3‐11 こんなにも、彼女は僕の世界の中心になっていたのか。
「待ってください、それって」
ヴォダさんの体から、ゆるゆると力が消えていくのが分かった。ぱたん、と手が地面に落ちる。
「……」
丁寧に、地面へヴォダさんを寝かせる。
立ち上がって空の裂け目を見上げた。僕の周りはもう完全に、ゼリーで覆われてしまっている。
夜明けが近い。もう残されている時間は少ない。
口を結び、右手に力を入れ直す。黒い棒を思い切り振る。
「〈導いてくれ、スヴィーターニー〉」
ぶぉんっ! その反動で僕は空に跳ぶ。
「届けっ……!」
空の裂け目へ。
「僕の全てを使って、世界を元に戻す!」
ぱっくりと割れた違和感へ飛び込む。躊躇なんかしない。
「ここは……?」
僕は、空の裂け目に飛び込んだはずだった。だけど今立っているのは、スルンツェ族の聖樹の上。レスゼレニーの、上だった。
立っている、というより浮いている。変な感覚だけど気持ち悪くはなかった。
間に合わなかったのだろうか。
いや、ヴォダさんは、僕に魔法を与えてくれていたはず。
「きれい、だ」
生い茂るスルンツェ族の聖樹。澄み渡る青空には、ふたつの月が浮かんでいる。
こんな美しい景色を独り占めしていていいんだろうか。
不意に思い出すのは、櫻子さんとプタークに乗ったとき見たオルロイの街。そして、交わした言葉……。
『ずっと、自分は何のために生きているんだろうと思って過ごしていました。それがポモッツでの出来事で一変しました。人間って、価値観がこんなにも変わるんだってびっくりしました』
「……櫻子さんと、一緒に見たいな」
言葉は自然と零れていた。こんなにも、彼女は僕の世界の中心になっていたのか。傍にいてもいなくても、考えてしまうように、なっていたのか。
ぎゅっと拳を握りしめる。
決めた。
次に櫻子さんと会ったとき、告白しよう。そのためにも生きて帰るんだ。僕は。
どれだけの時間が経っただろうか。ぱちん! 突然、視界が弾けた。
「えっ?」
僕はひとり、宙に浮いていた。しかも、丸腰で。
つまり、僕はかなりの高さから、空中に放り出されたということでもあって――。
スピードを増しながら落下していき――。
「わああああああ! 嘘だろう!」
「叶汰くん!」
「!」
池のほとりに櫻子さんとオドゥバーハとナデジェが見えた。さらには、櫻子さんが両腕を広げて立っている。僕は、今まででいちばん大きな声で叫ぶ。
「よけて! 櫻子さん!」
このままじゃ櫻子さんにぶつかって大怪我をさせてしまう!
「大丈夫です。わたしには、魔法がありますから!」
光るのは、櫻子さんの手のひら。
「〈留まりなさい、クワリール〉」
ぴたっ。櫻子さんの少し上で、つまりは空中で僕はぴたりと止まった。
「おかえりなさい」
視線が合う。ふわっ、と櫻子さんが微笑む。まるで花が咲いたみたいだ。
ところどころに残るダークグレーのゼリー。かすり傷が痛々しい。だけど、櫻子さんはかっこよくて、かわいい。
――僕の好きな人。
「ただいま、櫻子さん」
鼓動はどんどん速くなっていくのに、頭のなかはびっくりするくらい、冷静だった。
「僕は、櫻子さんが好きだ!」
櫻子さんの瞳が驚きに満ちて、見開かれた。
唇が震えて、頬がわずかに紅く染まる。
「わたしも叶汰くんのことが、……好きです」
ぱちんっ、と音がしたのは、たぶん櫻子さんの魔法が解けた音だったのだろう。
どさっ!
中途半端な位置で浮いていた僕は、そのまま櫻子さんに受け止められるかたちで地面に落ちた。みっともないことに、櫻子さんの腰を地面につかせてしまった。
どきどきと心臓が早鐘を打っている。そんな音が二人分。僕たちはお互いに緊張していたけれど、しっかりと両腕を伸ばして抱きしめ合った。
長かった夜が、明けていた。
◆
ヴォダさんとの戦いから、一週間が経っていた。
テムノッタによって破壊された高校はまだ修理中で、臨時休校となっている。
櫻子さんの戦闘動画は出回ってしまったけれど、高校が再開する頃にはうまいこと忘れられることを願っているし、たぶん櫻子さんは魔法でなんとかしてしまうに違いない。
それは、きっと、僕だけが覚えていることだ。
「行ってきます」
空は青く、雲ひとつない。
梅雨の晴れ間は太陽が眩しい。
本来の世界にいることを、実感する。
「カナタ」
視線を下げると、道路でオドゥバーハが待ち構えていた。
「これからポモッツへ帰ろうと思う」
ナデジェのたっての希望で、ふたりはこの世界を観光していたのだ。
何日かは行動を共にした。それなりに楽しんでくれたのはよかったけれど、オドゥバーハが木刀を買おうとしたときは本気で止めた。
「そうか。せっかくだから見送らせてくれよ。ナデジェも、櫻子さんもいるんだろ?」
オドゥバーハが頷く。なんとなく、僕らは並んで歩きはじめた。
あのとき僕を通じて現れたノークは、オドゥバーハたちの前には姿を現さなかったらしい。
いや、そもそも本当にノークだったのかすら分からない。
だからこそ、いつプラート・シーが襲ってこないか若干不安だけど、今のところそんな兆候はなかった。
「オドゥバーハは、ナデジェのことをどう思っているんだ?」
ぎろりとオドゥバーハが睨んできたので思わず怯んでしまう。
「お前、自分がサクラと恋人同士になったからって、他人にまでそれを強要するつもりか?」
恋人、という言葉にどもってしまう。
「い、いや、そんなつもりじゃ」
「……ナデジェは恩人だ。彼女がいなければ俺は勇者になれなかった。でも、一方でここまで巻き込んで申し訳ない気持ちもある。彼女は本来ならば、身分の高い貴族と結婚して、領地を守るべき人間なんだ」
言い終わるタイミングで、オドゥバーハが前につんのめった。倒れなかったのは流石というべきか。
振り返ると、仁王立ちで立っていたのはナデジェだった。
「呆れた! そんなこと考えてたの? オディなんか、もう知らない!」
そしてずかずかと大股で歩いて行ってしまう。
「……」
「……」
無言で立ち尽くすオドゥバーハ。再び睨まれるのを覚悟で、僕は指摘する。
「捨てられた仔犬みたいな顔、してるぞ」
「ふん」
予想通りオドゥバーハは僕を睨みつけると、待てと言いながらナデジェを追いかけていった。
「ちょっと! ふたりとも、見送らせてくれよっ」
僕は慌ててふたりを追いかける。
基礎体力がだいぶ上がってきたので、息を切らすことはない。トレーニングはこれからも続けていくつもりだ。
ところが、池のほとりに到着したとき、そこにいたのは櫻子さんだけだった。
「叶汰くん」
「オドゥバーハと、ナデジェは……?」
「口げんかしながら帰って行きました」
僕が肩で息をしているのを見て、いろいろと察してくれたらしい。苦笑いがすべてを物語っている。
「あのふたり、うまくいくでしょうか」
「いってもらわないと困る」
池の水面は静かだ。奥には、緑色に変わった桜の木が見える。
これから季節は夏へ向かっていく。
めでたし、めでたしの後にも、物語は続いていくように。
「今日は図書館で勉強するつもりなんだけど、櫻子さんは?」
「わたしもその予定でした。ご一緒してもいいですか」
もちろん、と僕は頷く。
「そういえば、今度の校外模試、受けてみようと思うんだ」
「叶汰くん……!」
櫻子さんが驚きで目を見開く。
そんなに驚かれるとは思わなかったのでびっくりしたけれど、そういえば、昨日の晩に同じことを双子に言ったら泣いていた。
櫻子さんから模試のアドバイスを受けつつ、歩き始める。
「そういえば、今度また、叶汰くんの手料理が食べたいです」
「文化祭用の試作がいろいろとあるから、ぜひ。僕もまた、櫻子さんのクッキーが食べたいな」
「が、がんばります」
僕たちはどちらからともなく手を繋いだ。
櫻子さんの手はやわらかくて温かくて、込める力はいつだって強い。
お揃いの指輪は、光を受けて静かに煌めいている。
完
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