3-8 思い当たるのはひとりしかいない。
◆
「はっ、はっ、はっ、……」
息が切れる。僕の体力が限界を迎えそうだとしても、モドリーは容赦しない。どんどん丘を登っていく。そうしてくれとお願いしたのは僕だけど、それにしてもしんどい。
レスゼレニーに来て数日。
日中はモドリーに付き合ってもらって、修業みたいなことをしている。
大地は平らではなくて幹に向かって緩やかな登り坂になっているし、そもそも、地を這う根はかなり巨大だ。気を抜けば転んでけがをしてしまう。
『遅れているぞ』
モドリーの声が空から降ってくる。
「うわっ!」
飛びかかられてしりもちをつく。ちょうど根に腰をぶつけて、にぶい痛みが全身に回る。跳ねて後ろに下がったモドリーが、座り込んだままの僕を見下ろした。
『ついてこられるようになったのは褒めてやる』
「ど、どうも」
『今日はここで夜を明かす』
モドリーが顎を動かした。つられて僕も辺りを見渡す。頭上は当然ながら聖樹の葉が生い茂っている。周りには大きめの岩がごろごろと転がっている。地面は少し湿っていて、土のにおいがした。
立ち上がって、服についた土を払い落とす。
「食べる物を探してこればいいんだろ」
『分かってきたな』
モドリーはモドリーでしゅっと姿を消した。
辺りに水場はなさそうだ。魚を獲れないということは、鳥や小形動物を探せばいいだろうか。
櫻子さんの指輪があれば、プリテルからもらった黒い棒の出し入れが自由にできた。だけど指輪はプラート・シーによって外され、今はどこにあるか分からない。
魔法のない僕が素手で立ち向かえるのは、手で掴めるくらいの魚や鳥くらいだった。
はぁ、と息を深く吐き出す。
右手に視線が落ちる。櫻子さんの指輪をはめていた右薬指に、今は何もない。
「……だめだな、情けない」
ばさばさっという羽音が聞こえてきて、顔を上げた。
懐から取り出したのはY字状になっている小枝だ。ゴムのような紐を引っかけて、セットするのは地面に落ちている小石。
今の僕の唯一の武器は、聖樹の小枝パチンコのみ。
伸縮性のある幅広の紐はモドリーの小屋の枝を留めている素材だ。ゴムに似ていたので使わせてもらっている。
落ち着いて、狙いを、定める……。
ぱしっという小気味いい音の後に、小さな悲鳴が上がった。
◆
皮をはいだ肉は、聖樹の大きな葉で包み込んだ。モドリーが起こしてくれた炎で蒸し焼きにする。
ぱちぱちと爆ぜる炎。
モドリーが獲ってきた聖樹の実を口にすると、疲れが和らぐような気がした。
『どうして人間族以外は指輪なしでも魔法が使えると思う』
僕は瞬きを繰り返して反応する。モドリーがそんなことを言い出したのは初めてのことだった。
『人間は海から生まれ、魔族は月から生まれたというのが理由だ』
「月から……?」
『そうだ。魔法とは、月そのものの力だ。息をするように、言葉を発するように、自然に行使することができる。それは、生まれ持った力だからだ。心臓の動かし方を知らなくても、生まれたときから心臓は動いているだろう?』
炎が揺れる。
『人間族が指輪を求めるのは、月の輪郭に形が似ているからだ』
「それは、聞いたことがある」
『空っぽの月に肉体の一部を通すことで、人間族は月と繋がることができる』
夜空を見上げても、聖樹に遮られて月を臨むことはできない。ただ、淡い光を感じるだけだ。
『おれは、人間族がきらいだ』
ぽそっとモドリーが呟いた。
『あいつらは何も生み出さず、交渉するふりをして搾取するだけの種族だ。あさましい魂の持ち主ばかりだ』
何か因縁があったような言い方だ。むやみに否定するのはやめて、独白のような言葉に耳を傾ける。
『メジーシュ族はもっときらいだ。あいつらはヴルクビリィ様を殺そうとした』
初対面のモドリーが殺意剥き出しだった理由がようやく分かった。やっぱり、ノークのせいだった。改めて決意するのは、ノークに同情はしないでおこうということ。あいつは生まれながらにして魔王なのだ。
『お前はどちらでもなく見える。お前は、……何だ?』
ようやくモドリーが僕を真っ直ぐに見てきた。
「な、なんだと言われても」
『どうして魔法を習得したいんだ?』
ぱちぱち。ちろちろ。炎が歌っているような、気がした。
世界を守るためだなんて言ったら、偽善者だって返されるだろうか。
嘘じゃない。本当のことだ。僕は僕自身の姿に戻って、ヴォダさんの企みを止めたい。
だけど、それ以上に。
「好きな人を、自分の手で守るためだ」
『やっぱりお前は、変わった奴だ』
初めてモドリーが笑ったような気がした。
◆
『――タ。カナタ』
「ん……」
もふもふしていて、温かい。微睡みからゆっくりと現実へ引き戻される。モドリーに寄りかかるようにして、僕はいつの間にか眠ってしまっていた。
魔法の炎はまだ、静かに音を立てながら燃え続けている。
今の声は、モドリーじゃなかった……?
すやすやと寝息を立てているモドリーを起こしてしまわないように立ち上がる。軽くストレッチをして、僕はその場から離れた。
声は繰り返し僕の名前を呼んでいる。導かれるように歩いて行くと、やがて、視界が開けた。
「ここは……」
ちょうど葉が覆っていないその場所は、直接、ふたつの月の光が降り注いでいる。きらきらと明るい。
まるで、光の柱だ。
その中に浮いているものに見覚えがあった。プリテルからもらった、黒い棒だ。
僕は息を呑む。
「……もしかして、僕を呼んでいたのは、君なのか……」
恐る恐る光の柱へと腕を伸ばした。
黒い棒に指先が触れた瞬間、生まれる風圧。知っている、と本能が告げる。何を? 分かっている。体の底から湧き上がる言葉。唇が自動的に名前を呼ぶ。
「〈力を貸してくれ、スヴィーターニー〉」
僕は僕だけの武器を、魔法を手に取る。
言葉は熱。熱は、光。僕の表面から、ぺりぺりと何かが剥がれていき、光の柱に吸い込まれていく。明るいのに眩しくない。
見つめていると、光の柱は収束して――。
◆
ぶぉんっ、ぶぉんっ。
スヴィーターニーの素振りを繰り返せば繰り返すほど、手に馴染んでいくようだった。汗を袖で拭う。手元にある、聖樹の実を口にする。瑞々しさが全身に広がると、力が漲っていった。
『精が出るな』
いつの間にか、モドリーが僕の前に立っていた。
『ヴルクビリィ様に来客だ。お前のよく知る人物だぞ』
「それって、まさか」
大きく心臓が跳ねた。思い当たるのはひとりしかいない。
『戦乙女だ。会うか?』
「い、いや……」
ついついどもってしまう。僕は元の姿に戻れたけれど、まだ、僕が僕である証明方法を見つけられていない。顔を合わせたが最後、櫻子さんが攻撃してこないとも限らない。
「ちょっとまだ、早い、かな。はははー」
『煮え切らない奴め』
「モドリー? う、うわぁっ!」
突然モドリーは僕の背後から服を咥えて、自らの背中に載せた。慌てて掴まるのと同時に最高速度でモドリーが駆けだす。
「ままま、待ってくれ! こっちには心の準備がいろいろと必要なんだよっ」
『お前ならもう大丈夫だろう。おれの背に乗って、こうして会話できるまでになったのだから』
言われてみれば。
初日は振り落とされることはなかったもののひどい酔い方をした。今はそのときよりスピードが速いけれど、景色がしっかりと分かる。小屋も、大岩も、はっきりと視界にとらえられる。
あっという間にヴルクビリィの姿が見えてくる。
どきん。これまでの比じゃないくらい心臓の音が耳に響いた。
白い狼に向かい合っているのは、紛れもなく、戦乙女こと櫻子さんだった。
久しぶりに見るからか、きらきらして見える。
……って、何を考えているんだ、僕は。両頬をぱちんとはたく。
「うわぁっ」
モドリーが急停止して、僕は思いっきり振り落とされた。世界がぐるりと回転する。どさっ、と背中から地面に落ちる。
恐らくモドリーの狙い通り、櫻子さんの目の前に。
「……叶汰、くん……?」
櫻子さんの声が震えている。背中をさすりながら僕は起き上がった。
「ひ、久しぶり……」
頭が真っ白で、なんとか絞り出したのは間抜けな挨拶。
戦乙女の衣装に身を包んだ櫻子さんの首元には、二つの指輪が煌めいている。そのひとつが僕にくれたものだと気づいて、心臓が跳ねた。
「どうやって櫻子さんに説明するか悩んでいて、えぇと、その」
ちらっと、恐る恐る、櫻子さんの表情を見る。瞳が潤んで、唇が震えていた。
「わたしも、叶汰くんにどうやって謝るか考えながらここへ来ました。気配を辿れなくなって、色んな場所へ探しに行きながら、ずっと、……」
「謝る、って?」
予想外の単語に、僕はおうむ返しをしてしまう。
「プリテルから聞きました。ヴォダさんが、フヴィエズダ族だということ。そんな爆発くらいで命を失うような存在ではないから、何か裏があるに違いないと」




