第一話「試験毛と主任」
新連載開始です。
登場人物たちが、勝手にお話しを進めてくれるといいなぁって事で、ふんわりとしたプロットで書き始めました。
どうぞ気楽に読んでやってください。
さすがにご都合主義すぎるやろ!
読み手の理解力に委ねて、手抜きすぎじゃね?
って批判は甘んじて受けます。
今後の登場人物たちの行動指針として、
ご意見、感想などもよろしくお願いします。
人間は死ぬ直前に走馬灯を見るという。
俺の場合は、走馬灯ではなく毛髪灯だった。
提携先の美容院から送られてくる試験用の人毛。束になって、段ボール箱に詰まって、宛名ラベルには達筆な字で「リコライ製薬 研究本部 理美容薬品開発課 リンス班 御中」と書いてある。
御中である。
俺個人の名前はない。実際、送り主にとって俺は個人ではない。毛髪を洗うための部署という概念、それが俺だった。
伊勢海典生、三十二歳。リコライ製薬の研究員。肩書きは主任。リンス部門の、主任。
主任というのは偉そうに聞こえるが、リコライ製薬の主任は違う。うちの会社――研究部門――には定年という概念が実質的に存在しない。七十歳を過ぎても研究に人生を賭ける先輩方が、上から順番にびっしりと詰まっている。
天井のシミみたいに。だから昇進が起きない。係長は五十八歳、課長は六十三歳、部長は六十八歳。部長が現役のうちに俺は六十歳になる。
計算が合わない。人生の計算問題として出題したら、小学校の先生が「この問題はおかしい」と答案に書くレベルで合わない。
つまり俺は、三十二歳にして永遠の下っ端である。下っ端の仕事は決まっている。毛髪を洗う。
「伊勢海くーん、箱また来たよー」
総務のおばちゃんが、宅配便の伝票をひらひらさせながらやってくる。このおばちゃんだけが、俺の名前を正確に呼ぶ。
伊勢海。海老じゃない。エビ、エビと擦られ続けた三十二年、名前を出すたびに「え? 伊勢海老?」と聞き返され、そのたびに「イセノウミです」と訂正してきた。もう訂正用の滑舌が別途育っている。
「はい。受け取ります」
俺は箱を抱えて実験棟に戻る。箱は重い。毛髪は意外と重い。人の髪というのは一本一本は軽いくせに、束になると急に態度をでかくする。人間と同じだ。
中身は今週分の試験毛。切り落としたばかりの、まだ何の処理もされていない、生の人毛である。これにうちのリンスを塗り、洗い流し、乾かし、摩擦係数とか指通りとか光沢とかを測定する。それが俺たちリンス班の仕事の、九割。
残りの一割は、会議である。会議ではリンスの話はあまり出ない。出るのは予算の話と、上が定年を迎えない話だ。
「典生、今日も洗い物か」
隣の席の先輩、五十一歳の平さんが言う。平さんはカラー班の主任である。つまり俺と同じく永遠の下っ端であり、髪を染め続けて二十八年になる。
この人を見ていると、自分の未来図が高精度でプレビューできる。便利なような、ありがたくないような。
「はい。洗い物です」
「人生も洗い流したいね」
「洗い流せたら、とっくに流れてますよ。排水溝から」
「絡まって詰まるだろ。お前は」
「詰まってます。入社した時点で」
我ながら、実験棟の廊下でする会話ではない。
午前中はひたすら洗った。毛を洗い、乾かし、測定し、記録し、また洗う。手がふやける。
三十歳を過ぎたあたりから、ふやけた手が戻るのが遅くなった。指紋が消えそうだ。このまま指紋が消えたら、タイムカードの指紋認証で打刻できなくなり、打刻できなければ勤怠がつかず、勤怠がつかなければ給料が出ない。人毛のために指紋を失い、指紋を失ったせいで給料を失う。
世の中とはそういうものかもしれない。
昼休み、俺は屋上のベンチでおにぎりを食べながら、文庫本を読んだ。
昼に本を読むのが日課だ。ジャンルはラノベ。とりわけ最近は「悪役令嬢もの」にハマっている。
乙女ゲームの世界に転生した主人公が、破滅確定の悪役令嬢ルートからどうにか脱出する、というやつだ。今日読んでいるのは『断罪されないための百日間』シリーズ第四巻。
表紙には、指を差して高笑いしている金髪縦ロールのお嬢様がいる。この表紙絵師の縦ロールは本当に巻きが甘い。重力を舐めている。
読みながら俺は思う。
――いい加減にしろよ、お前ら。
悪役令嬢というのは、総じて破滅するまで何も気づかない。婚約者の王子が冷たいことも、周囲の評判が悪いことも、自分の態度が原因で孤立していることも、何も気づかずに断罪イベントまで一直線に突っ込んでいく。
読者は三百ページ前から分かっている。出前を注文してから届くまでの間より長い猶予がある。なのに気づかない。
まあ、人のことは言えない。
俺もまた、上が詰まっていることに入社三年目には気づいていた。気づいていて転職しなかった。今となっては七年越しの断罪イベントまっしぐらである。
悪役令嬢は縦ロールの巻きが甘いが、俺は人生の巻きが甘い。どちらが重症かと言えば、たぶん俺だ。縦ロールは直せる。
おにぎりの梅を齧りながら、俺は本を閉じた。
空が青かった。秋の、妙に高い空。ああいう空を見ると、人間は無性に何もしたくなくなる。これは本能だ。
会社はその遺伝子を無視する。
ふと、屋上のフェンスの向こうを見た。隣の建物の屋根に、野良猫が一匹いた。
灰色の猫だった。
こちらを一瞥すると、何事もなかったように丸くなる。
「……いいよな、お前は」
俺が呟く。
「残業とか、ないんだろ」
猫は答えない。まあ、当然だ。
「さて」
俺は立ち上がった。午後の分の人毛が、俺を待っている。
夜の九時、実験棟に残っているのは俺だけだった。
残業である。今週は試験用毛髪の納品が重なり、洗い物が渋滞している。首都高速の事故渋滞みたいに、段ボール箱が実験室の隅に積み上がっている。俺はその渋滞の、たった一人の交通整理員だ。
――えらい具合に積み上がったな。
箱は全部で十一個。一個あたり人毛三百束。合計三千三百束。
束ねられた黒髪、茶髪、金髪が、段ボールの淵からぞろぞろと溢れ出ている。三千三百人分の、誰かの断髪である。
三千三百人の「イメチェンしたい」「別れたから」「飽きたから」「気合い入れ直すから」という決断の残骸が、今夜俺の手で洗われるのを、無言で待っている。
誰かの決断を、俺は洗う。物語の始まりにしては地味すぎる。
俺は白い作業衣の袖をまくり、いつものように最初の束を手に取った。褐色の、柔らかそうな毛。二十歳前後の女性のものだろう。こういう毛を見ると、持ち主のことを考えるのが癖になっている。
元気な子だったろうか。ロングをバッサリ切るのには、それなりの理由があったのだろうか。
洗う。すすぐ。乾かす。測る。
洗う。すすぐ。乾かす。測る。
百束を超えたあたりで、視界の端がにじみ始めた。
――あれ。
最近、よくあることだった。目がかすむ。頭の芯に、鉛の重しが入ったような感覚がある。先週もあった。先月もあった。
健康診断は「再検査」だった。再検査の案内は、デスクの引き出しの中で、お菓子の空き袋と一緒に眠っている。
行く暇がなかった。正確には、行く暇はあったのかもしれないが、「行く」という決断の優先順位が、段ボール箱の優先順位にいつも負けていた。
二百束。三百束。
――気持ち悪い。
立ち上がろうとして、立てなかった。
膝が、言うことを聞かなかった。床が近い。いや、床に近いのではなく、毛髪の山が近い。
洗い終わった毛、これから洗う毛、測定待ちの毛。選別前の毛髪の山が、倒れてくる俺を、ふわりと受け止めた。
――柔らかい。
案外、悪くない感触だった。人間、最後の寝床が人毛とは、何の因果か。いや、因果でも何でもなく、俺がここで働いていたからだ。偶然でも運命でもない。労働の結果だ。
意識が薄れていく中で、俺は奇妙に冷静だった。走馬灯は来なかった。来たのは、ものすごく現実的な感想だった。
(人毛、柔らかくても、モフモフには程遠いなぁ……)
毛は毛でも、モフモフとは違うのだ。モフモフには、生きている温かさが要る。心臓の鼓動と、喉を鳴らす音と、こちらを見下してくるあの不遜な目つきが要る。
猫のモフモフとは、そういう総合芸術なのだ。切り落とされた毛髪に、その芸術は宿らない。
(あー、そうか。俺、モフモフが足りなかったんだ……)
人生の不足要素が、死に際に初めて分かる。栄養失調の診断みたいに。――貴方はモフモフが慢性的に不足しています、と。
不足どころか皆無だった。猫カフェに行く暇も、実家の犬を撫でに帰る暇も、とにかく暇が、暇がなかった。
段ボールの山。積み上がった上の人たち。届かなかった再検査。読みかけの文庫本の四巻。結末、知りたかったな。
悪役令嬢は、ちゃんと断罪を回避できたんだろうか。あの巻きの甘い縦ロールのまま、幸せになれたんだろうか。
(……次、があるなら)
意識が最後の一段を降りていく。
俺は、願った。というほど大層なものでもなく、つまりは愚痴の延長だった。昼休みに屋上で吐く、あの手の愚痴の、最終回。
(今度生まれてくる時は、のんびりダラダラ過ごしたい)
勤務時間がない世界で。
残業がない世界で。
定年があって、下っ端があっても、ちゃんと抜けられる世界で。
(あと……)
俺は、あの灰色の猫を思い出した。
(あぁ、美人でお金持ちの女性の飼い猫とか。最高かも)
食事は出る。寝床は温かい。働く必要がない。モフモフは自前。撫でてくれる手があって、日向があって、名前を呼ぶ声がある。
猫。猫でいい。猫がいい。猫以外の選択肢はもう要らない。
人間はもう、少し疲れた。
(……あ、そうだ。四巻の結末だけ……誰か……)
願いは途中で切れた。
リコライ製薬の研究員、伊勢海典生、三十二歳。人毛三千三百束のうち三百束を洗い終えたところで、死亡。
残った三千束は、翌朝、出社した平さんが発見したそうだ。
平さんの二十八年目の未来図は、この朝を境に、少しだけ変わったらしい。
――それはまた、別の話である。
なんとなく面白そうだ。
と思われたら、大変厚かましいのですが、ブックマーク、⭐︎評価もよろしくお願いします。




