おんもらきが哭く
「哭くんだよ」
鳴くって何がさ、と村内は少し不機嫌に返した。恐らく暑いのだろう。私の部屋は空調機器が一切ない。もう暦の上では九月なのだが、今年の極暑は未だ熱を残しているようで、大人二人が座り込む四畳半にはじっとりと汗ばむ嫌な暑さが蔓延している。
麦茶が入ったコップに浮かぶ氷がカランと小気味良い音を立てた。
「だから、その“鳥”がさ」
鳥ねえ、と至極いぶかしむ村内の額から一滴汗が落ちる。私も気づけば首から顔から大粒の汗が浮かんでいた。普段はあまり気にしないのだが、村内の汗を見ていると何だか無性に自分の汗も気持ちが悪くなった。タオルを探したが手が届く範囲に落ちているわけもなく、洗面所に取りに行くのもおっくうで、結局は我慢することにした。
「それにしても暑いなあ。いい加減クーラー買えよ。金が無いわけでもないんだろう? てか銀行員が金持ってない世の中なんて考えるだけでも嫌になるよ。お前の給料でこんなボロ部屋住んでんなら、貯金なんて俺の三年分の年収くらい貯まっているだろうに」
「金はあるけれど……ううん、いや私は冷房というものが苦手でね」
空調機器が生む人工的な冷気は、好きではない。子供の頃からそうだ。扇風機の生温い風も嫌いである。何かにつけ科学力にものを言わせた人工的な現象は好きではない。明確な理由があるわけではないが、体にも悪そうだし、それになんだか“そわそわ”する。
夏は暑いものだし冬は寒いものだ。暑くて気持ち良い、寒くて過ごしやすいなんていう人間はいないだろうが、それでも暑いだの寒いだのいうものは自然的である。それを科学の力で快適な環境にねじ曲げるのは気にくわない。何だかそれは――怠惰な感覚である。
怠惰は、私を“そわそわ”させる。
「まあ金のことなんか良いじゃないか。それに私の給料は君が思っているより少ないよ。今の時勢で真に堅い職なんて無いんじゃないかな?」
「銀行員は堅いだろうよ。それが堅くないなんて言ったらほとんどの仕事がアイスクリームになっちまうよ」
「まあ……そうかもね。いやそういう話じゃないんだよ、私が君に相談したいのは――」
「鳥、だっけか」
そう――“鳥”だ。
いや【アレ】を“鳥”と呼んで良いものだろうか。【アレ】はそんな確かなものではない気がする。
私はここ数日頭を抱えている。比喩ではなく、その現象と直面すればきっと誰もが本当に頭を抱えることだろう。【アレ】は不可解な現象なのである。
いや現象であるかどうかも怪しい。【アレ】は――。
「鳥ねえ」
村内は反応するもののどこか退屈そうである。いやわからないでもない。こんな話、誰が聞いても眉唾物だろうし、何より当事者である私自身も実のところ現実であったかどうか、【アレ】を三度見た今でも疑わしく思っている。
だが【アレ】は――。
現実だ。
少なくともこうして古い友人を休日に呼び出し、知恵を借りようと相談しているわけなのだから、今さら夢でしたなどとは言えない。
「信じる信じないは置いといて、とりあえずお前の話をまとめとこうか。お前は三日前から就寝時間になると部屋を飛ぶ真っ黒な一羽の“鳥”を見る。どっかからカラスでも紛れこんだかとお前は驚き飛び起きるが、決まってお前が起き上がるとその鳥はいなくなる」
「いなくなる、というより“見えないだけ”なのかもしれない」
「また怪しいことを……。まあいなくなるでも見えなくなるでも良いよ。んでお前は気のせいだったかと再び布団に戻るけれど、横になった途端にまたその鳥が部屋を飛び回るってわけだ」
私は力なく頷く。村内はそんな私を見て一つため息を吐くが、話を止めることはなく続けてくれた。
「こりゃ気のせいじゃないと思ったお前はまたもや飛び起きるが、鳥はそれに合わせたかのようにまた姿を消す。お前は灯りをつけて部屋をくまなく探すけれど、そんな鳥どころか虫の一匹すらいないわけだ」
「何も、いないんだよ」
村内は複雑な表情を浮かべ私を一瞥したのち麦茶を啜った。氷がまたカランとなった。
村内は続ける。
「探してもそんな鳥はいない。だが布団に戻ると再び現れる。何度か繰り返したお前は混乱しながらもその鳥の動向を探ろうと考えたわけだ」
「ああ」
「ええと、それで何だったっけ?」
「【アレ】はただ羽ばたくばかりだ。何かするわけじゃない。私の真上を、部屋の隅から隅を――羽ばたくだけだ」
「羽ばたくだけって言われてもなあ。起き上がると消えちまう鳥なんか聞いたことねえよ」
「だから【アレ】は――」
鳥なんかじゃない。ただ鳥の形をした“何か”だ。
「何か――ねえ。お前疲れてンじゃねえの? ほら、公務員っていや何かと辛い目にもあうだろうよ。それに幸恵さんが亡くなってまだ一年経っていないだろう」
幸恵とは、亡妻の名である。私の妻は昨年肺をやられて、三十八という若さでこの世を去った。
私が妻を失い精神的にやられているのは確かだ。しかし間もなく一年である。確かに亡くなった直後は危うい精神状態ではあったが、今は落ち着いてはいる。人間、慣れとは怖いもので、悲しいことだって苦しいことだって慣れてしまえば随分と軽くなる。
だから、妻の死が【アレ】との接触に関係しているとは思えない。
もう、今は妻がいない日常というものに――慣れてしまっている。
「そうは言っても、お前もう一週間くらい仕事休んでいるんだろう? ああ、その鳥のせいか?」
「いや【アレ】は関係ないよ。【アレ】を見始めたのは三日前だと言っているじゃないか。会社を休んでいたのは夏風邪を拗らせたからだよ。まあ今はもうすっかり治っているから、現状の休職理由を【アレ】と関係づけることに間違いはないのだけれど」
私は随分と【アレ】に執着している。いやそんな不可解な現象に襲われたら誰だって仕事どころではなかろう。とにかく、私は【アレ】が何なのかはっきりとさせるまで出社する気にはなれなかった。
「んで、その鳥さんはこの部屋に住み着いて巣でも作ったかい?」
村内は茶化すように言ってから部屋を見渡した。額から汗が頬へと伝う。気持ちが、悪い。
「……だから、何もしないんだよ【アレ】は。ただ羽ばたくだけだ。でも羽音は聞こえない。いや気配すらない。ただ――見える」
真っ黒な躰が。漆黒の羽が。そして――燃えるような“紅い瞳”が私を――。
「怖いとか、ないのか?」
「怖い?」
「いやそれが実際何だろうと、ううん本当にただのカラスだったとしても――怖くないか? だって真夜中に、しかも寝ている所に飛び回るんだろう? そりゃ――」
怖いよ、と村内は笑う。
怖い、だろうか。それは考えたことはない。いや村内のいうとおり常識的な感覚で言えば恐怖が湧く場面ではあるだろう。
だが私は――。
「怖い――という感じはしないのだよ。いや確かに君の方が幾分も正しい。鳥が夜中の部屋を飛んでいたら誰だって恐ろしく思うだろう。だがね――」
怖くはなかった。
怖いとは思えなかった。
ただ。
ただ【アレ】は――。
「哭くんだよ」
村内は。
やっぱりお前もう少し仕事休め、と苦笑いを浮かべて麦茶を飲み干した。
※ ※ ※
また夜が来た。
村内は夏風邪が完治していないかも知れないからもう少し仕事を休めと言っていたが、そうも行かない。いつまでも休めるほど銀行という場所は暇ではないし、そもそも風邪は治っている。
それに何より――。
怠惰は“そわそわ”する。
私はとりあえず明日から職場復帰するつもりで早めに床を引いた。
もし。
もし今日も【アレ】が私の睡眠を邪魔しても、無視しようと思う。わからないことはわからないし、わからないからと言って、無理に納得させる答えを導きだすより、わからないものはわからないままで良いような気がした。
電気を消し、布団に潜る。夜中は結構冷える。布団に広がる体温が安堵をくれる。十分ほどで眠気が襲った。
瞳を閉じる。
暗闇。
真っ暗な、世界。
深く、落ちる。
瞬間。
【噐噐噐】
ゾクリと背筋にその奇妙な音が刺さる。
――来た。【アレ】だ。
私は反射的に勢いよく布団を剥ぎ取った。無視などできるはずもないのだ。
暗い部屋。
目を凝らす。
電灯カバーの上。
――いる。
真っ暗な部屋に浮かぶ真っ黒な躰。漆黒の羽。そして。
私を見詰める――紅い紅い瞳。
「お前は――お前は私に何を望む?」
私に何をしてほしいのだ。私に何を求めているのだ。
お前は――。
【噐噐噐】
耳が裂けそうなほど甲高く耳障りな音。いや鳴き声か。
鋭い嘴がぐばと開く。
【忘らるることは善い】
「――何?」
【だが決して怠ることなかれ】
「お前は――」
ああ。
そうか。
お前は――。
※ ※ ※
「よう、夏風邪は治ったか?」
村内が果物と何だか知らないがビタミン剤を持参して自宅を訪ねてきた。
「ああ、お陰様でもうすっかりと良い」
私は村内を部屋に通すと冷えた麦茶を出した。村内は今日も大粒の汗を浮かべながらヘラヘラと笑っている。
「まあ元気になって何よりだ。人間弱っているときゃ変な気を起こしやすいからな」
「そうかも知れないね。いや見ての通り元気になったよ。躰が軽い」
「良かったな。うん? お前、クーラー買ったのか?」
村内は窓上に取り付けた空調に目をやる。
「ああ、涼しいだろう?」
「おお、涼しいよ。でもどういう風の吹き回しだ? この間は冷房が嫌いだって言っていたじゃないか?」
「いや今でも嫌いだよ。私はね。でも妻が暑いというものだからね、可哀想だから先日大急ぎで購入したのさ」
村内は目を丸くする。
「妻って……何だよ。お前まさか再婚したのか? いや聞いていないぞ、この間はそんなこと一言も言っていなかったじゃないか」
「村内、君は何を言っているんだい? 私は再婚などしていないよ。生涯愛を誓った相手は一人だけさ。結婚式にだって君を招待したじゃないか?」
そう言うと村内は酷くいぶかしんだ。
「ちょ、ちょっと待てよ。お前何言ってんだ? 俺が招待された結婚式は幸恵さんとの結婚式だぞ? それ以外は――」
「だから、その幸恵だよ」
「――は?」
「君もよく知っているじゃないか。私の妻と言えば幸恵以外に誰がいるんだね?」
村内は汗を拭った。唇が震えている。
「お、お前大丈夫か? 本当に風邪は治ったんだろうな?」
「だから完治したと言ったじゃないか。人の話をちゃんと聞いていたかね?」
「い、いやだってお前。だって幸恵さんは去年――」
亡くなっているじゃないか――と村内は声を荒げた。
「馬鹿なことを。村内、君の方こそ熱があるのじゃないかね? 幸恵がいつ亡くなったって?」
「お、お前――」
ほら見たまえよ。私は天井を指差す。
「幸恵だよ。さっきから君に挨拶しているじゃないか。お久しぶりです、村内さんって」
村内は私の指を追ってゆっくりと首を上げる。大粒の汗が畳に落ちた。
途端。
ひっ――と村内は小さく悲鳴を上げ、
「な――何だよ【アレ】はっ!」
と、かなきり声を発し尻餅をついた。まったく騒がしい友人である。長い付き合いではあるがそろそろ落ち着いてもらいたいものだ。
なあ。
幸恵。
真っ黒な。
漆黒の。
紅い瞳の。
【噐噐噐】
おんもらき【妻】が哭いた。