番外編「主従の境界が溶ける夜」
――視点:ルカ
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夜が静かに深まるとき、この館はまるで別の世界に変わる。
魔女の館は、常に静かで、美しい。
けれどそれ以上に、夜のリゼリア様は……危うく、そして、抗いがたい。
「ルカ。……来なさい」
その声が、闇の奥から甘く響く。
命令というより、呪文だった。聞いただけで、心臓の鼓動が高鳴る。
僕はそっと扉を開け、部屋の中へ足を踏み入れた。
月明かりだけがカーテンの隙間から差し込み、彼女のシルエットを薄く照らしている。
椅子に座るリゼリア様の姿は、まるで玉座の女王だった。
その瞳だけが、夜よりも深い黒で、僕を見据えていた。
「……どうして、そんなに従順なの? ルカ」
問いかける声は静かで、でも、試すようだった。
「僕は……リゼリア様のものだからです。……ずっと、そう思ってきました」
その言葉に、彼女の唇がかすかに笑む。
けれど、それは喜びではなく――支配者の微笑だった。
「なら……今日だけは、その“僕”を捨てなさい」
「……?」
「わたくしはあなたの“主”で、あなたは“従者”……でも、今夜だけは、それを忘れていいのよ」
それが、どれほど残酷な命令か、すぐに理解した。
主と従の境界があるから、僕は彼女を見上げ、従うことができた。
その枠を外されたとたん、僕の中の“欲望”が、ゆっくりと息を吹き返す。
「ルカ。今夜のわたくしは、ただの“女”よ。あなたの指先に、ふれることを赦すわ」
「……そんな、ことを言われたら……」
胸の奥が、熱でひりつくようだった。
リゼリア様に触れる。
その肌に、息に、香りに、心まで重ねてしまうこと。
そんなことをしてしまったら、もう僕は彼女を――“主”として見られなくなる。
「できないの?」
「……できません。けど、どうしようもなく……したいとも思ってます」
彼女は静かに立ち上がり、僕の前に歩み寄ってきた。
指先が、僕の胸元にふれる。
やわらかな触れ方。けれど、心臓の鼓動が指先から伝わるのを感じた。
「震えてるわ、ルカ。どうして?」
「……リゼリア様に、触れたくて。触れたら、もう戻れないってわかってるから」
その言葉に、彼女は一歩、僕に身体を寄せた。
吐息が、頬にかかる。
指先が、僕の髪にふれ、そっと耳の後ろをなぞる。
それだけで、全身がふるえた。
「なら、一緒に堕ちてみる?」
その囁きは、官能ではなく――慈愛だった。
まるで、僕を受け入れてくれるような、優しくて、深くて、甘い闇。
僕は、そっと彼女の手を握った。
その細い手を、胸に当てる。
「リゼリア様……僕か、男”として抱きしめても、いいですか」
彼女は頷いた。
そのとき、主と従の関係は溶けて――
ただ一人の女と、一人の男が、夜の帳の中で、貪り合い、ひとつに溶け合っていった。