1‐5 うっかり、ってどういうことだよ!
答えは、逃げる、だ。僕は、教室を飛び出した。
後から神石さんが追いかけてくる。
「ごめんなさい。変な感じになってしまいました」
しかも、足が速い。あっという間に追いついてきて、並んで走ってくれる。
「もしよかったら屋上へ行きませんか? 昨日の話の続きをしましょう」
僕は頷く。周りに見られて困る理由は、いくつもあるのだ。
行く当てもなく走り出したけれど神石さんによって軌道修正され、階段を駆け上がった。
「でも、屋上って鍵がかかっているんじゃなかったっけ」
扉が見えてきたところで気がついて尋ねると、神石さんは僕を見て、人差し指を口元に当てた。
その仕草に射抜かれた僕はうずくまりたくなったけれど、なんとか堪えた。
扉のドアノブに手をかけた神石さんが瞳を閉じる。
「〈開きなさい、クワリール〉」
神石さんの魔法であっけなく開く屋上への扉。ぶわぁ、と風が吹いてくる。
「すごい。屋上って、こんな場所なんだ!」
感嘆が口から漏れた。
見事な五月の晴れ空が視界の半分以上を占めている。隅には給水塔らしき建物。あとはただ何もない空間だ。暖かな陽ざしが心地よくて目を細める。
「名前で呼んでしまってすみません。つい、うっかり」
うっかり、ってどういうことだよ!
相手が神石さんなのでツッコミは飲み込んだ。よく耐えた、僕。
「ううん、大丈夫……」
「よかったらわたしのことも名前で呼んでください。その方が、周りからも自然に見えるでしょうから」
「自然、って」
「佐伯くんの発言で、わたしたちは付き合い始めたという認識になっているはずです」
「あ、あぁ」
声が裏返ってしまった。……佐伯、そのうちシメる。
「ただ、その方が都合のいいことも多いです。……ポモッツの件は、周りに知られたくないですから」
「そうだ、ね」
神石さんにとって僕たちは契約恋人なのだ。こんな僕なんかと、と思うと同情したくなってくる。
だだっ広い屋上の隅っこに、少しだけ離れて座った。
神石さんがランチバッグから取り出したのはコンビニのおにぎりと菓子パンだった。
「体調はいかがですか?」
おにぎりのフィルムを剥がしながら、神石さんが尋ねてきた。
「ぴんぴんしてるよ。魔王の声も、聞こえてこない」
気持ち悪さは、あるにはある。だけどわざとらしくガッツポーズを作ってみせた。
神石さんの表情が安堵したように緩んだ。
「お腹空いたし、まずは食べてから話そうか」
僕はランチバッグから二段弁当箱を取り出して膝の上に置いた。
今日はきのこの炊き込みご飯と、からあげと、卵焼き。
彩りを考えてほうれん草のごまあえの上には、花型にくり抜いたにんじんの煮物を載せている。作り置きのきんぴらごぼうは、保冷剤も兼ねて冷凍庫からそのまま弁当箱に移しただけだ。
気持ち悪さは続いているけれど、食欲はあってよかった。僕にとって料理と食事は最優先事項なのである。
「いただきます」
じっと神石さんが僕の弁当箱を見てくる。
「叶汰くんって、いつも立派なお弁当を持ってきていますよね」
「立派かな? 晩ご飯の残りとか作り置きが中心なんだけど」
すると神石さんが目を丸くした。
「まさか、叶汰くんが作っているんですか!」
改めて言われるとちょっと恥ずかしい。そういえば、出会った頃は佐伯や西島にも同じ反応をされていた。
「我が家は、僕が料理担当なんだ。社会人の姉と兄がいるんだけど、ふたりの分も作ってる」
「すごいですね。尊敬します……」
小動物のように、神石さんがおにぎりを頬張る。
具材はどうやら焼き鮭のようだ。
って、さっき、『いつも』って言った……? つまり僕の弁当箱を、毎日とは言わないまでも見ていたということか?
嘘だろう。恥ずかしくてたまらなくなってきた。
気のせいってことにしよう!
空になった弁当箱をランチバッグにしまって、水筒に口をつける。
神石さんは紙パックのレモンティーを飲んでいた。
「今後のことをオドゥバーハへ相談しようと思っているのですが、昨日は結局姿を見せてくれませんでした」
「あー……」
不意にひゅっと息が苦しくなる。
あの勇者は本気で僕を殺そうとするかもしれない。というか、殺しに来る。僕が、魔王に操られていると信じているから。
「異世界ってそんな簡単に行き来ができるようなものなの?」
「彼は勇者ですから」
なるほど、と口の中だけで呟いた。
「それ以外にも、魔王側の誰かが襲ってきたりする可能性は? たとえばだけど、四天王みたいなやつらとか」
付け焼刃の知識をぶつけてみると、神石さんは首を横に振った。
「魔王の腹心や幹部たちは既にオドゥバーハたちと倒しました。ただ、今回のように、滅ぼしたと思っていた魔王が復活する場合もあるので、完全に大丈夫だとは言い切れませんが」
少しうなだれているように見える。
そりゃ、そうだよな。神石さんにとっては、一般人の僕を巻き込んでしまっているんだから。
ぎゅっ、と拳を握りしめる。
「ところで、どうして封印アイテムが指輪なの?」
少しでも明るくなってほしいのと、異世界のことを知りたかった。
「ポモッツには、月のようなものがふたつあるという話は覚えていますか?」
「うん」
「ようなもの、と言ったのには理由があります。この世界の月のように満ち欠けすることがないからです。その輪郭に似ているという理由で、指輪というのは重要なアイテムなのです。月から指輪を媒介にして行使する力を、『魔法』と呼びます」
神石さんが右手を青空に翳した。
「その指輪を創造する力があることで、わたしは『聖女』とも呼ばれていました」
◆
それから数日、オドゥバーハが現れることはなかった。
僕が佐伯や西島と廊下を歩いていると、廊下の向こうから神石さんが歩いてきた。
神石さんは誰とでも話すけれど、親友みたいな存在はいないようだった。たとえば、クラスでペアを組むことになったときに特定の相手がいないのだ。
「おい、天使と書いて彼女と読む美少女がこっちへ向かってきているぞ」
「何だよそれ。分かりづらすぎる」
「まさか福山が俺たちから抜け駆けするとはな」
佐伯へは悪態をついたけれど、あまりにもしんみりと西島が言うので、僕は苦笑いで応じるしかない。
僕に気づいた神石さんが、ふわっと笑顔になった。小さく手を振ってくれるので、僕もぎこちなく返す。
「叶汰くんたちは数Ⅱですか?」
「うん」
この高校は進学校にしては珍しく、文理選択が三年生からなのだ。
一方で数学と英語の授業だけは難易度別にさらにクラスを半分に分けている。そこでじっくりと将来の進路を考えてほしいというのが方針らしく、公立でも少人数授業で細やかな対応ができるというのを売りにしている。
「神石さんは、面談だったの?」
はい、と神石さんが答えた。細やかな対応ができるという面で、進路指導も頻繁に行われるのだ。
「また後で」
去って行く神石さんの後ろ姿。彼女の成績を詳しくは知らないけれど、英語が特別選抜クラスなのは知っている。
「また後で、だと。青春だなぁ、いいなぁ、俺にも青い春を寄こせーっ」
佐伯が僕の両肩に体重を乗せてくる。
「やめろ佐伯、骨が折れる」
「折れてしまえ。そして天使に介抱されてしまえ。ちくしょう!」
さっぱり意味が分からない。
「福山も今日の放課後は面談じゃなかったっけ」
「あぁ」
「教師に反抗するのも大変だな」
「そういうつもりじゃ、ないんだけど」
ぬるり、僕の内側で何かが揺れた。