レルの十字架
ジェル生物の酸が飛び散った。
腕の皮膚だけでなく、服も焼けていく。
「ううううっ!」
ジェル生物に肩まで突っ込んだポポムの左腕は、焼けて灰色に見える。
「――どうするつもりかね?」
髑髏の悪魔が冷やかに問う。
どうするもなにも、自分には他にやれることがない。触ったものを、浮かすことしか――。
「ぐ…レル…さん…!」
伸ばした指先が、ようやくジェルの中のレルに触れた。
指の光が乗り移ったかのように、レルの体がかすかな光に包まれる。
「ほう?」
ポポムは、身を捻るようにして、左腕を引き抜いた。あまりの激痛にしゃがみこむ。腕だけでなく、顔を含めた左半身から煙が立っている。
ポポムは涙を流しながら、叫ぶ。
「ふ、――浮遊…っ!」
ジェルの内部に、気泡が立った。
気泡はどんどん増えていき、レルの体がふわりと上昇した――ジェル生物ごと。
「…ううっ…やっぱ、そうなるっ…」
涙をぼろぼろと零しながら、ポポムは駄々っ子のように膝を叩く。
「ああー、怖いよー…! 嫌だよー…!」
そして、意を決したように立ち上がった。
「うわああああー!」
雄叫びとともに、上昇するジェルを腕を広げて抱きしめた。
(ジュオオオオオ…!!)
雄叫びは、すぐさま悲鳴に変わった。
「あぎゃあああ! 熱つぅううう!」
皮膚と繊維が焼ける匂いが鼻をついた。
それでも、ポポムはジェルを抑えつける力を緩めない。
「うぎぃいいいい! 痛ぁああああ!」
やがて、内部の拮抗が崩れたように、レルの周りの気泡が加速度的に増え始めた。
(コポ…コポポポ…ゴボボボボボボ……!)
気泡の中を、レルが上昇し始める。
そして、ついにレルの体が――
(ゴポンッ)
ジェルを抜けだし、中空に浮かんだ。
もう胎児のようではなく、だらりと手足を伸ばした格好だった。
「や、やった…!」
ポポムは宙に浮かぶレルを見届けると、ジェルから手を放して床に倒れた。
奇妙な音が響いた。
(カチカチ、カチカチカチ)
ぐったりとしたまま音の方を振り向く。
ネクロヴァルドが、骨の手で拍手をしていた。
まだ助かったわけじゃない――。
「いやいや、素晴らしい。実に感動的な場面だった。しかしね――」
ネクロヴァルドが手をかざす。
ジェル生物が一瞬にして空間に消える。
そして、入れ替わるように天井と床から無数の黒い触手が飛び出した。
(ビュルルッ!)
触手の伸びる先は、天井と床のちょうど中間ほどの高さで眠る、レルだった。たちまち、伸ばされた手足に絡みつく。
「や、やめろ…!」
「ノンノ、ノンノンノーン」
妙な節回しに合わせ、白骨の人差し指を左右に振る。
「君が余計なことをしたせいだ、ポポム君――君のせいで、彼女は予定より数段、残酷な死を迎えることになった。出来あがる屍もより醜く引き攣れるだろうね。そのほうがアンデッドとして、より凄みが出る」
触手に四肢を拘束され、空中で磔となったレル――その唇から、うめき声が漏れた。
「ぐ…」
「レ、レルさん…!」
このまま引き裂くつもりなのだ。
(グギュギュギュギュギュ…!)
屍王の右手が、何かを握り潰すかのように動いた。それに合わせるように、触手がレルの手足を引く力が、一線を越える。
「待て」
声は、ネクロヴァルドの背後から聞こえた。
「なにかね?」
平然と聞き返す。
屍王は、その者の意識が戻っていることにとっくに気づいていたのだ。
囚われのエルフは、静かに続けた。
「俺が、お前らの手下になる。そこのイボ猪と女騎士は自由にしてやってくれ」
「ふん、エルフの君が人間を守って自己犠牲――腑に落ちんね」
「アンデッドなんぞにするには、俺はもったいないぜ?」
「ほう?」
屍王は、両肩の関節を外され拘束されたダークエルフを振り返る。
「…お館様、お話の途中、申し訳ありません」
エルフの両手を拘束する執事が目を伏せ、口を出した。
「何だね、ルーファス?」
「このダークエルフ…おそらくは【月下の暗殺者】かと」
「…ほう」
その名は昼の世界より、闇に生きる者の世界に響いていた。
「その名は知っているよ。闇の中から闇を狩る――魔物も人も平等に。君があの冷酷さで名高い、闇のアサシンなのかね」
「さあな、自分で名乗ってるわけじゃない。勝手にそう呼ぶ阿呆どもがいるだけだ」
ふうん、と面白くもなさそうに、屍の王はエルフの顔を振り返る。
「――で? 僕に勝てない君を配下にする、僕のメリットはなにかね?」
「王都をお前のものにしてやるよ」
か、と始まり、はははと続いた。
「聞いたかね、二人とも?」
髑髏の魔術師は、二人の執事を振り返る。
「エルフめ。君らは実にいい。本質的に人間の営みを見下してる。いや、僕は好きだよ、君ら長命種族のその冷笑的なところ」
ポポムは、じっとリズの顔を見ていた。
リズの目には、何の気負いも企みもなかった。本当にこのエルフは、レルのために王都に住む何十万人を敵に回し、傷つけるつもりなのだ。この、つまらなそうな表情のまま――
「リ、リズさ…」
そのポポムの震える声は、ネクロヴァルドの手の動きで止められた。
「だがね――」
その手はゆっくりと動いた。触手が力を貯めるように蠢く。
「僕とこの執事たちはもともと人間でね。何千年生きようと――人間というのは、戦慄に身を焦がしたいものなのだよ、ダークエルフ君」
指揮者のように手が降られ、残酷な旋律が奏でられる。
「やめろ!」
叫ぶリズの顔をうっとりと見つめて、髑髏が言う。
「ああ――なんだ、君もなかなかいい顔をするじゃないか」
レルの左肩の関節が、限界を超えた叫びを上げる。
「ぐうっ…!」
「レル! 目を覚ませ! いつもの馬鹿力でそんな触手、引きちぎれ!」
エルフの叫びを上書きするように、骸骨の悪魔が高らかに嗤う。
「あああああああああーっ!」
レルの声帯が、閉じられた瞼が、四肢が引きちぎられる激痛によって開かれた。
(ん―――)
ネクロヴァルドが、レルから視線を離す。
魔導士としての本能が、空間のどこかで、異質な魔力が増大するのを感知したのだ。
レルの叫びに応えるように、光が、音が、放たれた。
この陳列の間のいたる所に飾られたコレクション――その遺物のいくつかからである。
「な…!」
鋭い光は束になり、レルを縛る触手を切り裂いた。
別の方向からの光は、ネクロヴァルドの伸ばした手を破壊する。
さらに別の光がネクロヴァルドの胴体を狙い、それを庇った執事たちの肉体に風穴を開けた。
「…なんだ、これは…!?」
二千年を生き、森羅万象を知ったはずの不死の魔導士が、中空に問うた。
まるでレルを守ったかのような、光と音――。
光は、伝説の中の神獣のブレスを思わせた。
音は、神話の中の魔獣の咆哮を思わせた。
その獣の名は――ドラゴン。




