プロローグ、あるいは姫一人にして国遭難す
「殿下」
掛けられた声に座に着く少女はびくり、と反応した。其れは本来この国の頂点を呼ぶための呼び方では無いが、現状においては頂点にいる少女を呼ぶのには正しい呼び方。
「どうなさるのですか?」
言葉に、少女は答えを直ぐには返せない。迷っている。迷っているのだ。其れも現在進行形で。
魔王と呼ばれる存在がその世界に姿をあらわしたのは、比較的最近の話である。その魔王は唐突に何処かの国の何処かの街に現れ、己がいる町を、国を破壊し、そして何処へともなく消えてゆくという。
迷惑千万極まりない。魔王というのなら城に篭っていろという話だ、そもそも簡単に世界を出歩く魔王などどうなんだ。そんな風に思ったところで魔王に届くことはなく、また、例え届いたとしても従ってくれることは無いのだろう。
だって、魔王だし。
そして、諸国は魔王討伐に動き始めているという。そんな諸国の動きを敏感に感じ取り、魔王を戴く魔族達もまた、戦争の準備を行っている……世界はまさに、一触即発というべき状態に陥っている。
戦争である。戦闘である。殺し合いである。そりゃもうどばーで、ぶしゅーで、あばばばば、である。
「殿下」
「大臣。流石にあばばばば、は無いと思うの」
「は?」
きょとんとした顔を少女に向ける白髪の中年男性…いやもう老人だろうか。あれ、でもこの人はまだ40台だっけ、などと埒もないことを考えながら、少女はとりあえず大臣に応えるべき事を告げる為に再度口を開く。
「大臣。流石にあばばばばは無い、と言ったのよ」
「……はぁ」
「良い?そもそもあばばばば、って言う言葉は悲鳴より困惑を示すような言葉で、このような状況で使うのはおかしいわ。やはりこういうところではひでぶ、だと思うの」
「……」
「あべし、も惜しいところではあるのかもしれないけれど、やはりひでぶのほうが上。そもそも、どばー、とぶしゅー、の位置も逆の気がするわ」
「あの、殿下」
「何?」
「何の話でしょうか?」
数秒、間が空いた。漫画的なわかりやすい汗を頭に貼り付けている大臣の視線を受けながら、少女はふむ、ともう一度思考をやり直す。
何の話をしていたのだったか、それなりに大事な問題ではあったと思うのだが。大事と言えば、少し前にこの付近で魔王の姿を見たものがいると聞く。其れは国家の一大事、コレこそ大事である。……そう、国家の一大事。
少女の目がきらりと光り、其れを見て取った大臣が姿勢を正す。先ほどまであった漫画汗などもはや何処にもない。其処に在るのは背筋を伸ばした大臣と、そして理知的な蒼い瞳を持つ座した少女のみ。
「大臣」
「何か策が思い付かれましたかな?」
「えぇ。イチゴの量産をするべきだと思うの」
「……は?」
再び大臣が漫画汗を浮かべて凍りつき、其れに気づかぬかのように少女は理知的な瞳に強い意志の光を宿して言葉を続ける。
「この地方であればイチゴの栽培が出来る、と言う研究結果があったはず。ならば、コレを使わないては無いと思うの。先日発見され、まだ市場にはあまり出回っていないイチゴを量産し、市場に売り込むことで国の財政は大きく潤うわ」
「……はぁ。其れは、まさにその通りでございますが」
「それに、国で作ってれば権力者たる私が食べられる量も増えるし」
「其れが目的でございますか、殿下」
「女性はいつも美味しいものが大事なのよ。其れこそ国家の一大事ともいえるほどに」
「左様でございますか、男である自分には理解が難しゅうございます。時に殿下」
「残念ね、コレを理解できると貴方も女性にモテていたでしょうに。それで、何?」
「ひとまず先になる国家の一大事は置いておいていただき、目下のところ問題となる国家の一大事についてそろそろ考えていただきたいのですが」
どうやら少女にとっての国家の一大事は大臣にとっての国家の一大事ではなく、つまり少女が考えた国家の一大事は今回問題となっている一大事ではなかったらしい。だとすれば何が一大事だというのだろうか、と少女はまた考え込む。
思い出せ、私はやればできる子。そう、今は病床に伏せる父様と母様がいつも言っていたではないか。問題はその二人は単純な二桁の引き算さえ出来なかったところだろうか。その二人にとってのやればできる子。其れって全然できる子じゃない気がする。
「大臣」
「……はい」
「私、やればできる子よね?」
「少なくとも今はやらない子になっておりますな」
間髪入れずに返された解答にそっかー、と少女は笑った。大臣も笑った。朗らかに、暖かく、柔らかく。
「王室侮辱罪適用かしら?私、貴方の首なんて欲しくないのだけれど」
「殿下、お戯れをしている場合では無いと申し上げたいのですが。現在の国家の一大事が何かお忘れでは無いでしょうか」
流石に真顔で告げてきた大臣の顔を、やっぱりこんな顔貰っても嬉しくないなぁ、と眺めながら少女は今一度、思考に沈む。今度こそ思い出さなければ、大臣を王室侮辱罪適用で斬らなければならなくなる。斬る必要などないと思われた方も多いだろう、だがこれは必要なけじめなのである。少女にとって、思い出せなかったという屈辱を晴らすための八つ当たりとして。大事なことなのだ。
それにしても、国家の一大事。後残るものといえば、魔王に関係することくらいしかないのだけれど。そう、魔王。魔王である。……魔王?
「大臣、魔王の件の話だけれど」
「おぉ、漸く本題に入られますか」
「えぇ。魔王って男なの?女なの?」
「……」
「……」
幾度目かもわからぬ沈黙が場を支配した。只凍りつく大臣と言う光景は本日、この二人による会話が始まってからでも幾度となく見ることが出来たが、不思議そうに大臣を眺める少女というのは珍しい光景である。もし少女に慕情を抱くものが居れば絵姿にでも起こして額に入れ飾ったかもしれない。そんな奇特な存在が居ればだが。
硬直していた大臣は、ゆっくりと息を吸い、吐いた。それだけでクリアになっていく意識を総動員し、こたえるべき言葉を捜し……そして、それはそう長く待つことなく発見され、音が乗る。
「知りませんがな」
「それもそうよね」
胃薬の在庫を心配するかのように遠くを見つめる大臣を少女は暫し眺め、何かに満足したかのように一度頷く。その蒼の瞳はやはり知性を感じさせるもので、既に解答は見えているかのように穏やかな想いを持っている。
「大臣」
「……なんでございましょうか」
「儀式の間を空けておきなさい」
少女の言葉に思わず呆然とした大臣は、我に返ると慌てて少女の前を辞し廊下を走り去っていく。
魔王に対抗するのであれば、勇者が居ればいい。今この地に勇者が居ないのであれば、呼べばいい。其れが少女が出した、今回の問題のもっとも正しいと思える解答である。
「やれやれ。こんな簡単な解答に行き着くまでに、どれだけの時間を無駄にしてしまったのかしら」
玉座にて溜息をつく少女の姿は、その玉座を護る為にその場にいる近衛兵達は心を一つにする。それは音を放つことなく、空気を震わせることなく、少女へと向けられた想い。
―時間が無駄になった理由は、9割方お前のせいだろう。






