第2話 「白い粒と、ほどけない絆」
桜の花びらが風に舞う昼休み。
教室に広がる弁当の匂いに、真白結衣は眉をひそめた。
彼女の弁当箱の中には、特製の雑穀クラッカーと、アレルギー専門医が処方した栄養ゼリー。そして、体に触れるすべての道具は、無菌処理された専用のスプーンとフォークで包まれている。
「……お米、なんてもう十年は口にしてないな」
呟いた言葉に誰も気づく者はいない。
唯一、それを聞いていたのは、斜め後ろの席に座る**逢坂緋人**ただ一人だった。
彼は気づかぬふりをしながらも、心の奥がざわめくのを止められなかった。
—
その日の放課後、撮影帰りの緋人は結衣の待つマンションに向かった。
秘密の結婚生活を送る二人は、校外のある一室でだけ、本当の夫婦に戻る。
「ただいま、結衣」
「おかえり。……今日はね、少しだけ無理しちゃった」
そう言って結衣が出したのは、ほんのひと口分の白米が入った茶碗だった。
「お米って、やっぱり……あったかい匂いがするのね」
「まさか……食べたのか?」
結衣は、軽く笑ってうなずいた。
「……子供の頃の記憶、ふっと思い出しちゃって。小さいころ、母が握ってくれたおにぎり。あの時はまだ、発作が起きる前だったから」
緋人の顔が青ざめる。
「今、症状は? 苦しくないか? 病院行こう」
「ううん、大丈夫。吐き気は少しあるけど、アナフィラキシーは出てないから」
その強がる姿が、余計に危うく見えた。
緋人は、結衣の手にそっと手袋越しに触れた。
「俺がいない間に、何かあった? 誰かに言われたのか?」
「……誰にも言われてないよ。ただ、誰にも気づかれてないだけ。私がどんなに怖くても、寂しくても、誰にもバレないように完璧にしてるから」
結衣の声は震えていた。
「でも、緋人だけには……本当の私を見ててほしい。見てくれてるって、信じたいの……」
緋人は深く息を吸い込み、強く答えた。
「信じてるよ。俺は、結衣の全部を知ってるから。
食べられないものも、触れられない痛みも。だから俺にとって、白米が食べられないことなんて、どうでもいい。
俺が食べて、君の前で『美味しい』って笑うから。それで一緒に幸せになろうよ」
結衣の瞳に、涙が浮かんだ。
けれどその涙は、悲しみではなかった。救われた安心の証だった。
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その夜、彼女は静かにベッドに横になりながら、緋人の寝息を背中越しに感じていた。
米を口にしたことによる後悔は、あった。
けれど、あの夜、緋人と交わした言葉だけは、宝物のように胸に灯り続けていた。
秘密の結婚生活は続く。
けれどそこには、誰よりも深く、理解し合った二人だけの「安心」が、確かに息づいていた。