13、アルの愚痴
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だんだんと雨足が強くなってきた。風も激しい音を立てている。
墨を水に流したような暗い空に風が渦巻く。その濃淡で、雲の流れがものすごく速いのが見て取れる。
峠付近で夜を明かし、早朝からネゼロア山を下り始め、もう少しでふもとに着きそうだというのにこれだ。雲行きが怪しいとは思っていたが、突然の大風に見舞われて嫌になっている。
大きな水滴が容赦なく叩きつけ、目にも入って視界が遮られる。
「なぁ~ッ!俺~、軽いから、飛ばされそうやで!飛ばんように水飲んで~、カバンに石入れて~、体重減らんように大のほうをすんの我慢しとくわ~!めっちゃエエ案やろ!」
うしろから風雨に負けないようにと、ほとんど怒鳴るようなアルの高い声が聞こえてきた。馬鹿だ、内容が馬鹿だ。いつものことだが、くだらないことを言う奴だ。
「なぁ!お前!何で、この天気、予想できんかってん!?もう水筒も風呂も要らんぐらいやで!口開けとったら、おなかいっぱいやし、頭も身体も、きれなったし!滝登りする鯉の気持ち、よう解ったわ」
ヒドい表現だな。
こんなに荒れるとは予想もできなかった。俺だってうんざりしているところだ。だけど今さら、仕方がないだろうが。
立て続けにグチグチと言っているのをずっと聞き流し、だいぶ長い間、風雨に逆らって歩き続けている。雨もうっとうしいが、アルの愚痴は、もっとうっとうしい。
ヴァーバルを立って北東へ四日でネゼロア山脈に着き、ネゼロア山脈に入って二日目…日程のほうは予定どおりなのだが、特にこの季節、天候がどうなるかなんて俺に分かるかよ。
運がなけりゃ大風の日に当たることもあるだろ。
そんなに傾斜はないが、石や木の根が出っ張った道を泥水がうねりながら流れてゆく。濁流に足を踏み入れれば、足元をすくわれそうな勢いだ。
道端の木の枝は風でムチのようにしなっている。
木の根や低い枝をつかんで頼りにしながら、ひたすら低いほうへと歩く。夜陰の近さを物語る空の色は見る見る深みを増して、それに比例して不安も増す。
動かないほうが賢明なのだろうが、どうしてももう少しで着くだろうという期待と、焦りの気持ちが出てしまうのが人情だろう。
「大丈夫なんか??山、下りられるんか?なぁ、馬鹿たれ!黙っとらんで何とか言えよ!」
口の減らない奴だ。お前に言われなくたって俺自身、どうなることやらと思ってんだ。大丈夫だとも何だとも、答えようがないだろうが。
それに、ぜんぶ俺だけが悪いのか?
「うるさい」
苛立ちを視線に乗せて肩越しににらみつけ、ひとこと言ってやる。すると、アルはムッとして口を突き出し、明らかにスネ顔になった。
つべこべとうるさいガキだ。何が相棒だ。やっぱし置いてくりゃ良かったか。だいたい口ばかしの奴で、何でも茶化して、お前は真面目なんだか不真面目なんだか分からん。
叩きつける雨と突風が一緒になって周りの木々を騒がせる。そのままざわめきは木から木へと渡ってゆく。
ぬぐってもぬぐっても水は顔へとかかり、何となくハラが立ってきた。
アルは黙っている。どうやら効果があったようだ。
だけど、やいのやいのと言ってやがったのが黙りゃ黙りゃで、今度はちゃんとついてきているかが気になる。
アルのおばさんからコイツを預かっているという責任もある。アル自身なんてどうなってもイイが、何かあるとおばさんに申し訳ない。
根比べに負けたようで悔しいが、結局は心配になってアルのほうを振り返る。
何のことはない。ふて腐れた態度で歩いていたアルは、目が合うと俺を思いきりにらみつけて大げさに目を逸らした。ガキ丸出しだ。
手の平で顔をぬぐいながらしばらく歩いていると、急に道が広くて平らになった。獣道なんかじゃなく、拓かれた道みたいだ。どうやら山を下りることができたらしい。
道正面の木々の間から、家の屋根のような三角形の物が一つだけ見える。
「家あるやん!もう暗なってきたし、避難さしてもらお」
アルも同じ建物のほうを向いて言った。
この嵐じゃあ外で夜を明かせそうにない。たしかに避難させてもらうのが得策だろう。
近づいても、その三角形の屋根ひとつが見えているだけで、どうやら街や村、集落なんかじゃなさそうだ。一向に他の建物は見えてこない。
そうこうしている内に、ついに空の雲は闇にまぎれ、轟く風の音が聞こえるだけになった。
気がつくと、どちらともなく家を目指し、強風に背を押されるようにして駆け出していた。
川なのか、家のすぐ横を走る細い水路は、かさが増し、今にも茶色い水があふれてしまいそうだ。
その脇には家の高さほどの木が森のように茂り、立ち並ぶ影が薄暗がりの中に見える。
歩幅ほどの水路を飛び越え、ちょうどこちら側になっている玄関らしい戸を叩く。嵐に負けないくらい激しく、戸が壊れるんじゃないかというほどの勢いで何度も叩く。
だが、大風で聞こえないのか、それとも空き家か。応答がない。
「こんばんは!」
叩きながら、風雨に負けないように二人一緒に声を張り上げて呼び続ける。
「誰も住んでへんのやろか…」
あきらめかけた時、鍵を外す音がし、戸がゆっくりと開いた。