屍王ネクロヴァルドの饒舌
右手が、かすかに震えていた。
レルは、その震えを左手でおさえ、奥へと進む。
ここは魔物の居城の最深部――暗闇と死の匂いが支配する。
「少し休むか」
リズが後ろから声をかける。
「大丈夫、疲れてない」
足取りが鈍っていたかもしれない。
元に戻す。
その様子を見て、リズは小さなため息をつく。
いかに伝説の聖盾と強靭な肉体を持つとはいえ、レルはまだ十九の少女だった。
戦闘の高揚が引いてしまえば、死を恐れる切実な本能が首をもたげる。
「無理するな」
レルは、立ち止まる。
そして、強張った口角を無理にあげて振り返った。
「なに? どうして? 行こう、大丈夫だよ」
「…じゃあこの手、握ってみろ」
リズが右手を差し出した。
その手を取ろうとしたレルの右手は、滑稽なほどに震えていた。
「…」
レルは眉根を寄せ、その右手をすぐ横の石壁に思い切りぶつけた。
石壁は砕け、激しい痛みが震えを上書きする。
その手で、再びリズの手を握ろうとすると、リズは差し出した右手を下げた。
「なに…?」
リズは、その場に腰を下ろし、石壁にもたれかかる。
「少し休んでから行こう。この先には、正真正銘やばい親玉がいるんだ。俺と違って、ごまかしは効かんぜ」
「ごまかしなんか」
「いいから休もう。負けるわけにゃいかないんだろ?」
リズは、わざと目を瞑った。
しばしの沈黙。
「…とまると、余計に怖くなるよ」
その声色に、目を開けた。
レルの震えは、体全体に波及しはじめていた。
「お願い、今すぐ行こう。わたしは疲れてなんかないし、それにパラディンになってから初めて姉さまがわたしに頼んでくれたの。この作戦に参加して欲しいって…だから」
今にも泣きそうな顔で、リズの手を掴み、強く握ってきた。
「ね? わかるでしょ? リズ?」
パラディンを目指してからは、いつも、こうだった。
恐怖を感じるより先に、試練に苦難に、身をさらす。
そうしてまだ十九歳のこの娘は、身の丈以上のことを成し遂げて来た。
それは認める。だが――
「…行こう」
そう言ったのは、リズだった。
「うん!」
花が咲いたような満面の笑みで、レルは答えた。
震えは、もう消えていた。
戦闘者としては逸材、それだけに――、
リズは思っていた。
いつか壊れてしまうのではと。
玉座に、髑髏の男が座っていた。
背を丸め、ローブの袖口から覗かせた白骨の指先を、顔の前で合わせている。
その指の腹同士が、神経質に打ち鳴らされる。
(カチ、カチカチ…カチカチカチ…)
頭を垂れ、その音を聞くのは、執事である二人の美青年――。
その正体は、ヴァンパイアとライカンスロープである。
(カチカチカチ…カチカチカチ…)
絶え間ない苛立ちの音が、高い天井に反響する。
不死の眷属たる二人の執事たちにすら、永遠とも思える時間が過ぎて行った。
(カチカチカチ…、カチ)
音が止まり、ようやく髑髏の男が口を開いた。
「これは一体どうなってるのだ…? 説明してくれんかね、ヴァレンティン? ルーファス?」
「お館様、これはその」
ヴァレンティンと呼ばれた吸血鬼が、その血の気のない美しい顔をさらに青くして答えようとする。
しかし、髑髏の男は間髪入れず、白骨の手をあげそれを制した。
「つまり? 一杯食わされたというのかね、人間ごときに? 夜の支配者たる、この僕が?」
あげた手の小刻みな震えが、夜の王の怒りの深さを表していた。
「ルーファス、商人どもとの契約はこうだったはずだ。王都の騎士団に適当な手柄を立てさせてやって欲しい、その代わりに何でも欲しいものを用意すると。僕の記憶違いか? そうだったら言ってくれ、ルーファス?」
ルーファスと呼ばれた人狼の執事は、丁寧に一拍置いてから主人の問いに応える。
「恐れながら、間違いないと存じます。旦那様」
「ふーむ」
髑髏の男は、玉座からゆっくりと立ち上がった。
そして、狼男の前に立つと、寸分狂わぬ正確さで黒タイの結ばれたその首に白骨の腕を回した。
「ルーファス、心から感謝するよ。僕は今、この世で最も信頼できる保証を得た」
汗の流れる額に、ひたり、と冷たい骸骨の額が押し当てられる。
「この契約もいつも通り、他ならぬ君が、商人どもと結んできてくれたのだからな」
「…この失態、深くお詫び申し上げます、旦那様」
黒タイの下で逞しくも美しい喉元が、痙攣するよう上下した。
「お館様、裏切った商人どもは必ずわたくしめとルーファスが…」
「そんなことは今、どうでもいい!」
怒りの具現か、それともこれこそが二千年を生きる不滅の魂か、ネクロヴァルドの頭蓋の中に青白い炎が生まれていた。
「出来レースがばれぬよう、僕もアイデアを出してやっただろう? 上空から侵入する陽動部隊は、テラスにてスケルトン百体と夜明けまで交戦! 城門より入ってくる本隊は、ジャイアントバットやグールと程よい間隔で交戦しながらこの謁見の間までたどり着き、死闘の末に君たち夜の二大モンスターたるヴァンパイアとライカンスロープを捕獲する…! そういう筋書きだった…そうだな?」
「はい、そうでした」
頭蓋の炎が勢いを増し、ネクロヴァルドの目の穴や口から洩れる。
「大サービスではないか!」
「大サービスです!」
「それを何故、あの小娘どもは台無しにしている!?」
屍王が指し示す帷幕には、いかなる魔力か、レルとリズの姿が映されていた。
時間の糸が狂った糸車に巻き取られているかのように、この城に侵入してからの、二人の戦いが高速で流れていく。
百体のスケルトン、ジャイアントバット、ラットキング、重装グール…
そして、幻影の最後は、この謁見の間の扉をレルが盾で突き破る場面だった。
(ズドッ、バーン!)
まったく同時に――いや、幻影より一瞬早く――現実の扉が吹き飛んだ。
土煙の向こうから、凛とした涼やかな声が響く。
「歴史あるクインザム城の玉座を奪いし魔物、ネクロヴァルド。王都にて裁判を受けてもらう。大人しく我が縛につけばよし。否というなら、聖なる鉄槌を覚悟してもらう」
煙が晴れた。
そこに立つのは、真珠色に輝く甲冑の乙女と、褐色のエルフだった。
ネクロヴァルドは――嗤った。
「ヴァレンティン、ルーファス、聞いたかね? やはりこの小娘どもには、話が通っておらんようだ」
「そのようです」
レルは盾を構え臨戦態勢を取りながら、神聖魔法の聖句を唱えている。
魅了などの精神攻撃を防ぐ聖域を展開しているのだ。
その後ろを左右に動きながら、エルフが物も言わずに矢を撃って来る。ご丁寧に、その矢の矢尻は銀製だ。
「聖魔法を使う女騎士と、銀の矢を使うダークエルフ…こんなものをよこすとは、【逆印の御子】を手に入れたという話も虚偽の可能性が出てきたな」
ネクロヴァルドの眉間を狙った矢が、あと数センチという空中で燃え尽きる。
白骨の右手の指先から、炎が出ていた。
「この屍王との契約を踏みにじるとどうなるか、商人どもだけでなく、この国の人間すべてに教えてやらねばならんな? ヴァレンティン」
「ええ、お館様」
屍王の横に立つ吸血鬼の執事が、直立のままうなづく。
直後、その姿が何重にもブレたように見えた。
次の瞬間、レルをすり抜け、吸血鬼は直立の姿勢のままリズの背後に――いた。
「――!」
レルは相棒の危機に思わず、振り向いてしまう。
「ルーファス」
主の声を合図に、黒タイと共に上半身の衣類が、弾けるように破れた。
筋肉の膨らむ圧力によって。
(――しまった)
そう思ったレルが見たのは圧倒的な――口だった。
鋭い犬歯が並んだそれが、レル目掛けて飛んできていた。
(――ッ!)
屍の王は、配下の戦いぶりを見ようともせず背を向けると、玉座に向けてゆったりと歩きだす。
「王都に僕を連行すると言ったな? いいだろう、一緒に行ってやろうじゃないか。君らを屍にした後でだが…」
ごきりごきりと獰猛な力で背骨が砕かれる音が響いた。
さらに鮮血が噴き出す音、ぼたぼたと内臓が床へとこぼれる湿った音が続く。
「そこに住む者が百年は後悔できるよう、手の込んだ地獄を用意しないとな…。何かアイデアはあるかね、ルーファス、ヴァレンティン?」
どっかと玉座に腰を下ろした闇の王が目にしたのは、予想とは違う光景だった。
「これならやれそうだな、レル」
「だね、リズ」
そこに立っていたのは、王の問いに答える忠実な部下ではなかった。
背骨を砕き、内臓を引きずり出していたのは、目の前の小癪な娘二人だったのだ。
「な…」
ネクロヴァルドは、思わず白骨の指を見事な装飾の肘宛てに食い込ませ、しばし沈黙する。そして――、
高らかに嗤った。
「面白いじゃないか、君たち…」
聖なる騎士と邪悪な魔導士の、対決の始まりである。




