10、『高神姉弟』
「ねえ、チョコちょうだいよ」
そう言ってきた目の前の彼女に、俺は眉を顰めた。
何故なら、直前まで見ていた彼女には幼さがあっても、そこに戦慄を感じさせるほどの妖艶さがあったからだ。
なのに、
「ねえ、ねえ、ちょうだいよ。ちょうだい」
そう言って両手を差し出す彼女には、妖艶さの欠片もなく、まるで大きな幼稚園児のようだった。
あまりの急変振りに、催促し続ける彼女に対してなんの対応できないほど俺は困惑してしまう。
「すいません。姉にそのチョコをあげてくれませんか?」
俺の困っている様子に、彼女の隣にいた少年がそう言うが……姉?
どう見ても姉弟には見えない二人に再び眉を顰めてしまうが、俺の戸惑いをよそに彼女はぐいぐいと両手を俺に差し出し続ける。
これはチョコをあげないと止めそうにない感じだ。
かといって、見知らぬ相手の催促に応じて物をあげてもいいんだろうか?
美羽さんを待たないといけない状況じゃなかったら、この場からとっとと逃げたいものだが……しかたない。
俺は聞こえないように小さくため息を吐いた後、手に持っていた粒チョコの箱を彼女に渡した。
「わ~い」
粒チョコを受け取ると、彼女は本当に幼稚園児ように喜び、お礼も言わずに粒チョコを一気に口の中に入れ、ぼりぼりと食べ始めた。
と、というか、二三粒しか食べてなかったんだが……普通、他人のものを一気に全部食べるか?
彼女の行動に俺は唖然とするしかない。
なんだろう? 見るからに同年代ぐらいなのに、言動があまりにも幼過ぎる。知的障害者なのだろうか?
そう思って、ちらっと彼女を姉といった少年を見るが、彼は俺の方を見ておらず、姉の方を見てにこにことしていた。
どうやら彼は俺に興味ないらしい。
その様子にブラコンという言葉が浮かんだが、そもそも互いの容姿が違い過ぎるので、その言葉が適切かどうか疑問だった。
まあ、男女の違いがあり、必ずしも血縁者であろうとそっくりになるってことはないとは思う。
だが、ここまで違うと思わせる姉弟というのも珍しい気がする。
とはいえ、義理って可能性もありえるので、不自然ではないといえば不自然ではないが……
そんなことを思っていると、不意に星電が震えた。
確認すると、美羽さんからだった。
未だにぼりぼりしている姉と、それを見ている弟を視界に収めながら星電に出る。
「「夜衣斗さん。聞くのを忘れていたんですけど、何が飲みたいですか?」」
「……えっと、カフェオレがあればカレオフェで」
「「わかりました。すぐに戻りますから、もうちょっと待ってくださいね」」
そう言うと美羽さんはさっさと通話を切った。
うん、どうやら復活できたようだ。元気な美羽さんに戻ってなによりだな。
などと思いながら星電をしまおうとした。
「それちょうだい」
は?
チョコを食べ終えた彼女が指差したのは、俺がジーパンにしまおうとしていた星電だった。
なに言ってるんだこの人は? 流石にこういうものは上げられないだろう普通。
そう思って弟の方を見る。
彼に止めて貰おうと思ったのだが、視線を向けられた弟は俺に対して微笑み。
「すいません。姉にその星電をあげてくれませんか?」
とさっきのチョコと同じ感じで言った。
物凄く嫌な予感がした。
もしかしたら、この弟は姉の言うことを全部肯定するタイプの弟なんじゃないんだろうか?
そう思いつつ、俺はジーパンに星電をしまう。
「……すいませんが、流石にこれは駄目です」
「え~欲しいのに」
「なんでくれないんですか?」
俺がやんわり断ると、二人は一斉に抗議の声を上げた。
本当になんなのこの人達?
「じゃあ、その服ちょうだい」
再び困惑している俺に、今度は俺のワイシャツを指差す姉。
「今度こそ姉にあげてくれませんか?」
そう言って俺を促す弟。
明らかにおかしな二人に思わず一歩後ろに下がると、姉の方が一歩俺に近付く。
「じゃあ、そのズボンちょうだい」
今度は俺のジーンズを指差すが、その雰囲気は直前まで見せていた幼稚園児のような感じではなくなる。
まるで夜の商売をしているかのような酷く甘えた声とその雰囲気に、気を抜けば思わず了承しかねないほどの魅了感だった。
だが、それでもジーンズを渡せばパンツを晒す羽目になるのと、海風によりそれなりの寒さがある現状からなんとか理性を働かせ、俺はまた一歩後ろに下がった。
すると、彼女は妖艶な雰囲気を掻き消し、一歩俺に近付く。
「なら、その靴をよこせ!」
今までどの雰囲気になっても残っていた女性らしさが吹き飛び、荒らしい粗暴な男のような雰囲気になった彼女に俺は気圧され、またしても後ろに一歩下がってしまう。
コロコロと雰囲気をまるで別人のように変える彼女に、いいようのない危機感を感じ始めていた。
その感情に反応したのか、背後にオウキが出てくる気配する。
だが、向こうに明確な敵意がないせいか、具現化まではせず、半透明のままのようだ。
それでもオウキから強い警戒感を感じるので、心の中で勝手に具現化しないように制する。
異常だとはいえ、武霊を具現化してまで逃れる必要があるかど――
「うわ~昨日のかっこいい武霊だぁ~」
彼女が不意に幼い雰囲気になったかと思うと、って! 武霊が見えている!?
幸野さんの話だと、武霊使いは確実にこの状態を見え、一部の霊感が強いと思わしき人も見えるかもしれないと言ってはいた。
だとすれば、彼女はそのどちらかってことになるが、あの感じだと武霊使いの方が圧倒的に多いはずだから、彼女が武霊使いである可能性が高いか?
「あのねあのね。とってもかっこよかったの」
俺の困惑をよそに、喋り方までより幼くなった彼女は手振り身振りを交え始める。
「ビューンって、ボシュボシュって」
その言動まではまるで本当の幼子のように喋ったが、次の瞬間、彼女はぞくっとさせるほどの妖艶な雰囲気に戻り、俺に一歩近づいた。
あまりの緩急に思わず硬直していると、彼女は更に接近。
咄嗟の対応できないほど自然な動きで俺に抱き付き、耳元に息が当たるほど口を近付ける。
な、なにこの状況!?
いきなり抱き付かれたことに更に硬直してしまう俺に、彼女は言った。
「だから、そのカッコいい武霊。ちょうだい」
その声に、全身がぞわっとした。
今まで聞いたことがないほど、甘い声が息と共に俺の耳の中に入り、一瞬体の力が抜けそうになる。
だが、それがあまりにも強烈であったため、身を任せそうになってしまう感覚に相反する恐怖の感情が一気に湧き出した。
生じた二つの感情が拮抗したことで、なんとか腰砕けになるのは防げたが、代わりのように全身に鳥肌が立つ。
「欲しいの。欲しいの。欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい」
続いて耳元で繰り返されるうわごとのような欲求に、猛烈な気味悪さが現れる。
これほどまでに一人の人間がコロコロと雰囲気が変わるものなのか?
視覚的に彼女はなにも変わってはいない。
なのに、まるで心の中が丸ごと入れ替わっているかのような、そんな別人感を雰囲気が変わる度に感じていた。
しかし、言っていることに一貫性があるから、多重人格者という感じではない。
だからといって、それが全部、俺のなにかが欲しいって奴だから、こちらとしては対応に困ってしまう。
ここはやんわりと彼女の身体を押し退けるべきだろうか?
だが、いかんせん女性に免疫のない俺としては、思考したことで幾分か冷静さを取り戻したとしても、身体が思うように動かない。
なんかわけがわからない内に妙な窮地に陥っていると、不意に重い金属音が二つ聞こえた。
「や、夜衣斗さん」
その呼び声と共に、背後のオウキが振り返ったのか、驚愕で目を見開いている美羽さんのイメージが送られてきた。
重い金属音は、どうやら美羽さんが買ってきた飲み物だったようだが、そりゃまあ、衝撃的なシーンだよな、この状況。
というか、えっと……ど、どう弁解すれば、いや、別に弁解とかする必要性はないっちゃないが、美羽さんに誤解されても、問題ないと言えば問題ないか? いや、大ありだろうが! って、だからどうすれば!
と脳内が勝手にパニックになっている間、美羽さんは驚愕の表情から緊張した面持ちになっていた。
「高神麗華。なんであなたがこんな所にいるの?」
妙に慎重に俺に抱き付いている彼女に問いかけたが、高神麗華ってのが名前か? ってことは、美羽さんの知り合いなのか? だが、知り合いの割には対応が変だ。
商店街で会った幸野さんは、ニコニコと笑顔で、しかも下の名前で呼んでいた。
なのに、彼女に対してはフルネームな上に、酷く警戒しているようだった。
苦手か嫌いな人物ってことだろうか?
まあ、こんなタイプの人間を得意とする人はいないだろうが……
そんなことを思った時、美羽さんが気になる言葉を口にした。
「弟の礼治はどこにいるの? あなた達はいつも一緒に行動しているでしょ?」
彼はそんな名前だったのか。
と思うと同時に疑問に思った。
どこにいるのって、目の前にいるはずじゃ……
視線を抱き付いている高神姉から弟へ移そうとするが、さっきまで彼女の後ろにいたはずの彼がどこにもいなかった。
って、ここは巨大な橋のほぼ真ん中だぞ? 学園の方に戻ったとしても、俺が彼から目を離した僅かな時間で辿り着くとは思えないし、仮に町側の方に行ったとしても、美羽さんが出会わないはずがない。
だとすれば、考えられるのは一つ。
武霊能力だ。
そうなるとこの姉弟、二人して武霊使いってことになるが……
ふと嫌な予感を覚えた。
さっき感じた嫌な予感とは比べ物にならないぐらいほどにだ。
連想されるのは、美羽さんのさっきの言葉。
「あそこには危険な武霊使いが住んでいて、あいつらに……」「何人もの武霊使いが『殺されている』んです」
武霊使いを狙うってことは、それはつまりその武霊を狙っていることと同意義にならないだろうか?
いや、もしかしたら、それ以外あるかもしれないが、単純に考えられる理由としては武霊以外に最適で、魅力的な存在はない。
だとすると、彼女の言動全てが、美羽さんの言葉から導き出された犯罪武霊使い像に繋がる。
これでもかってぐらい冷や汗が出始めた。
美羽さんの対応から、強く刺激するとヤバい相手なのだろう。
そうであるのなら、なにも知らない俺がここで下手に動くのは危険だ。
ここは美羽さんの対応に任せるしかない。
そう思っているのに、俺の緊張が伝わったのか、オウキが明確な敵意を高神姉に向け始めた。
なんか防御具現でもしそうな感じがひしひしと伝わってきたので、俺は慌てて心の中で落ち着くように命じる。
その時、不意に高神姉が身体を動かし、俺ごと振り返ろうとした。
それほど強い力ではなかったが、い、色々と身体に当たるため、その感覚から反射的に逃れようと、思わず彼女の動きに合わせて動いてしまうと、美羽さんと目が合った。
物凄く気まずい感じだが、それを感じているのは俺だけのようで、美羽さんは真剣な面持ちでじっとこっちを見て、クチパクで「刺激しないで」と言っているようだった。
この反応は俺の予想をますます肯定することになるのだが、だからといって今はどうすることもできない。
「あれ~礼治ぃ~? 礼治どこぉ~?」
耳元では高神姉がいなくなった弟を探している声が聞こえる。
本気で探している感じがするので、彼女も知らないようだが……何の目的で姿を消したんだろうか?
未だに高神姉に抱き付かれている状況では、どうにも鈍った思考が鈍ってしまう。
浮かんだ疑問に対する予測がなかなか浮かばないことに困っていると、美羽さんが慎重に星電を取り出し始めた。
多分、自警団に通報するつもりなのだろう。
なら俺ができることは、美羽さんの行動に高神姉が気付かないようにすること。
そう思って、次に彼女が動いた時は動かないようにしようと決意した時、不意に目の前が赤黒くなり、完全に視界が塞がった。
意味がわからず眉を顰めた次の瞬間には、目の前の光景は戻ってはいた。
だが、その中に美羽さんはいない。
その意味がわかるより早く、なにかが海に落ちたような音が聞こえた。
それと共に、高神姉がいきなり俺の身体と密着するのを止め、しっかり腕で肩を掴まれた状態で、仰向けに倒れる。
彼女の体重が肩に掛かったため、ちょっとバランスを崩しそうになった俺の目の前で、彼女は楽しそうにはしゃぎ始めた。
「あ! 礼治がいたぁ~」
そう言う彼女の視線は上空に向けられている。
つられて目線を上に向けると、そこにはずんぐりとした赤黒い人型ドラゴンが飛んでいた。
そのドラゴンに美羽さんが吹き飛ばされたのだと理解した瞬間、海から水柱が上がり、赤いドラゴン・コウリュウが飛び出す。
俺の目ではわからなかったが、オウキはしっかりとコウリュウの背に美羽さんが乗っているのを確認していたらしく、そのイメージを送ってきてくれた。
どうやら赤黒いドラゴンの体当たりを防御具現で防いでいたらしい。
そのことにほっと一息吐いた時、星電が震えた。
高神姉は未だに俺の両肩に掴まりながら、
「礼治♪ 礼治♪」
楽しそうに揺れながら仰向けになっているので、こっちを気にしている感じではない。
俺は慎重にジーパンから星電を取り出し、画面を確認。
予想通り美羽さんだったのですぐさまでる。
「「夜衣斗さん逃げてください! その女は、きゃ!」」
美羽さんの悲鳴が星電から聞こえると同時に、コウリュウが赤黒いドラゴンに突撃され、吹き飛ばされた。
コウリュウは体勢を整えるために、赤黒いドラゴンは追撃するために、激しく羽ばたき始める。
互いにレベル1の全長三メートルぐらいの大きさではあるが、生じた風は強く、吹き飛ばされそうになるほどの強烈な突風が襲い掛かってきた。
咄嗟に欄干を掴んでそれを防ぐことができたが、瞬間の出来事だったため、反射的に高神姉を抱き寄せてしまった。
っく、馬鹿か俺は! 相手は殺人者かもしれないんだぞ!
そう思った時には全てが遅かった。
「お姉ちゃん。先に行ってて」
その高神弟の声は、何故か足元から聞こえた。
同時にねちゃりとなにか嫌な感覚を足元に感じる。
「うん。先に行ってるよ。頑張れー礼二!」
俺の耳元で高神姉が大声でそう言った瞬間、ずぶっと足が沈んだ。
まるで沼にでも足を取られたかのような感覚に、反射的に下に目を向けると、そこには赤黒い液体があった。
しかも、一歩二歩では抜け出せないほど広範囲にあり、その中に俺の足は膝まで浸かっていた。
ここは橋の上で、足元はさっきまで硬いコンクリートだったはず。
なのに、今はその感覚が足裏にない。
あるのはねっとりと纏わり付く液体の感覚のみ。
あまりの気味悪さに、欄干に掛けている力を強め、脱出しようとしたが、片手は星電を持っている上に高神姉を抱えているので使えない。
当然、片腕だけで引き上がるのも、欄干に掴まり続けることもできるはずもなく、更に追い打ちをかけるように足が下へと引っ張られ始めた。
なにに引っ張られているか確認するより早く、俺の手に限界がきてしまう。
欄干から手が離れれば、当然瞬く間に俺の身体は液体の中に沈む。
思わず目をつぶると同時にねちょっとした感覚に全身が包まれる。
完全に沈み切ってしまったと思ったと同時に、液体であったためか、口の中に僅かに入ってしまう。
口に広がるのは、鉄さびのような味。
って! これって血か!?
俺が赤黒い液体の正体に気付き、ぞっとした次の瞬間、血の感覚が突然消失し、口の中からも味が消える。
しかも、足元には地面の感覚が戻ってる!?
驚愕と混乱で固まっている俺の腕の中から高神姉が、するりと抜ける感覚を感じ、
「あはは、ようこそ私の屋敷へ!」
そんなことを言った。
というか、屋敷?
恐る恐る目を開けると目の前には、楽しそうに両手を広げている高神姉。
そして、その後ろにあるのは木造の建物。
それは明らかにさっき美羽さんが指し示した元星波高校校舎だった。