第6話 疑念は秩序より早く広がる
噂は、いつも正しい形では届かない。
灰境州の市場で最初に囁かれたのは、取るに足らない話だった。
「聞いたか? 最近、税が軽いだろう」
「その代わり、どこかで帳尻を合わせるらしい」
「結局、中央と裏で取引してるんじゃないのか」
誰が言い出したのかは分からない。
だが、その言葉は人の不安に寄り添う形で、ゆっくりと広がっていった。
官舎の執務室で、アレインは報告書に目を通していた。
「不審な流言が増えています」
マルセルが、いつになく硬い表情で言う。
「“今は良くても、いずれ重税が戻る”
“州の財は一部の人間に流れている”」
「根拠は?」
「ありません。
だからこそ、止められない」
アレインは書類を閉じた。
「数字は、まだ健全です」
「ええ。ですが……」
マルセルは言葉を濁す。
「人は、数字では生きません」
その言葉に、アレインは何も返さなかった。
夕刻、リシアが官舎を訪れた。
「始まったわね」
彼女は、開口一番そう言った。
「帝国のやり方よ。
武器より先に、不信を撒く」
「誰が動いている?」
「豪族の残党。
でも、背後はもっと遠い」
リシアは声を落とす。
「宗教関係者も混じってる。
“この繁栄は神の秩序に反する”って」
アレインは眉をひそめた。
「国家宗教、ですか」
「ええ。
民はまだ信じてる。
“苦しみには意味がある”って」
数日後、小さな事件が起きた。
配給所での口論。
些細な順番争いから、殴り合いに発展した。
「不公平だ!」
「お前たちは優遇されている!」
暴力はすぐに収まったが、
そこに残ったのは、はっきりとした溝だった。
「……分断が始まっています」
マルセルが言う。
「対処しなければ」
「ええ」
アレインは頷く。
「だが、力で抑えれば、帝国の思う壺です」
夜。
広場で、非公式の集会が開かれているとの報告が入った。
「止めますか?」
「……いや」
アレインは、外套を手に取った。
「見に行きます」
広場では、数十人が集まっていた。
中央には、見覚えのある顔――豪族グラントの配下だった男。
「今の統治は、長くは続かない!」
男は声を張り上げる。
「いずれ中央が怒り、我々は全てを失う!
だから今のうちに、備えねばならない!」
ざわめき。
アレインは人垣の中に立ち、黙って聞いていた。
「新しい制度は、実験だ!
失敗すれば、責任を取るのは誰だ?」
その問いに、答えはない。
やがて、誰かが叫んだ。
「……結局、あの元貴族の都合じゃないのか?」
その瞬間、アレインは前に出た。
「違う」
低いが、よく通る声だった。
広場が静まる。
「私は、この州を実験場にしているつもりはない」
人々の視線が集まる。
「だが、保証もしない。
国家に、絶対はない」
ざわめきが広がる。
「ただ一つ言えるのは――」
アレインは続けた。
「帝国に戻れば、あなた方の暮らしは、元に戻る。
重税と、暴力と、沈黙に」
沈黙。
「どちらを選ぶかは、あなた方だ」
それ以上、彼は何も言わなかった。
その夜、リシアが言った。
「……正しいことを言いすぎたわね」
「分かっています」
アレインは答える。
「だが、嘘はつけません」
「それが、一番危険なのよ」
数日後、中央から正式な通達が届いた。
《灰境州における暫定運営は、監査対象とする》
同時に、宗教使節の派遣通知。
「……来ましたね」
マルセルが呟く。
リシアは窓の外を見つめ、静かに言った。
「次は、“神”を連れてくるわ」
アレインは、深く息を吸った。
帝国は、剣ではなく――
信仰と不信で、この州を壊しに来る。
それでも、彼は退かなかった。
国家は、疑われることでしか、
本当の姿を現さないのだから。
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