世界最高のエージェント、死ぬ
全三話。さあ、やろうか。
俺は世界最高のエージェントだった。
少なくとも俺の所属する極秘特務機関【オルフェウス】において、俺より優秀な人間はいなかった。
コードネームは《レイヴン》。
潜入、諜報、暗殺、破壊工作。あらゆる任務を完璧に遂行し、これまで一度たりとも失敗したことがない。世界各国の諜報機関が血眼になって追いかけている国際指名手配犯を、たった一晩で始末したこともあった。
無論、俺の存在が公になることはない。
俺たちは国家の枠組みを超えた秘密組織であり、その活動は世界の秩序を維持するためのものだと説明されていた。時には国家元首を暗殺し、時には戦争の火種となる人物を秘密裏に排除する。
それが本当に世界の平和に繋がっているのか、俺には分からない。
ただ与えられた任務を遂行することだけが俺の仕事だ。
そして、今日もいつもと変わらない夜を終えるはずだった。
*
午後十一時四十二分。
地上四十階に位置するオルフェウス極東支部の執務室からは、東京の夜景が一望できた。
天井まで届く大きな窓の向こうには、無数の高層ビルが立ち並び、眼下を走る幹線道路には赤いテールランプの列がどこまでも続いている。
俺は革張りの椅子に腰掛け、グラスに注いだウイスキーを口に運んだ。
先ほどまで身につけていた防弾ベストは脱ぎ捨て、現在は白いシャツに黒いスラックスという格好だ。腰のホルスターには愛用の拳銃が収まっているが、ここは組織の本部であり、敵襲を警戒する必要はない。
少なくとも、俺はそう思っていた。
机の上に置かれた通信端末が振動した。
発信者はハワード。ここの局長で俺のボスだ。
俺をオルフェウスに引き入れた男であり、十年以上にわたって直属の上司を務めている男だった。
「こちらレイヴン。任務は完了しました」
『報告は受けている。今回も見事な仕事だったそうだな』
「ありがとうございます。対象の処理は完了し、機密資料もすべて回収しました」
『そうか。ご苦労だった』
いつもと変わらない、落ち着いた声だった。
しかし、続いて聞こえてきた言葉は俺の予想を大きく裏切るものだった。
『ところでレイヴン。残念だが、君には死んでもらうことになった』
俺はグラスを口元に運んだまま、しばらく動きを止めた。
「冗談にしては笑えませんね」
『残念ながら冗談ではない。既に命令は下されている』
「理由を伺っても?」
『君は知りすぎた』
随分と使い古された台詞だ。
だが、考えてみれば当然だった。俺はこれまで組織の命令で数多くの人間を殺し、その過程で各国の政治家や軍人、巨大企業の経営者たちが関与する陰謀を嫌というほど見てきた。
秘密を守る最も確実な方法は、その秘密を知る人間を消すことだ。
俺自身、そうした仕事を何度も請け負ってきた。
「なるほど……ついに俺の番か」
『恨まないでくれたまえ。君は優秀すぎたのだ』
「最後に質問しても?」
『何だね』
「俺を殺せる人間が、組織にいるとお考えですか?」
通信の向こうで、ハワードが小さく息を吐いた。
『もちろん、君の能力は誰よりも理解している。だからこそ、万全の準備を整えた』
「楽しみだね」
『すまない、レイヴン』
通信が切れた。
俺は端末を机に置き、残っていたウイスキーを一息に飲み干し、空になったグラスを窓際へ放り投げた。
銃声が響いたのは、その直後だった。
*
グラスが空中で粉々に砕け散り、ほぼ同時に窓ガラスへ白い蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
狙撃だ。
俺は椅子を蹴って床に身を投げ出すと、机の陰へ滑り込んだ。続けざまに二発、三発と銃弾が飛び込み、先ほどまで座っていた革張りの椅子が無惨に引き裂かれていく。
「派手な歓迎だな」
狙撃地点は正面の高層ビル、おそらく三十七階付近。
距離は約四百メートル。
窓ガラスに残った弾痕の角度から、狙撃手は少なくとも二人以上。俺は机の引き出しから予備の弾倉を取り出すと拳銃に装填した。
室内の照明を落とすと、窓に映り込んでいた自分の姿が消え、向かいのビルの輪郭がはっきりと浮かび上がった。
そのとき、廊下から複数の足音が聞こえた。
「アルファチーム、配置完了。突入準備よし」
扉の向こうから無線の声が漏れた。
壁際に置かれた消火器を手に取り、安全ピンを抜いた。
「突入!」
扉が蹴破られた瞬間、俺は消火器を噴射した。
白い粉末が室内に広がり、視界を奪われた先頭の隊員が反射的に足を止める。その背後から続いてきた隊員たちが折り重なるように立ち往生したところへ、俺は机を乗り越えて飛び込んだ。
最初の男の顎を拳銃のグリップで殴りつけ、倒れ込む身体を盾にしながら二人目の膝を撃ち抜く。
さらに三人目の銃口を払いのけ、至近距離から胸に二発。
残った隊員が発砲するより早く、俺は床を転がって廊下へ飛び出した。
「対象が逃走! 繰り返す、対象が逃走!」
背後から銃声が響き、壁の装飾が砕け散る。
俺は走りながら振り返り、追ってきた隊員の足元へ数発撃ち込んだ。相手が怯んだ隙に角を曲がり、非常階段へ続く防火扉を肩で押し開ける。
階段室には非常灯の緑色の光がぼんやりと灯っていた。
四十階から、下の階、また下の階へと手すりを飛び越え、踊り場に着地する。
だが三十六階に差しかかったところで下方から銃声が響いた。
「っ!」
俺は咄嗟に身体を捻った。
銃弾が頬を掠め、背後のコンクリート壁に火花が散る。
階段の下から武装した男たちが上がってきていた。
挟み撃ちか。
俺は手すりを蹴って一階分上の踊り場へ飛び移り、追ってきた隊員から奪った手榴弾を階下へ投げ込んだ。
爆発音と悲鳴が響く。
しかし、上階からも足音が近づいていた。
「……やれやれ」
どうやらハワードの言葉は本当らしい。
組織は本気で俺を殺るつもりだ。
だが、まだ甘いな。
俺は階段室の壁に設置された点検扉を蹴破り、建物内部の設備通路へ飛び込んだ。そこから貨物用エレベーターの昇降路を経由し、下層階へ抜ける。
建物の構造はすべて頭に入っている。このまま地下駐車場へ出れば、脱出用の車両を確保できるはずだ。
そう考えた矢先だった。
突然、右肩に焼けつくような痛みが走った。
「ぐっ……!」
銃声は聞こえなかった。
消音器付きの狙撃銃。
どこから撃たれたのか理解するより早く、二発目が左脚を貫いた。
膝から力が抜け、俺は通路の床に倒れ込んだ。
それでも拳銃を手放さず、壁を背にして身体を起こそうとしたところで、通路の奥からゆっくりと足音が近づいてきた。
コツ、コツ、コツ。
聞き慣れたヒールの音だった。
「……ようやく捕まえた」
薄暗い通路の向こうから、一人の女が姿を現した。
肩まで伸びた金髪に、切れ長の青い瞳。
黒い戦闘服を身につけ、右手には消音器付きの拳銃を握っている。
コードネーム《アイリス》。
俺の相棒だった。
*
「……アイリス」
俺がそう呟くと、アイリスは悲しそうに目を伏せた。
「ごめんなさい、レイヴン」
「謝るくらいなら撃つ前に一声かけて欲しかった」
「命令なの」
「だろうな」
俺は壁にもたれかかり、荒くなった呼吸を整える。
右肩から流れ出した血がシャツを染め、左脚は既に感覚が薄れ始めている。出血量から考えて適切な処置を受けなければ長くは持たないだろう。
アイリスは俺の前まで歩いてくると、拳銃を向けたまま膝をついた。
「抵抗しないで。これ以上、苦しませたくない……あなたには、何度も助けてもらったから」
「だったら見逃してくれないか?」
しかし、アイリスは首を横に振った。
「それはできない」
「だろうな」
無理やり笑おうとしたら、身体中から脂汗が吹き出した。思わず苦痛に顔を歪める。
彼女もまた、組織に忠誠を誓ったエージェントだ。
俺たちは何度も死線を潜り抜け、互いの命を救ってきた。任務を終えた後には酒を飲み、くだらない冗談を言い合うこともあった。
それでも、組織から命令が下れば殺し合う。
そういう世界に生きてきた。
「なあ、アイリス」
「……何?」
「俺たちは何のために戦ってきたんだろうな」
彼女は答えなかった。
俺は天井を見上げた。
蛍光灯の一つが故障しているらしく、不規則に明滅していた。
「世界の平和だとか秩序の維持だとか……色々と大層な理屈を掲げても……結局のところ、俺たちは……ただの人殺しかも知れないぜ」
「……レイヴン」
「もし……もう一度人生をやり直せるなら」
俺はそこで言葉を切った。
不思議なことに、頭の中には今まで考えたこともなかった光景が浮かんでいた。
朝の通勤電車。
コンビニで買う百円のコーヒー。
くだらない会議と、上司からの小言。
どうしてそんなものを思い浮かべたのか、自分でも分からなかった。
「……いや、よそう」
アイリスは少しだけ驚いた顔をした。
そして、寂しそうに微笑んだ。
銃口が俺の額に押し当てられる。
「……さようなら、レイヴン」
「良い夜を。アイリス」
最後に聞こえたのは、乾いた銃声だった。
*
「うわあああああっ!」
俺はベッドから飛び起きた。
心臓が激しく脈打ち、呼吸が乱れていた。全身は汗でびっしょりと濡れ、額に押し当てられた銃口の冷たい感触が、まだ皮膚の上に残っているような気がした。
慌てて額に手を当てる。
右肩にも、左脚にも傷はなかった。
俺はしばらく呆然としたまま、自分の身体を見下ろした。
六畳一間のアパート。
壁際には安物の本棚が置かれ、床には脱ぎ散らかしたスーツが散乱している。窓の外からは深夜にもかかわらず走り続ける車の音が聞こえてくるが、誰かが踏み込んでくる気配は一向にない。
「……えっ、何これ。夢オチ?」
スマートフォンを手に取ると、画面には午前三時二十七分と表示されていた。
俺は佐藤健一。二十八歳、独身。彼女なしのサラリーマンである。
都内の中小企業に勤める、ごく普通の好青年だ……というには少しおっさんかも知れない。
もちろん人を殺したことなど一度もないし、拳銃を握った経験すらない。
それにしては、先ほどまでの出来事はあまりにも鮮明だった。
銃を撃ったときの反動や硝煙の匂い。
右肩を撃ち抜かれた激痛。
そして、アイリスの悲しそうな顔。
「マジ焦った……」
夢にしてはやたらと現実味があった。まるで夢の中で何十年もの人生を送っていたような、妙なリアリティがあった。
エージェントとして訓練を受けた記憶も、数々の任務を遂行した経験も、今なお頭の中に残っている。
試しにベッドから降りて、鏡の前で拳銃を構える真似をしてみたら身体は驚くほど自然に動いた。
もっとも、鏡に映っていたのは寝癖のついた冴えない会社員だった。コードネーム『レイヴン』は寝癖で銃は構えないだろう。
「……疲れてるんだな」
昨日も終電まで残業していたし、最近は睡眠不足が続いている。きっとそのせいで、妙にリアルな夢を見たのだろう。
俺は自嘲気味に笑い、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
時計は午前三時三十五分を指していた。
(あと三時間は眠れるな)
俺は再びベッドに潜り込んだ。
今度は穏やかな夢を見たいものだ。
そう思いながらゆっくりと意識を手放した。
*
カラン。
氷がウイスキーグラスの中で音を立てた。
鼻をくすぐるアルコールの匂い。
柔らかな革張りの椅子。
窓の向こうには、無数の光が瞬く東京の夜景が広がっている。
俺はゆっくりと顔を上げた。
目の前には見覚えのある執務机があり、その上には黒い通信端末が置かれていた。
壁の時計は、午後十一時四十一分を指している。
そして、机の上の端末が振動した。
発信者はハワード局長。
「……マジか」
思わず笑いが漏れた。
俺はこの光景を知っている。
というか、既に一度経験している。
通信端末を手に取ると、聞き覚えのある声が響いた。
『レイヴン。任務は完了したそうだな』
「ええ。つい先ほど」
『今回も見事な仕事だった』
「ありがとうございます」
俺は椅子から立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。
向かいのビルの三十七階。
まだ暗い窓の奥に、かすかな人影が見える。
あそこに狙撃手がいる。
あと一分ほどで、俺を殺そうとするはずだ。
『ところでレイヴン』
ハワードの声が、わずかに低くなった。
『君には死んでもらうことになった』
俺は思わず口元を緩めた。
なるほど、面白い。
何故かは知らないが、これは単なるデジャヴではない。
俺は一度、この未来を既に経験している。
そして今、すべてを知った状態で同じ時間に戻ってきたのだ。
「……局長」
『何だね?』
「一つ、質問してもいいですか」
『構わんよ』
俺は机の引き出しを開けると拳銃を取り出した。
弾倉を確認し、薬室に一発送り込む。
前回はここから逃げることしか考えていなかった。
だが、今回は違う。
狙撃手の位置、突入部隊の人数、逃走経路の罠。すべて知っている。そして、俺を殺した人間が誰なのかも。
「俺を目覚めさせたのが、あんたらの命取りだ」
『……何の話だ?』
「向かいのビルに狙撃手が二人。廊下にはアルファチームが六人。非常階段には伏兵。最後はアイリスが俺を始末する手筈だろう?」
通信の向こうで、息を呑む気配がした。
『……レイヴン。君は一体、何を知っている?』
「知らないか、或いは全てさ」
俺は拳銃を腰のホルスターに収め、机の上に置かれたウイスキーを飲み干した。
今度はグラスを投げなかった。
代わりに、窓から離れて部屋の奥へ歩いていく。
「局長。俺はこれまで、組織のどんな命令にも従い、どんな汚れ仕事も引き受けてきた」
『……』
「だが、それも今日で終いらしい」
『何をするつもりだ?』
俺は執務室の壁に掛けられた時計を見上げた。
午後十一時四十二分。
俺が殺されるまで、残り十五分。
十分な時間だった。
俺は笑った。
「悪いが、あんた達を始末する事にした」
そう言った直後、窓ガラスが派手な音を立てて砕け散った。
しかし、もうそこに俺の姿はない。
銃弾は誰も座っていない革張りの椅子を貫き、背後の壁へ突き刺さった。
「さて……」
俺は机の下から、非常用の通信端末を取り出した。
画面には、オルフェウス極東支部の内部構造図が表示されている。
今から十四分後、俺はアイリスに殺される。
だがその未来はもう潰えた。
俺は端末を操作しながら、静かに呟いた。
「リターンマッチだ」
その時、廊下の向こうから武装した男たちの足音が近づいてきた。




