4、アルの悩み?
「ここ、どないしたん?…お父さん帰ってはったみたいやけど、また、しばかれたんかいな」
アルが自分の左頬を指差し、心配そうに問う。
言われてみて、自分の頬に触れてみた。少し腫れていて芯がある。熱をおび、押さえると鈍く痛む。その内頬に舌先で触れると普段にはない凹凸があった。
忘れようとしていた悔しい思いが途端に蘇った。
「うるさい!帰れ」
八つ当たりは嫌いだが、出口のない怒りを思わず目の前のアルに向けてしまっていた。
「何があってん!言えよ!」
アルは、そばの椅子に背もたれをまたいで前後逆に座る。ムッとした顔で背もたれにあごを乗せて俺をにらむ。
お前みたいなガキに言ったところで何になるってんだ。こんな何も考えていないような単純な奴に。クソの役にも立たないだろう。
口をとがらせたガキっぽい顔が懸命ににらみ続けている。猫のように気まぐれな茶色い目。本人は、にらんでいるつもりなんだろうが、迫力に欠け、どうもその顔はスネているようにしか見えない。
…何だか分からないが、火が消えてゆくように、いつの間にか気持ちは収まっていた。
「お前に悩みなんてあるのか」
突然の問いかけにアルはにらむのも忘れて目を円くする。高い眉がさらに高くなる。
「悩み?俺のンか?」
無言でうなずき返す。
「せやなぁ…ないなぁ。言われてみたら、なーんもないわ。ぜんぜん思い浮かばん。まあ、強いて言うたら今日の晩ご飯のおかずがキライなもんかどうかぐらいやな」
やっぱりそうだろ。気楽が服を着て歩いているようなものだ。
「お前も自由な奴だな」
「…も?俺以外にも誰かおるん?」
俺は壁ぎわのサンに目線を移した。自然、目で示すことになる。アルもつられて見た。
「もしかして、サン?」
俺は黙ってうなずいて見せた。
「俺とサンは、いっしょくたなんかいな」
俺の投げた服の上に座って耳のうしろを掻いているサンを見てアルは言った。
「同等なんて失礼だ。サンのほうが上だろ」
「まあ、そら、サンのほうが賢いけどなぁ。俺はネズミぐらいやし。…いや、蜘蛛ぐらい?」
アルはニタッと笑う。俺の皮肉にゾッとするような名前で返してきた。途端に寒気がした。足のほうがゾクゾクし、気になり始める。
「あっ!蚊ぁおるやろっ!かゆいかゆい!」
急にアルは大きな声を出して頬を掻き始めた。どうやら蚊に食われたらしい。
「ぼんやりしているからだろ」
「ボンヤリもヒンヤリもないわい。どうせ、お前は食われとらんのやろ!何で、いっつも俺だけやねん!ムっカつくなぁ!これやから夏は嫌いやねん」
そう言って辺りに目を配る。
しばらく剣豪張りの鋭い視線を宙に泳がせていたかと思うと、アルは突如、自分の服の腕を叩いた。
「やっぱり食われとる!これ見てみぃ、ほれ!ひひひ~、ザマー見ぃ!かわいい俺のカタキ、取ってやったで」
得意げに手の平を見せる。見ると、たしかに蚊らしき黒い残骸の混じった血がついている。
「ああ」
俺は投げやりに短く応えた。こういう時は返事をしないとコイツは引かない。