第十三話「実力行使」
グリッグの叫びに、俺は大樹の下から跳ね起きた。
西の配膳室。明日は当主ロムルスが早朝に領地へ出発する日だった。
そのため、屋敷では朝から出立の準備が進められている。
そしてパティは、その準備を見ていたらしい。
パティは朝から「おとーさまにあげる」と言って、厨房で――メイドに手伝ってもらいながら――蜜漬けナッツの小袋を作っていた。
包み方も、結び目も不格好な、しかし間違いなく五歳児の全力が詰まった、餞別の品だ。
その小袋が、小箱に収められ、出立の荷物と一緒に運ばれていた。
――そこへ、ベルタが来た。
俺が廊下の角を曲がると、ちょうどその場面だった。
廊下の角。配膳室の前。下級侍女が小箱を持って立ち、その前にベルタが立っている。
「お待ちなさい。それは?」
「は、はい。パトリシア様からロムルス様への、餞別でございます」
「……そう」
ベルタは小箱を受け取ると、蓋を開けた。
その顔を、俺は柱の陰から見た。
侮蔑、ではなかった。そこにあったのは、もっと質の悪いものだ。
――哀れみ。混じりけのない、上からの哀れみ。
「お作りになったのですね」
「はい」
「……そうですか」
ベルタは小袋をつまみ上げた。
「これほど長くお側に仕えてきたというのに。まだ、このようなことをなさるとは」
「……え?」
侍女が戸惑う。
ベルタは小さく息を吐いた。
「公爵令嬢が、自ら菓子作りなどするものではありません。先日も申し上げたでしょう。上に立つ者には、上に立つ者としての務めがある、と」
(……ああ、そう来るか)
パティは、あの「庭の叱責」の教えを守ろうとしている。
ベルタに言われた通り、「正しい令嬢」になろうとしている。
だから今回は、自分から何かを「手伝う」のではなく、父への餞別という形を選んだ。
それすら、駄目出しされる。
守れば守るほど、型にはまればはまるほど、「まだ足りない」と言われる。
ゴールポストが、動くのだ。
――これは指導ではない。管理でもない。
この女が満足するまで終わらない、終わりのない試験だ。
「ロムルス様に、このような不格好なものをお渡しするわけにはまいりません」
ベルタが言った。
「こちらは私がお預かりします。厨房に、きちんとしたものを作らせましょう」
(させるか)
俺は、動いた。
前回、兄貴の菓子を守ったときは、偶然を装った。
今回は違う。ここから先は――少しだけ、実力行使だ。
まず、廊下の先頭の窓。
通りすがりに、そっと、尾で窓の留め金を撫でた。
――バタン。
「きゃっ!?」
窓が開き、風が吹き込んだ。カーテンが大きく靡く。
ベルタが振り返った、その一瞬。
配膳室の入口から駆け込み、小箱とベルタの手の間をすり抜ける。
何かを奪ったわけではない。何かを壊したわけでもない。
ただ――黒い影が、手元を横切った。
「……っ!?」
ベルタの手が止まる。
そして、仕上げ。
俺は配膳室の高い棚の上に跳び乗り、ベルタを、見下ろした。
ベルタを見る。何も言わない。鳴かない。
ただ、見る。
廊下の窓から差し込む夕日が、ちょうど、俺の背後にあった。
逆光。
黒猫のシルエットの中で、金色の目だけが、光る。
(その手は、今、伸ばすべきでなかった、とな)
「…………っ」
ベルタの顔から、血の気が引いた。
理性では、ただの猫だと分かっている。分かっているはずなのに、背筋を凍てつくような悪寒が駆け抜けたのだろう。
長い年月で退化しきった人間の本能すらも、警鐘を鳴らしている。目の前にいるのは「ただの獣」ではない、と。
『……べ、ベルタ様?』
下級侍女が、恐る恐る声をかけた。
ベルタは、ビクッと肩を震わせて我に返った。
「……なんでも、ありません」
箱への手が、引っ込んだ。
「……そのまま、お運びなさい。今回は、見逃して差し上げます」
見逃す、だそうだ。立場が完全に逆だが、まあいい。今はそれでいい。
侍女が箱を抱えて去っていく。
その先には、ロムルスの出立用の荷物がある。小箱は無事に、当主の手に届くだろう。
残ったベルタは、もう一度、棚の上を見上げた。
――が、俺はもう、あくびをしていた。思いっきり、顎の外れるやつ。喉の奥まで見える、間抜けなやつ。
うん、実に猫らしい。
「…………」
ベルタの眉が、わずかに動いた。
そして何も言わず、足早に配膳室を出ていった。
前回より、少しだけ歩くのが速い。
(よし)
俺は前脚を舐めた。
(今日のところは、これくらいにしてやる)
じわじわ。少しずつ。
この女の「いつもの正義」が、少しずつ、うまくいかなくなっていく。
窓は勝手に開き、手元を黒い影が横切り、届くはずのない贈り物が、届いてしまう。
……それが何を意味するのか、この女が考え始めるのは、もう少し先の話だ。




