ep2.そして誰も帰ってこなかった(後編)
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「大変お待たせしました」
糟良城が署に戻り、ご遺体を家族に会わせた。時計の針は13時を指していた。
婦警から引き継いだ警部が、陽子と陽咲を遺体安置室の方へ案内した。
「こちらです」
親子は、吸い込まれるように安置室に入り、明日俊一のもとへ行った。
「あなた」「お父さん」
2人が号泣する姿を見た警部は、そっと部屋の扉を閉めた。
警部のもとに土田がやって来た。
「まだ2年前に行方不明になった人物と似ていることは言うな。不確かな情報だ」
「わかってます」
土田刑事は、上目遣いで頷いた。
「事件現場の近くにある速度違反をした車を撮影した画像、覚えてますか?」
「あぁ。助手席にいた謎の女性だな」
「はい。これは仮説です。今回、殺害された明日俊一と2年前に行方不明になった雨笠俊一が同一人物だとすれば」
彼女の仮説は飛躍していた。だがすべての可能性を考えなくてはと警部は、黙って頷き話を聞いた。
「雨笠俊一は失踪し、別の家族を作った。もしくは同時に……家族が存在していて」
「家族を捨てられたと思った雨笠俊一の妻が殺害したと?」
「はい。わたしが言いたいのはそう言うことです」
「だとしても、雨笠俊一の妻はどうやって明日俊一を見つけたんだ?」
「わたし、実は奥さんと面識があって。行方不明者届を受理した時、わたしが受け付けたんです」
土田は言った。
「奥さん……雨笠優希さんは、高校で数学を教えている先生なんです。異動で2年前にこの街に引っ越してきた。同時に雨笠俊一は行方不明に」
「それで?」
「雨笠優希さんは、明日俊一が暮らすこの街に2年前に引っ越した。同時に雨笠俊一は行方不明です。雨笠俊一は明日というもう一つの家族がバレたくなくて行方不明になったんじゃないんでしょうか?」
「で、その奥さんが行方不明になった雨笠俊一を偶然見つけて犯行を計画。そして殺害したとそう言いたいんだな?」
「そうだと思います」
土田は自信に満ちた表情で答えた。
糟良城は、見つけた手段は偶然にしても、動機もしっかりしているしこの線も捜査すべきだと考えた。
「わかった。これから明日俊一の奥さんと娘さんに話を聞いたあとに雨笠優希の勤める高校に行くぞ」
「はい」
土田は、大きく頷いた。
安置室を出た向かいにある黒い長椅子に糟良城と土田は、並んで座っていた。
部屋から陽子と陽咲が出てくると、2人は立ち上がった。
陽子は、目の周りが赤くなって、陽咲はまだすすり泣いていた。
「これから少しお話をお聞かせ願います。すぐに済みますので」
警部が言うと、親子を再び会議室へ誘導した。
「どうぞ」
後ろを歩いていた土田が回り込んで、会議室の扉を開けた。
陽子は、会釈し陽咲は一点を見つめたまま部屋に入っていった。
親子に向かい合うように糟良城と土田は座った。
「あとで鑑識の者が指紋をとりに来ます。車に残った指紋と照合するためで、犯人から除外するためのものです。ご容赦ください」
糟良城が丁寧に説明した。
「あとアリバイを確認させてください。こちらの都合で申しわけありません。全員に確認することなんです」
「えぇ。大丈夫ですよ」
陽子は、疲れ切った顔に精一杯の笑顔を作った。
「それでは早速」
警部が言うと、土田は内ポケットからメモ帳とペンを取り出した。
「旦那さんの俊一さんについてです。ご職業は?」
「病院で、精神科医をしています」
俊一の勤める病院は、県内でも大きい病院だった。陽子の言った病院名を土田はメモした。警部は、質問を続ける。
「職場に関してなにか悩んでいたり、なにか変わった様子はありませんでしたか?」
「仕事のことはあまり家に持ち込まない人だったので……すいません、わかりません。変わった様子はなかったと思います」
「そうでしたか」
警部は、数回頷いたあとにさらに続けた。
「昨夜の18時から20時、どちらにいましたか?」
「最初に会った時も言いましたが家にいました。その頃は娘と晩御飯の支度をしていました」
「なにを作った?」
警部は陽咲に優しく聞いた。
「ハンバーグ」
陽咲は鼻を啜りながら答えた。
「陽子さんにお聞きましますが、17時はどこに」
例の車に乗った明日俊一と、謎の女性が撮られた時間だった。
「ハンバーグの材料を買いにスーパーにいたと思います。お肉の安いスーパーに行きたかったので少し遠出しました」
「スーパーの名前を」
「レシートがあります」
陽子は、バッグから財布を取り出すと、レシートを警部に手渡した。
「ありがとうございます」
警部は言った。
「お時間取らせました。レシート、こちらでお預かりしても?」
「結構です」
「それでは、警官に家まで送らせますので。犯人逮捕に全力を尽くします」
糟良城と土田が立ち上がると、陽子も立ち上がり「よろしくお願いします」と深々と頭を下げた。
刑事たちが会議室から辞去すると、警部はレシートを土田に渡した。
「ここに書いてあるスーパーに寄ってカメラの映像を見に行く。念の為にアリバイの裏を取るぞ。それから高校だ」
「はい」
2人は足早に警察署を出た。
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「お忙しい中、捜査にご協力に感謝します」
土田は、スーパーの店長に頭を下げた。
スーパーには、晩御飯の買い出しに来た客でいっぱいだった。タイムセールがあるらしく、そこへめがけて来店する客が押し寄せていた。
入口付近の野菜コーナーには、袋詰め放題と書かれており、土田は「また今度ここに来よう」と独り言のように言った。
「昨日の……何時頃の映像ですか?」
男性の店長がパソコンを操作しながら聞いた。
「17時前後でお願いします」
土田が答えた。
「はい」
モニターは3台設置されており、防犯カメラに映像が映し出された。
「あっいました」
土田が真ん中のモニターに指さした。糟良城は眉を顰めて画面を見ていた。
モニターに表示している時刻は、17時40分。確かに明日陽子はここのスーパーで買い物をしていた。
「奥さんのアリバイは成立ですね」
土田は、警部の方を見て言った。
「あぁ、それに……服装も違う」
「服装?」
「助手席の女性だよ」
事件現場付近のカメラに映し出された明日俊一の乗る車の助手席に座っていた女性のことだ。
「あの時、カメラに写っていたのは黒い服に赤いロングスカート。スーパーで買い物している奥さんの服装と全然違う」
カメラに写った明日陽子は、スカーフに白いニットで花柄のロングスカートだった。
「こういう事件の場合、近親者をまず疑うが、これで奥さんの疑いは晴れた」
警部は、車に乗り込み、シートベルト締めながら言った。
「土田の言った件の線が濃厚になってきたな」
「はい」
サイドミラーに映った土田の表情は、どこか浮かない表情をしていた。
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土田の案内で、雨笠優希の勤める高校に着く頃にはもう辺りは黄昏時になっていた。
ジャージを来た複数の生徒が、校庭を走っているのが見えた。テニスボールのはねる音が聞こえてきて、土田は、懐かしい気持ちが蘇ってきた。
刑事2人のスーツ姿は、学校では浮いた存在ですぐに気付かれた。ジャージを来た教師と思われる男性がこちらへ走ってきた。
「何か御用ですか?」
「こういう者です」
警部は、警察手帳を見せた。
「こちらで勤めている雨笠優希さんにお話を伺いたく……」
「わかりました。少々お待ち下さい」
ジャージを着た男性教師は、警部が言うことを最後まで聞くことなく校舎の中に入っていった。
「行っちゃいましたね」
「待とう」
土田は、テニスコートの方を見てダブルスのラリーを見ていた。
『雨笠先生、至急、職員室まで来てください』
校内放送がながれるのと同時に、ジャージを着た男性教師が校舎から出て、警部の方へ走ってきた。
「お待たせしました。ご案内します」
「急にすみません」
警部は、軽く頭を下げた。
教師に案内されるまま、階段を上がり2階の職員室に着くと、奥の応接室にある黒いソファに座るようにすすめられた。
「じきに雨笠が来ると思いますので、少々お待ち下さい」
案内した男性教師が言ったあとに、別の女性教師がお茶をお盆に乗せてやって来た。
「あっ、お構いなく」
警部が申し訳無さそうに言った。
「いえいえ」
女性教師はそう言うと、足早に応接室から出ていった。警察2人がいきなり来たのだ。職員室は独特な緊張感に包まれていて、その雰囲気を刑事2人はひしひしと感じていた。
「すいませーん、お待たせしました」
走ってきたのか、息を荒げながらジャージ姿の女性教師が応接室に入ってきた。
「お久しぶりです。雨笠さん」
土田は立ち上がると、神妙な顔つきで言った。
「あっ、あの時の」
雨笠優希は土田を覚えていたらしく、目が合うと表情が曇り、笑みを作った。
「お座りください」
優希は2人と向かい合うように座った。遅れて土田も腰を下ろした。
「あの時、うちの旦那が行方不明になった時に親身になって対応してくれた刑事さんね」
「はい。その……申し上げにくいのですが」
「もしかして旦那に何かあったの?」
「こちらの写真を、ご覧いただきたいのですが」
警部が内ポケットから1枚の写真を出して見せた。
「うちの旦那……です」
優希は前のめりになり、写真に近付いて言った。
「間違えありませんか?」
土田は聞いた。
「間違えないわ。写真を見ればわかる。うちの旦那よ」
「見つかったってこと?ねぇ、教えてよ」
優希は刑事2人のを交互に見て言った。
土田は糟良城を見た。優希にどう伝えればいいのか分からなかったからだ。
「残念ですが、今朝、遺体で見つかり……」
警部が言いかけた時、
「そうですか」
力の抜けた言葉が帰ってきた。
「実は今年の夏に旦那を見かけたんです。うちの高校に見学をしに来た生徒の1人の父親として」
優希の言ったことに土田は当惑した。糟良城は表情を変えず黙って聞いていた。
「最初は、わたしたちを捨てて別の家族を作って幸せに暮らしていることに憤りを感じました。殺してやりたいくらい憎みました。でも」
優希は険しい表情から、柔らかい表情に変わる。
「わたしが間違った行動をしたら、息子を1人ぼっちにしてしまう。優太にはわたししかいないから。正直、死んだと聞いてあっちの家族には申し訳ないけど、わたしたちを捨てた報いなのかなって」
少し静寂した空気が応接室に広がった。
「これは、捜査の形式上、お聞きしておかないといけないのですが」
糟良城警部が前置きをして、さらに続けた。
「昨夜の18時から20時、どちらにいましたか?」
「その時間は、体育館で部活動の生徒を見て、終わってからまっすぐ家に帰った時間帯ですね」
「そうですか。証明できるものがあれば」
メモを取った土田が聞いた。
「同僚や生徒たちに聞いてみてください」
「わかりました」
土田はメモ帳を閉じた。
その後、同僚の教師や生徒から話を聞くと、優希の供述どおりのことが返ってきた。
「急に来て申し訳ありません」
警部が深々と頭を下げた。
「それでは失礼します」
校舎を出ると辺りはすっかり暗くなり、吹く風が冷たかった。
「ここに来るまで、雨笠さんが怪しいと思ってました」
土田は車に乗り込み、シートベルトを締めた。
「でも、話を聞いているとその思いがだんだん消えて……」
「おまえは勘に従って捜査した。俺だってそうしてたさ」
「雨笠さんの言う通りなら、学校から犯行現場まで移動するのに1時間以上かかります。距離的に雨笠さんの犯行は不可能です」
「あぁ。明日になればまた見えてくるものもあるはずだ。今日はしっかり体を休ませておけ」
糟良城刑事はそう言うと、車を走らせた。
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翌朝、2人は明日俊一の妻、陽子から聞いた勤務先の病院へと向かった。
建物自体、とても大きい構造で病棟が2棟、3階建ての白い建物だった。
9時からの診察のはずだが、外来の患者が大勢いた。
土田は、数人と目が合うが、すぐに受付と書かれたプレートを見るとそこへ向かった。
「あの」
土田は、窓口を覗き込むようにして事務の女性に声をかけた。声に気づいた事務の1人が刑事に近付いた。
「おはようございます。初診ですか?」
「いえ、こういう者です」
後ろにいた糟良城が警察手帳を見せながら答えた。
少し驚いた表情をした事務の女性が
「少々お待ち下さい」
と言って、近くにある受話器をとった。
「あっすいません。今、受付に警察の方々が来られてて……はい。あの、ご用件は?」
話し口を押さえ聞いてきた。
「明日俊一さんについて聞きたいことが」
土田が答えると、事務の女性はそのまま伝えた。
今日の朝刊に明日俊一の死亡記事が載ったので、土田はそれだけで話が通じると思った。
「はい。応札室にご案内すれば……はい、はい。わかりました」
受話器を置いた事務の女性が、受付の事務室から出て、刑事2人を応接室へ案内した。
「こちらです。少々お待ち下さいね」
事務の女性は、優しくそう言うと応接室から出ていった。
2人は、黒い3人掛けのソファに腰を下ろした。目の前には背の低いテーブルがあり、病院の広報誌やデイケアのパンフレットが置かれていた。
バタンと扉が開く音がすると
「すいません、お待たせしました」
声が穏やかで黒縁のメガネをかけた白衣姿の男性医師が入ってきた。
糟良城と土田が立ち上がると
「こちらこそ、お忙しい中急におしかけてしまって申し訳ない」
「いえいえ、どうぞどうぞ、お掛けになってください」
男性医師はソファに手で指しながら言った。
「失礼します」
2人は座り、医師は向かい合うように腰を下ろした。
「申し遅れました。白石と言います」
「糟良城と土田です」
警部が言った。
「明日先生についてお聞きしたいことがあるとか」
白石医師は、糟良城と土田を、交互に見て言った。
「はい。それでは早速」
警部が切り出すと、隣にいた土田がメモをとる姿勢になった。
「明日さんは、普段どういった業務を」
「明日先生は、わたしと一緒で入院病棟で患者さんを診ています」
「そうですか。お聞きしにくいのですが、患者さんやその家族、同僚の方と何か揉めていたとかありますか?」
「いえ、明日先生は、患者さんや家族の方にも良好な関係を築けていたと思いますよ。わたしも含めてですが看護師や医師からも頼れる兄貴的な存在でした」
「そうでしたか。それじゃ恨むような人物はいなかったと」
「えぇ。明日先生は良い先生です」
「あと、何か明日さんに変わったことはありませんでしたか?同僚から見て」
「うーん」
白石医師は考え込んだ表情になった。
「なかったと思いますよ」
「そうですか……わかりました。お忙しい中ありがとうございました。お時間取らせました」
糟良城はそう言うと、立ち上がった。
白石医師も立ち上がると
「何か、お力になれればよかったんですが」
「いえ、話が聞けて良かったです」
「ありがとうございました」
土田はメモ帳をカバンにしまうと、お礼を言った。
車に乗り込むと、土田は大きく溜息をついた。
「収穫ありませんでしたね」
「そうでもない」
糟良城刑事がポケットから取り出した携帯電話の画面を見ながら言った。
監察医の慶都先生からの不在着信が2件入っていた。土田も携帯電話を見ると、鑑識課の御手洗からメールが届いていた。
『明日俊一の携帯電話、ロック解除成功』
「先に慶都のところへ行くぞ」
警部は大学へ車を走らせた。
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「来たわね」
慶都先生が笑顔で土田と糟良城を待ち構えていた。
「それで、何かわかったのか?」
「可愛い奥さんが頑張って手がかり見つけたのになんの褒め言葉も無いわけ?」
慶都先生が警部を見て言った。
「慶都」
警部は、疲れた声で言った。
「冗談よ。はいこれ」
慶都先生が警部に渡したのは、何かの検査結果が書いてある1枚の紙だった。
「これは」
「他殺の可能性があるから、念の為に薬物検査をしてみた。何が出たと思う?」
「睡眠導入剤」
警部は、紙を見ながら言った。
「成分だけでわかるんですか?」
隣で紙を見ていた土田が驚いた表情で言った。慶都先生は何だつまんないのという表情で警部を見ていた。
「慶都、ありがとう」
警部は相手の目をまっすぐに見て言った。
「まぁ、捜査の手助けになればいいけど」
慶都先生は白衣のポケットに手を入れた。
「稀ちゃんを怪我させたら承知しないからね」
警部は少し微笑んだあとに「わかってる」と答えて、「いくぞ土田」と言って部屋から出ていった。
土田は「ありがとうございました」と深々と頭を下げ、部屋をあとにした。
「稀ちゃん、頑張ってね」
慶都先生は優しく微笑んで手を振った。
署に着く頃には、昼間近くになっていた。2人はまっすぐ御手洗彩葉が待つ鑑識課に行った。
「警部」
御手洗は警部と目が合うと、緊張した表情になる。
「最初に、車内の指紋について、ご遺族以外の指紋は検出されませんでした」
「そうか……携帯電話の方は何か出たか?」
警部は、御手洗の隣に来て優しく聞いた。
「何も」
御手洗は、首を横に振った。
「何も?」
土田は御手洗の正面に立ち言った。
「うん。検索履歴もメールも通話の記録も何も怪しいところはありませんでした」
御手洗は2人を交互に見て言った。
「すいません」
御手洗は、雷が落ちるのを覚悟する顔つきになった。
「通話記録……事件が起きた日に着信は無かったんだな?」
「はい。誰からも掛かってきてません」
糟良城警部は大きく溜息をついた。
「すいません。何の成果も得られず」
御手洗は、綺麗な直角で頭を下げた。
「いや、お手柄だ」
警部は、優しく言った。御手洗はもとの姿勢に戻り、困惑した表情になる。
土田と御手洗は、思わず顔を見合わせた。
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糟良城と土田は、再び明日俊一の勤める病院に来ていた。先程と違う点は、正面の駐車場から裏口のゴミ捨て場に車を停めて待っているという点だった。
「さっきのお手柄だってどういう意味ですか?」
土田は、正面にあるゴミ箱を車のガラス窓越しに見ながら言った。
「まだ確証を得てないから言えない」
警部は、買っていた缶コーヒーを開けて飲んだ。
「病院の中に入らないんですか?」
「あぁ。ある人物を待ってる」
「誰です?」
「掃除のおばさん」
土田は、何を言っているんだこの人はという目で運転席にいる警部を見た。
「掃除のおばさんは、病院のいたるところを掃除する。そんな中で患者や医師のいろんな噂を聞く」
※あくまで糟良城警部の考えです。
「同僚の白石先生が知らない情報を持っていると?」
「そういうことだ……来たぞ」
そういうと警部は車から出て、足早に掃除のおばさんのところへ行った。
「すいません、警察の者です」
警部は、相手に警察手帳を見せた。
「えっ、警察の人がわたしになんか用?」
掃除のおばさんは身構えた。
「少しお尋ねしたいことがあるだけです。お時間は取らせません」
警部は、穏やかに言った。
土田は、メモをとる姿勢になるが、おばさんと同じくらい何を聞くのだろうと警部を見ていた。
「明日俊一さんについてなんですが、一昨日に何か変わった様子は、ありませんでしたか?」
「一昨日……あぁそういえば」
掃除のおばさんは、何かを思い出したようだった。井戸端会議をするような手つきで話し始めた。
「明日先生ね、血相変えて病院から出ていったわよ。ぶつかったのに謝りもしないで。そのまま車に乗り込んじゃってさ。肩痛めちゃったわよ」
おばさんは右肩を押さえながら言った。
「それはお気の毒でした……」
警部は、苦笑いをした。
「明日さんは何時頃に出ていかれましたか?」
「16時頃だったんじゃなかったかな」
「そうでしたか」
「もしかしたらだけど、知っちゃったんじゃないあの噂」
「噂ですか?」
掃除のおばちゃんは、手招きして糟良城警部に耳打ちした。
「それは本当ですか?」
「看護師たちが何人も噂してたから本当だと思う」
「ご協力ありがとうございました」
警部は、頭を下げた。
2人は車に乗り込むと、
「何を耳打ちしていたんですか?」
「事件の真相」
それだけ言うと警部は、シートベルトを締めた。
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「お呼び立てすみません」
糟良城警部は、明日陽子を署の会議室に案内した。部屋の扉は開かれたままである。
「娘さんの……」
「陽咲です」
陽子は、浮かない表情だったが、返答の際は笑顔を作っている。
「陽咲さんは元気ですか?」
「えぇ、まぁ」
「何かあったらお力になれるかもしれません。頼ってください」
「ありがとうございます。実家から母が来てくれたので」
「それは安心だ。すみません、さぁお掛けになってください」
糟良城は、近くにあったキャスター付きの椅子に座るようにすすめた。
「あの……お話があるというのは」
陽子が腰を下ろす。膝の上にバッグを置きながら言った。首元には花柄のスカーフ、黒いセーターにキャラメル色のロングスカート。今日は平年よりも寒かった。
「それがですね」
糟良城は話し始めたその時、会議室の前の廊下を1人の男性が通った。そして、その後ろを土田がついていく形で通る。扉は開かれていた為、警部と陽子からよく見えていた。
陽子は、通った男性を目で追っていた。
「どうされましたか?」
警部は、陽子に向かい合うように椅子に座った。
「いえ、何も」
陽子は、膝の上にあるバッグを大事そうに抱えた。
糟良城は持っていた事件ファイルを机の上で開き、老眼鏡を掛けた。
「急ですが明日さん、山賊焼きは好きですか?」
警部の急な質問に陽子は、口を開いたまま何も答えられなかった。
「俺の大好物なんですよ。前の晩から漬け込むんです。包丁で切れ込みを入れると染み込みやすくなる」
楽しい話をするような口調でさらに続けた。
「下ごしらえから仕込みまでが俺の担当。あとは妻が揚げてくれる。揚げ焼きが正しいかな」
「刑事さん、いったい何の話をしてるんです?」
「俺が下ごしらえをして、妻が揚げる」
陽子の困惑した表情などお構いなしに警部は言った。
「俺の言っている意味、わかりますか?」
陽子は、黙ったまま警部を見ていた。
「もう少し分かりやすく話します」
糟良城は立ち上がると、会議室の扉を閉めた。室内は完全に外界から閉ざされた空間に変わる。まるで取調室のように。警部は椅子に腰を下ろすとさらに続けた。
「あなたは、誰かと組んで自分の夫を殺した」
「何を言ってるんですか?そんなことしてません」
後半になるにつれ、陽子の声は涙声に変わった。
「解剖した結果、夫の俊一さんの体内から睡眠導入剤の成分が検出されました。そして頭にはコブ、肋骨にはヒビが。争った形跡もあった」
糟良城は淡々と言った。
「おそらく俊一さんは、何者かに睡眠導入剤を盛られ、完全に効く前に最後の抵抗で助手席にいた人物に飛び掛かった。殺されると思ったからです
そして共犯者が後ろから抱き締めて引き剥がそうとした。強い力で抱き締めたため、肋骨にヒビが。争っている最中に薬が効き始めて俊一さんの力が抜けた。引き剥がそうと後ろ向きに力がかかっていた為、俊一さんは後頭部を強く打ち付けてしまいコブができた。
首に巻いているスカーフ、取っていただけますか?俺と会った時、いつもあなたは首元を隠す服装をしている。タートルネックに今はそのスカーフ
俊一さんに飛び掛かられた際にあなたの首を絞めたんじゃないですか?」
陽子は、首の辺りを押さえて俯いたまま大きく息をはいた。
「わたしは殺してない、服を掴まれて破けたから先に彼の家に行って着替えた」
彼女は、首元のスカーフを取り、バッグの中に入れた。首には手の痕がくっきりと残っている。
「彼が殺したの。わたしはやってない」
糟良城は一呼吸入れて、相手をしっかりと見た。
「彼というのは、夫の同僚の白石先生ですね?」
「だから彼をここへ呼んだのね。さっき廊下を通っているところを見て正直驚いたわ。最初からすべてわかってたってことじゃない」
陽子の声に穏やかさが戻っていく。
「なぜ自分の夫を殺したんですか?」
「浮気がバレたから」
俯いていた陽子は、まっすぐ警部の方を向いて言った。
糟良城は、雨笠優希が言っていたことを思い出した。
“わたしが間違った行動をしたら、息子を1人ぼっちにしてしまう。優太にはわたししかいないから”
「娘さんのことは考えなかったんですか?」
「あの時はもういっぱいいっぱいで……ごめんなさい」
陽子は泣き崩れた。
「その言葉は俺に言うことじゃない。陽咲ちゃんに言いなさい」
警部は、机の上にあるファイルを閉じて、老眼鏡を外した。
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明日俊一の同僚、白石医師がすべての犯行を自供した。
会議室の前を通る時に、糟良城警部といる陽子を見てすべての罪を自身に向けられると思ったのか、土田が取調室に着くなりあっさりと話し始めた。
「最後まで分からなかったんですけど」
土田が机の上で報告書をまとめながら言った。
「通話記録の件、なんでお手柄なんですか?」
「あぁ、それはな」
向かいに座る警部が背もたれに寄りかかった。
「俺が死亡告知に行った時に陽子さんが言ったんだ。心配で何度も夫に電話をかけたって」
「それで通話記録がなかった」
土田がペンを警部に向けたあと、警部は大きく頷いた。
「彼女は嘘をついてる。そこからどんどん推理していった」
「病院で、掃除のおばさんの耳打ちは結局……」
「噂話だ。証拠にはならないし、実際に見たわけじゃない。明日陽子さんと白石先生の不倫なんて」
「ですね」
土田は、再び報告書の方へ視線を戻した。
「あぁ」
「何だいきなり」
「事件のことで頭いっぱいで忘れてました」
「なんだ」
「何で慶都先生は警部を怒ってたんですか?もう許すとか許さないとか」
「それはな……勝手に食べたからだ」
後半になるにつれ警部の声が小さくなった。
「何を勝手に……なんです?」
「勝手に冷蔵庫にあったプリンを食べた」
警部が恥ずかしげに答えると、署内に土田の笑い声が響いた。
「可愛い夫婦ですね」
糟良城警部は、大きな溜息をつきながらも表情は緩んでいた。




