだろ。
耳を澄ます…雨の音に交じって異質の音がしている。板を踏みしめているような足音が一歩一歩こちらへと向かって来ていた。空耳じゃない。本当に誰か来るようだ。
「せやから言うたやろ~、吸血鬼や~!どないすんねん??」
背後からアルはヒソヒソと怒鳴った。
そんなまさか。しかし、成りゆきに任せるしかない。今さらジタバタしてもムダだろ。
とりあえず真っ暗では分が悪い。
「灯りをつけろ」
灯りをつけることなど、どうせ思いついてもいないだろう奴に向かって命令する。
「灯り??暗ぁて、どこなんか、見えへんわ…どこやねんっ?暗いなぁ!ちょ~、燭台探すわ。暗いから、お前、先に灯りつけて」
そりゃそうだが、暗いからつけろと言ってんだろうが。
「早くしろ」
「分かっとるわぃ!…いや、分からんわ」
俺から手を離し、かたわらでしばらくゴソゴソとしていた。もどかしい。ようやく火打ち金の音がし、やがて枕元だけが薄暗く照らし出された。
近くにでも落ちたか、雷の音が大気をつんざき、地鳴りのような振動が身体に伝わる。雷光と雷鳴は、ほとんど同時だった。
息を殺していると、足音は部屋の前で止まったようだ。吸血鬼かどうかはともかく、誰かが来たことは確かだ。
施錠していない戸が不快な音を立ててゆっくりと開く気配がする。同時にアルが再び背中に飛びついてきた。
戸口を見ると、廊下のほのかな灯りに人影が照らし出されていた。こちらの灯りは届いていない。人影は入道雲のような髪形をしている。どうやらブランらしい。
カッと雷光が闇の室内を照らし出した。…その映し出された光景をにわかに信じることができなかった。
その人物…ブランらしいが、その口元には犬みたいに尖った歯が並んでいた。犬歯は鋭く、まるで矢尻のようだった。その歯と口唇を染めた赤い鮮血が口の端から垂れていた。
まさか嘘だろ。見間違いであってほしい。否定をしてきたが、この馬鹿げた吸血鬼の話をとうとう俺も信じなければならないってのか?
何かの間違いかも知れない…いや、夢だ。よくある悪夢だ。俺は眠っているんだ。現実には吸血鬼なんていない。
…ならば目の前の奴は何だ?
先手必勝か、飛びかかろうか。
俺は枕元の得物の鞘口を右手で逆手につかんだ。だが、アルは俺のうしろから腰に腕を回して痛いくらい力いっぱい全身で抱きついている。それじゃ身動きがとれないぞ。
ブランは背後に隠し持っていたランプを前へ大きく差し出し、物色するように室内を照らし始めた。その目は、うつろだった。灯の動くにつれ、物の影が生きているかのようにうごめく。
「何の用だ」
俺は強い口調で思わず問いかけていた。何かの間違いだろうと、まだ半信半疑のまま薄気味悪い男をにらみつけた。
いったい何しに来た?やはり血をすすりに来たのか?やらなければ、やられるか…?
「ふふふ…今宵は、おあつらえ向きだね。雷さえも僕を祝福してくれている。素晴らしい血の祝宴は今、開かれる」
刃物のような長い爪を見せつけるように指をクネクネとさせながら、ブランは高い不気味な声で言った。
と、同時に俺は背中のアルを引きずって二、三歩踏み込み、にぎり直した鞘のままの護身刀を振りかぶった。
ちょうど室内を雷光が満たし、不気味な男を鮮明に浮かび上がらせた。男はランプを落とさんばかりに驚いて後ずさり、見開いた目で俺を見た。
臆病そうな奴だ。負ける気はしない。
「うわぁっ、待った!冗談だよ!暴力はイカンよ、君!話をしに来ただけなんだから」
「話?」
俺は手を止め、聞き返した。アルもソロリと俺の脇腹から顔を出した。
「そうさ。怪談でもやろうと思ってね。いつもやってる歓迎奉仕だよ。この歯もよくできてるだろう?…へへ、ビックリした?」
そう言いながらブランは犬のような前歯を外して得意げに見せた。
カイダン…一瞬どういう字かと考えたが、怪談ということに気づくのに時間を要しなかった。同時に、ひどくめまいがした。
………
ぼやけた視界に天井とアルの顔が見えた。アルにまぶたをこじ開けられたかと思うと、次に鼻と口をつまんで息ができないようにふさがれた。なんて起こし方だ。
アルの手を払って窓のほうを見遣る。すでに薄明るい。仕方なく借り物のように重い身体を起こした。ひどい寝不足だ。
記憶をたどる…あの男のせいだ。あのあと、一番鶏の声を聞くまで延々とブランの怪談を聞かされた。結局は三時間も眠れてないんじゃないか。とんだ迷惑だ。これなら、野宿で蚊に食われてたほうがマシだった。
善人そうでも人はみだりに信じるなということか。
それにしてもあの男はボンの奴みたいに、くだらない演出に心血を注ぐ種の人間だな。あんな冗談ばかりやっていると、いつか本気にされて生命を落とすぞ……他人の心配なんてしなくてもイイのだろうが。
「はよ起きんと、予定が狂うで」
アルは皮肉っぽい顔つきで言った。
「分かってる。…お前は元気だな…」
俺はそう言いながら、放っておくとふさがりそうな重いまぶたに抗う。目に映る物は二重三重に見え、目が回る。
アルは寝不足のかけらも感じさせない、すがすがしい顔をしている。これだけはコイツの取り柄だな。
「俺かて元気ちゃうわいな。立ちくらみするし、なんかフラ~っとすんねん。貧血気味や。…もしかして、寝てる間ぁに血ぃ吸われたとか~?」
アルは俺の顔を覗き込みながら口をすぼめ、冗談とも本気ともつかないことを言った。
血じゃなくて睡眠時間を吸われたんだろ、とんだ吸血鬼に。