第二十一話「名前」
パティの六歳の誕生日は、雪の日だった。
王都の雪は、夜のうちに静かに降って、朝には世界を全部、白く塗り替えていた。
庭の大樹は白い綿帽子をかぶり、噴水の縁には薄氷が張っている。
そして俺の昼寝スポットも、見事なまでに雪化粧していた。
(……本日、屋外昼寝、中止)
残念だが仕方ない。今日は屋内業務だ。
屋内業務の内容は、一つしかない。
――誕生日である。
フィロパトール公爵家の長女、パトリシア・テア・フィロパトール。
満六歳。
この家の今日の主役は、この世間知らずだ。
「パトリシア様、お目覚めを。本日はお誕生日でございます」
「んにゃ……」
「お目覚めを」
「……あと、じゅっぷん」
「十分後は、お祝いの席が始まっております」
「……あと、ごふん」
「同じことでございます」
メイドたちに引きずり起こされるパティを、俺は枕元で眺めていた。
誕生日の朝くらい、寝かせてやればいいものを。
だが貴族の誕生日は、本人のものではなく、家のものらしい。祝われる側に、寝坊の権利はない。
俺も起きた。伸びをして、毛を舐めて、支度完了。
猫の支度は三秒だ。
この効率を見習ってほしいものだが、パティの支度は三十分かかった。
ドレスが白い。リボンが多い。仕上げに小さな金の髪飾りが留められた。
「……どう、ネコチャン」
「にゃ」
(似合ってる。……今日のお前は、なかなかのものだ)
「えへへ」
パティはくるりと回った。スカートがふわりと広がる。
今日のパティは、一段と輝いて見えた。誕生日の子供は、皆、少しだけ大人になる。一日限りの、見せかけの大人だ。
その見せかけの大人が、次の瞬間、俺を抱え上げて宣言した。
「ネコチャンも、今日は特別だよ!」
(……ん?)
特別の意味は、昼の祝いの席で分かった。
場所は、屋敷の小食堂。
並ぶのは家族だけだ。ロムルス、アウレリア、アウグスト、ユリウス。
それにセバスが、いつものように傍らに控えている。
小さな誕生日、内輪の席。……のはずが、テーブルの真ん中には、でかいケーキが鎮座していた。六段。ろうそくが六本。一段に一本という計算らしい。
貴族の算数は、豪快だ。
「パティ。六歳、おめでとう」
ロムルスが、座ったまま腕を広げた。
「おとーさま!」
パティが駆け寄り、その腕に飛び込む。
厳格な当主の顔が、見る間に蕩けていく。
この人の娘への甘さは、構造的な欠陥と言っていい。
直らない。直す気もないのだろう。
「ケーキ、でっかいね!」
「うむ。王都から菓子職人を呼んだ」
「すごい!」
「味の保証は、する」
「したの!?」
「……試食は、大事な仕事だ」
当主自ら試食したらしい。この家の甘さは、遺伝している。
次に、アウレリアが小さな包みを差し出した。
「パトリシア。お誕生日、おめでとうございます。……これ、よかったら」
「なあに?」
包みを開く。
中に入っていたのは、深い青色のサテンのリボンだった。
「わあ……きれい……」
「あなたの目の色に、似ていると思って。……髪に、結んであげても?」
「……うん!」
パティが、おずおずと、アウレリアの前に座った。
継母の手が、娘の髪を梳き、リボンを結ぶ。
ぎこちない手つきだった。だが、丁寧だった。
結び終わるまで、誰も何も言わなかった。
(……よし)
あれから一ヶ月。
あの青いリボンは、今度こそ、ちゃんと届いた。
この家は、少しずつ変わっている。雪のように静かに。積もるのに気づかないくらい、ゆっくりと。
アウグストの贈り物は、本だった。動物の図鑑。装丁の立派な、豪華なやつ。
「……字が、読めるようになったら」
「読めるもん! ……半分くらい!」
「……半分か」
アウグストの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
マニュアル男なりの笑顔である。それでも、以前より、ずっと分かりやすい。
そして、ユリウスの贈り物は――
「これ、僕が作った」
小さな銀の鈴だった。
「……鈴?」
「鈴だ」
「ふつうの?」
「……普通の鈴だ」
間があった。
「ただの鈴だ」
二度言った。
二度言った。怪しい。この男が「ただの」と二度言う時は、絶対にただではない。たぶん魔力の探知機か何かが仕込んである。
……まあ、いい。パティが気に入ったなら、それでいい。監視されるのは、もう慣れた。
そして、贈り物が一通り並んだところで、ロムルスが咳払いをした。
「――では、パティ。最後に、家からの贈り物だ」
セバスが、一歩前に出る。
両手に、小さな細い箱を持っていた。
「パトリシア様。……こちらを」
箱が開かれた。
中には、黒い革の小さな首輪が入っていた。金の小さな鈴と、小さな銀の札つき。札には、まだ何も刻まれていない。
「これは……?」
「君の猫の、首輪だ」とロムルスが言った。
「……あの猫が庭に迷い込んで、もうすぐ一年になる。獣医の検査も済み、屋敷にも馴染んだ。セバスやグストの話では、行儀も良いそうだ」
(……監査、通過済みか)
「今日、その猫を、正式にフィロパトール家の猫として迎える」
「…………」
「それが家からの贈り物だ」
ロムルスは、そこで少し考えた。
「……いや」
パティを見る。
「あれは、君の猫だな」
そして、銀の札を指した。
「君が名前をつけてやりなさい」
「…………っ」
パティの目が、見開かれた。
それから、ゆっくりとこちらを向いた。
「ネコチャン……パティのネコチャン、パティの、ネコチャン……?」
「にゃ」
(ああ。今日から、正式にな。よろしく頼む、飼い主)
命名の儀は、その場で始まった。
本来、こういう儀式には手順があるのだろうが、六歳児の前に手順は通用しない。パティは俺を両腕に抱え上げ、真正面から見つめて、真剣な顔で考え込んだ。
「えーっと……」
「ゆっくりでいいぞ」
ロムルスが笑う。
「うーん……」
家族が口々に候補を出し始めた。
「黒いから、ノワールなどどうだ」
ロムルス。
「……夜、という意味の名も、いいと思う」
アウグスト。
「僕が調べた古い書物によると、猫には特別な響きの名を――」
ユリウス。
パティは、全部首を横に振った。
「ちがう。……なんか、ちがう」
(……まあ、気に入るまで待とう。名前は、一生のものだ)
と、その時。
腕の中の俺が、じれったくなって――のそのそと動いてしまった。腕から抜け出し、テーブルの上に降りて、パティの方へ、二、三歩、歩いた。
――てと、てと、てと。
小さな爪が、木のテーブルに当たって、小さな音がした。
「…………あ」
パティが、目を丸くした。
「いまの、きこえた? いまの、きこえた!?」
「……何がだ」
「ネコチャンの足おと! てと、てと、てとって!」
(……え。俺の足音、そんな風に聞こえてたの)
猫の爪の音である。肉球があるから人間の靴のような硬い音にはならず、かといって完全に無音でもない。とくに子猫のそれは、歩くたびに「てと、てと」と、乾いた小さな音を立てる。……確かに、言われてみれば。
「てと、てと……」
パティは、口の中で転がすように、二度、三度、繰り返した。
それから、ぱっと顔を上げた。
「――テト!」
「…………」
「ネコチャンの名前、テト!」
パティは嬉しそうに俺を抱きしめた。
「テトテト歩くもん!」
(……まあ、分かりやすい)
「それにね」
パティが、人差し指を立てた。
「もう一つあるの」
「もう一つ?」
「パティの名前と、おそろい!」
「…………」
「パトリシア・テアの『テ』!」
パティは、自分の胸を指した。
「パティの『テ』、ネコチャンにあげる!」
俺は、しばらく何も言えなかった。
六歳児が、自分の名前を一文字、俺にくれる。
それを、大したことではないような顔で。
「パティと、おそろいがいいもん」
(…………)
なんだ、それ。反則だろ。
「……テト、か」
アウグストが、口の中で確かめるように呟いた。
「悪くない響きだ」
「テトテトって、かわいいね」
アウレリアも微笑んだ。
「……語源的には、特に意味はないが」
ユリウスが腕を組む。
「まあ、いいか」
異議、なし。満場一致だった。
「――よろしい」
セバスが、首輪の銀の札を取り上げ、そこに、小さな彫刻刀で、丁寧に、一字一字、刻んだ。
――テト。
「これにて、儀、完了でございます。パトリシア様、どうぞ」
パティが、両手で首輪を受け取り、俺の前に来た。
そして、真剣な顔で言った。
「ネコチャン。……いや」
「テト。……今日から、あんたの名前、テト。……パティの、テトだよ」
首輪が俺の首に巻かれた。
金の鈴が、ちりん、と鳴った。
(…………)
伊勢海典生。
リコライ製薬、理美容薬品開発課、リンス班、主任。
その名前は、人毛の山と一緒にあの世に置いてきた。
もう、その名前で俺を呼ぶ奴はいない。ここで俺を呼ぶのは――
「テト」
パティだった。
「テト、テト!」
何度も呼ぶ。
鈴が鳴る。
ちりん。
(……まあ、悪くない)
正直、最初は「なんだその名前」と思った。
だが。今は違う。俺は、テトだ。
パティがくれた名前。
パトリシア・テア・フィロパトールの「テ」を、一つ分けてもらった名前。
「にゃ」
俺は、鳴いた。
それが、受諾だった。
「えへへ。テト、テト!」
パティが、俺を抱きしめた。
ちりん、と、鈴が鳴った。
「……しかし、良かったな」
ユリウスが、ぽつりと言った。
「僕はてっきり、『クロ』とか、『タマ』とかになると思っていた」
(……お前、分かってるじゃないか。それだけは、それだけは避けたかったんだよ)
「パティに、そんなセンスはないもん」
「……うん。うん、そうだね」
その日の午後、俺は――テトは、雪の庭を、パティと歩いた。
てと、てと、てと。
小さな足音が、雪の上に、小さな跡を残していく。
パティが、それを笑いながら追いかける。
「テト、こっち!」
「にゃ」
白い庭を、二人で歩く。
去年まで、俺はこの庭を「昼寝スポット」と呼んでいた。
今日からは、少しだけ違って見えた。
庭の真ん中で、俺は改めて思った。
(この家と)
(この昼寝スポットと)
(この世間知らずは、俺が守る)
名前をもらった。それだけのことだ。なのに、不思議と胸が軽かった。
俺は、もう、この家の居候ではない。
少なくとも――パティにとっては。
「テト!」
「にゃ」
雪が、また少し降り始めた。
――前世の名前が、静かに遠ざかっていくような雪だった。
その夜、西棟の塔。
『黒猫観察日誌』
“本日、被験体に名前がついた。テト。
パティの命名。由来は、足音と、ミドルネームの一字。
……いい名前だと思う。
思うのだが、問題がある。
この日誌のタイトルを、どうすべきか。
『黒猫観察日誌』は、もう、正確ではない。あれは、黒猫ではない。テトだ。……名前があるものは、もう、被験体ではない。
明日から、日誌のタイトルを変える。
『テト観察日誌』
……なんか、負けた気がする。
でも、仕方ない。名前というものは、そういう力を持っている。
追記:……首輪の鈴、僕の作った探知鈴より、首輪の鈴の方が、よく鳴っていた。
第一章終了です。
ベルタさんのつまみ食い事件も解決。
「パティのネコチャン」にも無事名前が付きました。
めでたしめでたし……よね。
次は、幕間を一話挟んで、第二章「猫の手は借りられないので猫が動く」開幕です。
次章のパティちゃんは
自宅学習での攻防! パティvsテト。
ライバル令嬢登場! パティ、社交デビューする。
です。




