プロローグ、あるいは迷子の迷子の紅い狼
新章開始します。
玉座に座る影はただ其処に在るだけで周囲を圧倒する存在感を発していた。気の弱いものなら只中てられただけで発狂し、気の強いものであったとしてもそれに耐えるのは容易なことではないだろう。
それは、王が持つ気。王のみが許される気配。王であるがゆえに持つ絶対にして不変の力。
だが。今この時に置いて、その王の力は前に立つものに届くことは無い。
紅い髪。紅い瞳。髪から飛び出る三角の耳の毛の色もまた紅く、腰辺りから伸びる尾の毛の色も紅い。身に纏う装備すら紅を基調としている。
眼頭より目尻の位置がわずか高い釣り目、その瞳は王の前に立つという難事を成し遂げるだけの心の強さを示すように強く、そして明るく輝き。目の前の相手を睨みつけるその眼差しは、それだけで他者を圧するだけの力を備え。
すっと通った鼻梁。薄い唇は決して濃くは無いが肌の白さ故に色を鮮やかに示し、その面立ちは神話の女神か、あるいは誰かが美を追い求めた果てに作り上げた人形か。目を奪われることを避けられぬ程整っている。
身に纏うのはブレストプレートにガントレット、足元は鋼で強化されたブーツにレギング。腰回りにもしっかりと防具を身に付けていて、しかし、芯を通したような立ち姿故にか彼女のシルエットを損ねることは無い。
狼の耳と尾をもつ人の姿をした少女。この世界に置いて魔族と呼ばれる種族に属するもの。本来であればその身が持つ特性通り群れの主である王に立てつく筈などないであろう少女は、しかし、今この場においてその王の前に傅くことは無かった。
「……余が王では不満、だと申すか?」
「えぇ。私は貴方を王などとは認めない」
姿だけの威圧では少女に通じぬと悟ったのか、あるいはただ純粋に問いたかっただけなのか。王から零れ落ちた言葉はやはりそれだけでも圧となり、周囲へ無差別にふりまく存在感を強めるが、少女はそれを難なくいなして言葉を返す。
その答えに、玉座に座っていた影が立ち上がった。一歩を進め、室内に光をもたらしている揺らめく蝋燭の炎に影を暴かせる。
緋色の髪に、同色の瞳。側頭部より伸びて天を突くのは二本の角。王の座主場所として他よりも一段高い場所に立つその姿は漆黒のローブを纏って少女を見下ろしている。
眼頭よりも目尻の位置が高い釣り目、その瞳は少女とは逆に輝く事のない闇を秘めたように暗く、故に少女の瞳の圧すらもその身に届くことなどないかのように。
すっと通った鼻梁。薄い唇は、白いでは済まぬ透明感すら感じさせる肌に合うように紫の色を宿している。
神話の男神、それも美の神の類を現世に下せばこのように見えるのかもしれない。そう思わせる造形をした顔を、しかし、王は不快を表すように歪めた。
「余を前に頭を垂れぬ不敬も、余に対し不遜な言葉を吐く事も、余を恐れぬその……」
「長い。大体、それは所詮借り物の力でしょう? 偉そうなことを言わないで」
不快でありながらも、それでも王としての度量を示すように少女を許す言葉を口にしようとした王だが、それを少女は遮る。その少女の様子に王は激昂するよりも、大きく目を見開いた。
その瞬間、確かにその空間を満たしていた王の圧が緩んだ。
「何を言うのか。余の力が借り物などと……」
「先代の魔王が誰だったのか、思い出してみなさい」
少女の言葉に、王の脳裏にはこの座に己の前に座って居た存在が浮かび上がる。赤の系統の色を宿した髪と瞳は王となる条件の一つ。その姿はだれもが見上げる威厳に満ちており、呵々大笑する姿は当時を生きた者全ての心に刻み込まれている。
その髪は、その瞳は、今までの王の誰よりも赤く、紅を宿した――
「……まて。その髪は、その瞳、は」
「えぇ、先代の色と全く同じものね。赤が遺伝することはよくあるけれど、此処まで綺麗に伝わる事は稀らしいわ」
「赤が偶然強く出ただけ、ではないと? 間違いなく先代の血筋だ、と?」
「違う。私は、間違いなく先代の血を引いている」
時々、その時点の王よりも赤が色濃く出るものがいる。それゆえに己の方が王に相応しい、王位をよこせと言いに来る者がいる。緋色の王も幾度かそのようなものの相手をしたことがあり、しかし、今玉座についているのが王であったことがその結果の証明だった。
だが。挑戦者を幾度となく退けた経験を持つはずであるのに。じり、と王は踏み出した一歩を下げてしまう。少女はその場に立ったままであるというのに、王である筈の存在の方がその存在の圧に負けたかのように。
その結果、その室内を満たしていたものが変わる。王から発せられたはずの威圧から、少女が発する威圧へと。玉座に腰かけていた王の存在から、玉座の下に立つ少女の存在へと、全てが塗り替わる。
「馬鹿な…馬鹿な! 先代に子は居ないはず! だから俺が王となったはずなのに!」
「居ない事にしていたのよ。いえ、居ないとしたかったのよ。あの人はその座の意味を理解していたもの、自分の子にそれを継がせたくはなかったの」
足掻くような王の……王であったはずの青年の叫びは、しかし少女を揺るがすには足りない。いつの間にか立場は完全に逆転していた。王は青年となり、少女がまるで王となり。
「だったら…だったらなんで今更!」
「貴方の行いを看過できなくなったからよ。私もここに来るつもりなんてなかったもの」
青年の、それはまるで嘆くかのような叫びに少女はただ淡々と答えた。見上げる瞳は睨みつけるままでありながら、その様子は気遣い憐れむような色も宿している。
「俺が何をしたっていうんだよ!?」
「先代……父さんが言い続けた事がある。護り続けたことがある。『王であれ』。王とは民を導くものであれ。王とは平和をもたらすものであれ。王とは己を律するものであれ」
「…それが、一体…!」
「貴方は…今の貴方は、それを為せているの?」
少女の言葉に青年は声を失った。為せていた筈だった。為せていると思っていた。けれど、目の前の少女は青年に為せていない、と叩き付けたのだ。それも、今はと言う言葉を付けて。
思い当る事はあった。青年自身、自分が前に夢見、そうあろうとした王から外れているという自覚は心のどこかにあった。恐れ、怯え、閉じこもって。民や平和より己を大事にしていることが誤りであると理解していた。だからこそ少女の言葉に返すことが出来なかった。
「……悪い、かよ。悪いかよ!? 怯えて悪いかよ!? 嘆いて悪いかよ!?」
「……悪い、って。言えない」
居直ったように叫んだ青年に少女は初めてその言葉を濁す。睨むだけだった眼差しがその怯えを見てとって揺らぎ、けれどその瞳は一度閉じられ再び開かれた時には揺るがぬ決意を宿している。
「その役割を私も知っている。その位置の意味を私も知ってる。だから、貴方を悪いなんていわない。貴方が悪いなんて言わない。けれど、それでも貴方を王とは認めない。……だから」
「……だから?」
「私が王になる」
少女の言葉に青年は動きを止めた。何を言っているのかとその眼が語っている。知っていると言いながら、その上で何を言うのかと。
この立場の意味。この立場の役割。それを知ったうえで何を言っているのかと、青年は只少女を見つめた。返されるのは決意のこもった、決して揺るがぬ瞳。青年の無言の問いを受けて尚揺るがぬ意志。
「……王の座は、最強なるものと共に」
「ならば、貴方を打ち破ろう。この身が最強であるという証明に」
「……ならば来るがいい。我が名の意味をその身に刻んでやろう」
「その意味を身に刻むのは貴方となるだろう」
芝居がかったやり取りは王位を賭けた決闘の為の決まり文句。少女が最後の文句を口にした瞬間に場を満たす空気が変わる。元は青年の、今は少女の威圧がすべて消えて周囲が清浄な空気に包まれる。
決闘が成立した証明であり、こうなった以上勝敗がつくまでは逃げることはできない。
「……全力で行くぞ。そうでなければ王位は渡すことが出来ない」
「解ってるわ。私の本気、私の意志で私が王だと証明する」
ローブを翻す青年に、少女は背に負っていた大剣を引き抜いて構える。少しの揺らぎもない立ち姿で青年を見据えて、彼女は告げる。
「私こそが、魔王だと」
それは世界において最強であり、しかし、故に必ず勇者に討たれる役割の名前。
* * *
顔にあたる光を感じ、少女が紅の眼を開く。体を起こして周りを見れば木々が立ち並び、其処が森であると主張している。なぜ自分はこんなところにいるのだろうと暫し首を傾げ、それから何事かを思い出したように一つ頷いた。
何のことは無い、行く先も決めぬ旅の最中であっただけ。森の中に入り、其処で一夜を明かしただけの話だ。
「……でも。あのときのことを夢に見るとは思わなかったわ」
困ったような様子で紅の髪に覆われた頭を掻く。それなりに自慢であるためにしっかりと魔法を用いて清潔で在るように維持し手入れも欠かしていない為、その髪は絹のような手触りでもって少しばかり乱暴な己の主の手の動きを受け入れた。
そのまま三角の形の耳を揺らし周囲の音を探るが特に怪しい物音のようなものは感じられない。聞こえるのは木の葉のさざめく音であり、どこか遠くの獣たちの足音であり、虫達の鳴き声であり。
こういった自然の音を少女は好んでいた。上機嫌な様子で耳を揺らして音をどんどんと拾っていく。その中に自然とは少し異なるノイズを見つけて眉を寄せる。人間の足音。だが、何処かその場に生きる生命に気遣うような、小さすぎる者達は仕方ないにしてもできるだけ小さなものにも配慮しようという意思を感じ取れる音。
なら良いか、と少女はその足音を気にすることを止めた。これが山を踏み荒らすような音であったなら容赦なく叩き伏せに向かったところである。
「後悔、は……してないつもりなんだけどな」
先ほどの夢を思い出したのだろう。ポツリと零された独り言を聞くものは木々の他になく、故に少女に対し言葉が返ってくることもない。
少しばかり寂しそうな笑みを浮かべ多少所はそのまま両手を合わせて皿の形にし、何事か唱えた。
紅い靄のようなモノが少しの間その両手を覆い、晴れた時には手の中には新鮮な水。そのまま顔にぶつけて軽く顔を洗い、同じようにまた水を発生させて今度は口をゆすぐ。
「さて。それなりに騒ぎになって居る筈なんだけれど…いまだに報せは届かない、か。何をやってるのかしらね、彼女らは」
水を吐きだした後で少しばかり困ったような表情で空を見上げた。木の葉の向こうから照らしてくる太陽の光は明るく少女を楽しませるが、しかし、少女の心の中まで晴らしてくれることは無い。
心の中を晴らすってなるとやっぱり恋人とかになるのかなぁ。などと埒もない思考が脳裏をよぎり、貴女は私の太陽なの、などと言う自分を想像して己の身を抱くようにして震える少女。想像した自分が思ったよりも気持ち悪かったようだ、彼女的に。
深呼吸一つ。気を取り直して再び何事か口にしながら空中に紅い光を宿した指先で丸を描く。光の軌跡はその場に留まって円を構築し、円の中はただ紅に塗りつぶされている。紅の中に手を突っ込み何かを探すような動きを暫しの間続けた後引っこ抜くと、その手には干し肉が握られていた。
そのままがじがじと干し肉を噛みながら立ち上がり、己の体を確認する。基本的に荷物は先ほどの空間の穴から取り出せばいい為に旅装の割には軽装な少女の姿はその体型を隠しきることは無く、人目を引く容姿に負けぬように均整のとれたシルエットをそのまま見て取ることが出来た。主張するべきところは主張しつつもそれが過ぎることは無く、抑えられるべきところも抑えられつつも過ぎることは無い。
地面の上に寝ていたという割にその髪にも腰から延びる尾にも服にも土がついていないのは、少女が立ち上がった際に消えた薄い紅い光の膜がそういったものを少女に触れさせるのを遮っただけなのだろう。
「さて、それじゃ……」
伸びを一つ。少女は笑みを浮かべて再び木の葉に覆われた空を見上げ、それからぐるりとまわりを見渡す。どこもかしこも木が立って居り、其処には東西南北の概念も存在しないかのよう。もし方向を見失ってしまえば迷う事は必須だろう。
そう、方向を見失ってしまったら迷う事は必須なのである。
「……っていうか。私は何時までこんなところで迷ってればいいのよっ!? いい加減勇者召喚の報せ来なさいよ馬鹿ーっ!!」
どこかの銀の王女……否、王女に従う老人と言うべきか、中年と言うべきか迷う白髪の大臣の頭を悩ませる魔王は、とある森の中で絶賛迷子中であった。