第二話、あるいは異界に喚ばれては異界で騙れ
よく落下時の効果音のようなものがあるが、あれは本当に存在するのだろうか。高所から物を落としたところで早々落下音など発生しない。
つまり、何かが空高くから落下してくるとしても影にでもならなければ気づくものは少なく、そも、気配のようなものを感じて空を見上げるなど極々稀な人間にしか出来ないものである。
故に空から落ちてくるその影に気付いた人物は無く。
また落ちた先が水であり、何故か大きく水飛沫が上がったりもしなかった為に落下した瞬間には驚いて注目を集めたものの其処まで人の意識をひきつけたりはしなかった。
物音に不思議そうに目を向けると水面には何かが落ちたらしき波紋が広がっているものの、だからと言って何かが浮いてくるわけでもない。人が落ちたにしてはその水音も、その飛沫も大したものではない。
まぁた誰かが掘に石か岩でも投げ込んだな、というのが足を止めた者達の結論となり、水音も落ちたものも雑踏のなかに再び紛れていく彼等の意識からはあっさりと消えていく。
沈んだものは其処から浮かび上がることなく、堀に沈んだままで……
堀から続く川の下流付近にて、岸に引っかかった少年が発見されるのはそれから数分後の事。
* * *
少年が目を開いたとき、視界に映ったのは知らない天丼だった。天井ではない、天丼である。いや、そもそもそれは天丼と呼んでいいのだろうか。少年が知る天丼とは色々と違いすぎる。エビと思しきものがでかい。もう一度いおう、エビと思しきものがでかい。とんでもなくでかい。あと、尾が青い。青いのだ。本来エビは熱を加えれば赤く変色する。だというのに、衣がついてかりっと揚げられているのだろうそのエビの尾は青い。他の野菜と思しきモノも黄色だったり、青だったり、様々である。
てんぷら、ではあるのだろう。見た感じの衣のつき方は確かにてんぷらだ。故に、どんぶりに収まっているそれは天丼に他ならない。だが、しかし、けれど。こんな天丼は認められない。認めたくない。
そう思う少年を嘲笑うかのように、視界に入ってきた手が丼を掴む。手の主は少年の位置からだと背中しか見えはしないが、その背にかかる髪は烏の濡れ羽色と表現するのが相応しいであろう艶のある黒。そして、卓の前に座っている為に正確なところは解らないがその肩幅や胴の長さを見るに小柄であることが推測される。
そんな人物ががつがつと、がつがつと天丼らしきものを食べている。食べているのだろう。この位置からではその光景そのものは見えはしないが、頭の動きと耳に届く音からそう判断できる。
音が届くと言っても、咀嚼するような下品な音ではない。食器が奏でる音、掻き込んでいるのだろう音、てんぷらが上げる軽快な音。聞いているだけで食欲をそそり、口内に涎を溜めてしまう様な、そんな美味しい音だ。
だが待て、と少年は自制する。そう、待て。あの天丼と認識したくない、認めたくないものを食べると言うのか。あの青いエビのようなものを。全世界を探せば一種類くらいはいるかもしれない、あれを。如何に少年が空腹だったとしても……否、空腹だからこそ自制する。そう、アレを食べてしまえば、自分は、アレを天丼と認めてしまうことになる。それだけは許せない。何より、自分が許せないのだ。
そんな少年の自制も知らずに続いていた音がやむ。少し間を置いて祈りの文言と思しき言葉が耳に届き、少年はその人物が天丼もどきを食べ終えたのだ、と理解する。そして、満足した気配を発しながら黒髪が流れ、その人物が振り返り……
「チェンジ」
「おい、恩人に行き成りな態度だな小僧」
その中年男性と思しき男の顔を見て少年が上げた言葉は決して誤りなんかでは無いはずだ。そして、その顔を見て少年は理解し、確信する。天丼もどきを、あの青い尾のエビを見ても尚、それを理解し切れなかった少年が完璧に、完膚なきまでに理解する。
そう、此処は。
異世界なのだ、と。
「今なんか失礼なこと考えなかったか?」
「いぇ。そんなことより……此処は今で誰は何処で何時は俺ですか?」
寝台から身を起こした自分へと鋭い目を向けてくる男性に首を横に振り、少年は落ち着いた声で問いかけた。厨二病を発症した人間の特徴に、異世界召喚モノや最強勇者モノ、ファンタジーモノの創作を好むと言うものがある。例に漏れず厨二病を発症したことがある……そして今も発症している少年もそういった物を好んで読んだことがあるのだ。
故の冷静さ。これは良くある異世界召喚勇者モノであるとわかっていれば何も慌てることは無い。なぜならばハッピーエンドはすでに約束されているようなものなのだ。勇者は魔王に負けることは無い。それは御話の前提条件である。もし事情を知る者がいれば召還者の勇者呼びを断り逃げ出した時点で筋書きが狂っていると突っ込むことだろうが、生憎、この場にはそれができる者は存在しない。
同時に、御約束とばかりに口にした少年の言葉にいちいち突っ込む者もまた、居ない。
「此処は今で川で拾ったアルセウト王国の首都アルセウトで春の2の月の14日はお前だ」
「……アルセウト王国、か」
的確に返された回答の、その聞きなれぬ名前に少年はふむ、と頷いた。目の前の男性のおかげで異世界であると言うことを認識していれば、聞き覚えの無い国名を出されたところで驚きは無い。
「見慣れない服を着てたけど、お前はどっから流されてきたんだよ」
「俺が聞きたいくらいですよ。かけられた魔法の効果でとんで、気が付いたら此処で寝てたからなんとも」
困ったように深く溜息をつく少年に、男性はそうか、と一言だけ漏らした。最初の一言から剣呑な色が宿っていた瞳に少しだけ同情の色を宿しているのは、少年の言葉とその様子が真に迫っていたからだろうか。
「そういえば……この服は貴方が?」
「ああ、着ていた服はびしょ濡れだったからな、悪いとは思ったが勝手に着替えさせてもらったぞ」
「有難うございます。そういえば、着ていた服は?」
「外で乾かしてる。しかしまぁ、変な服だな、ありゃ」
召喚されたときの少年の服装は少年の世界では普通のシャツにジーンズと言う格好だったのだが、上衣も下衣も見るからにファンタジーなこの世界では確かに奇異に映るのだろう。少年が今着せられているのは、目の前の男性が着ているものに良く似た服装である。何時もの格好に比べると動きやすさは……五分だろうか。特に不満は感じない。
「えぇ、まぁ、田舎の方の出身ですので……それで、申し訳ありませんが宜しいでしょうか?」
「あん?なんだ?」
寝台に身を起こした状態で収まったまま、少年は困ったように己の頬を掻く。その言葉を口にすることに迷いがある証拠なのだが、だからと言ってその言葉を口にせずして話が進みはしないということも少年は良く知っていた。いや、話は進むだろう。だが、話を進めたところで困るのは少年なのである。
だからこそ、少年は意を決して問う。
「アルセウト王国って、何処なんです?」
「……お前、どっから飛ばされてきたんだよ」
物凄く胡乱な者を見るかのような男性の眼差しが皮膚に刺さる気がしたが、少年はとりあえず笑顔でやり過ごすことにした。