17、生きた証
……………
ここはどこだ。
…そうか、画工の家か。泊めてもらっていたんだ。
まだ風がものすごく強い。戸板が風に鳴る音で目が開いてしまったか。
まだ暗いようだけど、目が開いたついでに用でも足すか。
身体を起こすと、俺の足の方向にある寝台で眠るアルと…画布に向かうセレのうしろ姿が目に入った。俺たちが眠る前に描いていた物と大きさが違う。
寝ていたから分からないが、たぶん今は夜中だろう。こんな時間に何を描いているんだ。
「こんな夜中まで描いてるのか」
俺の声にセレは手を止めて振り返った。
「起きたのかね」
セレは言った。俺は立ち上がってセレのうしろへ歩み寄った。
アルは眠っている。その腹から足にかけて、薄橙色の小さな花がついた植物が身体に立てかけられている。きんもくせいだ。かすかににおいもする。
アルの足のほうにはロウソクが十本くらいある燭台が置かれていて明るい。
「彼を見てると無性に描きたくなってね。疲れているのか、よく眠っておられるよ」
俺が近づくと、セレは画面を見たまま言い訳のように言った。どうやら本人は気づかずに眠っているみたいだ。無断で描いているんだな。
「君は、絵は描かないのかね」
「描かない」
「絵はイイ物だ。描いた人間が死んでも、絵はいつまでも生きるのだから。また、描かれた人物が死んだとしても絵の中に生き続けられるんだ」
ペン描きか何かの細い線の上にサラサラと色を重ねて載せている。宵の口に使っていた道具とは違うようだ。
「君たちは若いから、まだまだ生きるだろうけど、今の君たちは、もういなくなる。二度と今という時はないんだよ。…画工の使命かな、こうして、この平らな空間に時を止めておくのは。時なんて砂みたいにサラサラと足早に逃げてゆく」
ひとり言のようにそう言い、それから筆を口に横向きにくわえる。小瓶から色のついた砂みたいな物をサラサラと小皿に出し、ノリか何かを足して筆で混ぜた。
時を止める、か。肖像画なんて物もそうだな。描かれた者は何年が経っても老けるこたぁない。
セレは振り返って何かを手渡してきた。憑かれたように手を差し出して受け取ると、手には小さな砂時計が載っていた。
空色の細かな砂が入っている。意識せずに砂の詰まっているほうを上にする。
手近な椅子を引き寄せ、座る。
ロウソクの灯が砂の向こうに見える。細い胴を通って、決して直接触れることのできないガラスの中で、時を刻む砂がきらめきながら流れ始めていた。
「砂時計はね、時間が経つと、きれいさっぱり砂が反対側へ行くだろう?時の吹き溜まり、というのかな」
セレの道具が並んでいる机に、流れるままの砂時計を置いた。見る見る砂は積み上がってゆく。
「人の人生も、砂時計のように元に戻すことができれば、と思うことがあるよ…悔いるような生き方をしている証拠かな」
セレは折ってまくり上げた袖を手持ちぶさたに折り直しながら笑って言った。
今のところ、俺は悔いるほど長くは生きてきていないが、この先、悔いることもあるのだろう。
「こんな詩がある…時の中にあるものは、永遠には止め置けない。栄える国も、鏡の中の私も。風が岩山を削るように、波が岸壁をさらうように、砂つぶのごとく、少しずつ、少しずつ、時という風に削り取られ、小さくなって、やがては元の風になる。栄華も、私も…この詩にどこかで出会ったら、僕のことを思い出してくれたまえ」
セレはそう言ってから、もう一度ゆっくりと詩をそらんじた。
出会えるかどうかは分からないが、とりあえずうなずき返した。誰が書いた詩か分からないが、何となく儚げだな。
ところで、この絵は完成したら本人にやるんだろうか。
「できた絵は本人にやるのか」
「いいや、僕がいただきたいのだよ」
セレの声は嬉しそうな笑いを含んでいた。
アルは被写体としちゃ悪くはないだろうけど、取り立てて持っておきたいほどのモンだろうか。それとも、泊めた奴を記念に描き取る趣味でもあるんだろうか。
眠るアルが白っぽかった画面に、鮮やかな色彩で描き取られてゆく。
水色の寝間着に映える緑と薄橙色のきんもくせい。燭台の光と、その対する深い陰。
最近、何だかクセっ気の出てきたバサバサの毛。巧いもんで、どこから見てもアルだ。そりゃそうだろうな。肖像画を描くのが画工の仕事だ。
「君に、僕からのお願いがあるんだ」
時を忘れて筆さばきに見とれていると、セレは急に口を開いた。
「ずっと、君がエアリアル君を護ってあげてくれないか、何があってもだ…できるかね?」
どうしてそんなことを言うのだろうか。変なことを言う人だ。
何があってもか…アルは俺がいなけりゃ何をしでかすか分からない頼りない奴だ。自負じゃないが、俺がいる時くらいは最低限のことは面倒を見てやっているつもりだ。
「友は大切にしなくてはならない。…それが僕からのお願いだ」
応えずにいると、セレは座ったまま身をねじって振り返り、少し淋しげな目で俺を見た。セレという人は陽気さの下に、どこか淋しさが見え隠れする。こうして世捨て人にならなくちゃならないような、何か哀しいことでもあったのだろうか。
セレは前へ向き直り、筆を持つ手をヒザに下ろした。顔は見えないが、その動きを止め、一点を見つめているようだ。
忘れていた風の音が聞こえ、それに合わせて隙間風が身体に感じられた。炎が強くゆらめく。
「僕は大切な友を戦で亡くした。彼は僕を逃がし、救ってくれた。だけど、僕は彼に何もしてあげられなかった。生命を救うなんて大それたことではなく、悩みを…心さえも分かってあげることができなかったんだ。…それに今でもさいなまされている。君もね、後悔しなくてもイイように、友を大切にしなさい」
「分かった」
「ありがとう。さあさ、起きられなくなるといけないから、早く寝なさい」
そう言われて、眠っている途中だったことを思い出した。用を足そうと思っていたが急に面倒になった。
そのまま床の寝床へ戻る。
寝転ぶと、熱心なセレの背中が逆光に見えた。見ないように反対へと寝返りをうつ…何だか哀しい、知らない昔が見えるようで、俺にまで哀しみが移ってきそうだった。