3‐5 僕の右薬指から、指輪があっけなく外される。
あっけらかんとした声に目を凝らすと、花の飾られた長方形のテーブルの奥に座っていたのは、他ならぬヴォダさんだった。
「待っていたとはどういうことですか。あなたには訊きたいことが山ほどあるんです。そもそも、この館は」
「まずは一緒に食事でもどうだい。腹が減っては話もできないだろう」
ここはダイニングルームらしい。どこからともなくエプロンをつけたメイドらしき人たちがワゴンで食事を運んでくる。
ぽたぽたと髪の毛から水滴は落ち続けている。
食事なんてしている時間はない。そう主張したいのに、呑気にヴォダさんはワインを開けている。
「どうぞおかけください」
「……っ」
促されて、僕はしぶしぶ腰かけた。
美味しそうな湯気が立ち昇るスープが、目の前に置かれた。
「水というのは」
赤ワインを自らのグラスに注ぎながら、よく通る声でヴォダさんは語り始めた。
「流れているうちは恵みをもたらすこともあるし、災害を引き起こすこともある。だが、澱んでしまえば腐っていく。それは世界の理にも通じる部分がある」
「世界の、理……?」
「正義が正義として成立するのに必要不可欠なのは、悪という存在だということさ。具体的な話をしようか。メジーシュ族の聖樹を枯らしたのは私だ」
グラスの中で、赤ワインが揺れる。満足そうに眺めて、ヴォダさんは一気に飲み干す。
「若き王へ、人間族の聖樹を手に入れて新たな聖樹とすればいいと進言したのも私だ」
……つまり、魔王ノークが人間族へ侵攻するきっかけを作ったのは、ヴォダさん?
理解が追いつかない。大賢者ヴォダは、人間の味方じゃないのか?
「どうしてそんなことをしたんですか。あなたは、一体何者なんですか……」
「私は、先々代のフヴィエズダ族の王」
ヴォダさんが手袋を外して手の甲を僕へ向けてきた。ひとつも指輪がないということは、指輪がなくても魔法の行使ができる魔族だという証。
つまり、プリテルが魔族と人間のハーフだと言っていたのは、ヴォダさんこそが魔族だったということで……。
スープに手をつけない僕たち。続いて、前菜が運ばれてくる。
「この世界が健全に巡るためには、正義と悪の対立が必要不可欠だ。私はそれを自らの使命だと考えて、これまで、数多くの正義と悪を生んできた。オドゥバーハも、ノークも、私が手塩にかけて育てた。実にすばらしい物語だった……」
うっとりと愉悦に浸るヴォダさんが気持ち悪くて、僕は身震いした。
全く意味が分からなかった。理解できなくて目眩がする。
「次の物語は、それを越えなければならなかった。そこで閃いたのだよ。ノークの残滓を活用して、戦乙女を主人公とした物語を紡ぐことを」
そこで、ようやく気づいた。
どんな意味があって、僕が選ばれたのかということに。無意味じゃなかったと、いうことを。
「……つまり、僕を悪役に仕立てようとしているんですか。櫻子さんと戦わせるために」
「ご名答。戦乙女と対峙させるには、相応の役者を立てる必要があった。カナタ。君には期待しているんだよ?」
ヴォダさんが片目を瞑ってみせた。
「ベルブラドで創り上げた指輪は当然ながらブラフだ。あれには、何も入っていない。創造能力を持っているのは、神以外では――聖女だけだ」
「まさか、オドゥバーハはその企みに気づいて」
「ご名答。最も、あの子はもはや君が魔王に乗っ取られたと信じ切っていたようだが」
僕の奥底でふつふつと怒りが沸いている。ふざけるな、と声を荒立ててしまいたかった。だけどそんなことは無駄だとも分かっていた。唇を噛み、ヴォダさんを睨みつける。
「そんなくだらない理由で我らの聖樹を枯らしたというのか」
いつの間にかヴォダさんの隣に立っていたのは、プラート・シーだった。ヴォダさんの首元に剣を当てている。その表情は、ぞっとするくらい憎しみに満ちていた。
「やめろ。剣をしまうんだ、プラート・シー!」
ここまでの話から、まだヴォダさんが何かを企んでいるのは明らかだった。ここで行動を起こしたら相手の思うつぼだ。
「そうそう。あまり感情のままに動かない方がいいよ、メジーシュ族のお嬢さん」
呑気にヴォダさんが両手を挙げる。
「ノーク様を取り戻す術を教えろ。そうすれば命だけは助けてやる」
廊下から、ばたばたばたっと複数の足音が響いてくる。
「たしかに叶汰くんの指輪の気配はこの奥から感じます」
僕は反射的に指輪を見つめる。櫻子さんが創造したものだから、僕の居場所が分かるのは当然といえば当然だ。
「櫻子さんたちが近づいてきてる。今すぐヴォダさんから離れるんだ!」
「残念だったね」
にっこり、と微笑んだのはヴォダさんだった。
「もう手遅れだ」
「叶汰くん!」
――櫻子さんとナデジェが飛び込んでくるのと同時に、ダイニングルームは眩しすぎる光に包
まれた。
……がら、がらっ。
「う……」
いつかの爆発と同じ状況だった。強い風で、髪も服も乾いていた。
「ヴォダさん! しっかりしてください!」
櫻子さんの声が耳に届く。僕はがれきの中に埋もれていて、櫻子さんたちには見えていないようだった。
今度こそ言い訳はできない。
僕は、櫻子さんたちと対峙する運命に引きずり込まれてしまった。
それならばいっそ、黙って殺されることで物語の幕を引いた方が、せめてもの抵抗になるんじゃないだろうか……。
諦念に身を委ねてじっとしていると、ぐいっ、と強い力を感じた。
褐色の腕。プラート・シー。
「やめ……ろ……」
拒絶も虚しく、僕の右薬指から、指輪があっけなく外される。
放られて、がれきの中に埋もれる銀色の指輪。櫻子さんとのペアリング。
腕を伸ばす気力は湧き上がってこなかった。プラート・シーが耳元で忌々しそうに言い放つ。
「貴様など助けたくはないのだ」
すべてはノーク様のため、と言い、プラート・シーは僕の体を掴んだ。
◆
「調子はどうだ」
プラート・シーが部屋に入ってくる。
「……だいぶマシになってきたよ」
手を握ったり開いたりして、握力が戻ってきているのを確かめる。
逃げ出した晩は熱が出て、咳も止まらなかった。雨に打たれたことに加えて、精神的なショックで風邪を引いてしまったようだった。
僕が連れてこられたのは、かつてメジーシュ族の城があった地下迷宮の一室らしい。この場所は王族と一部の者しか存在を知らないと、プラート・シーが説明してくれた。
窓のない狭い部屋に、彼女は僕を放り込んだ。ベッドもなかったものの、どこからか布を持ってきてくれたので、僕はそれにくるまって眠った。
布だけではなかった。プラート・シーは治癒魔法を施してくれたり、どこからか水や食料を持ってきてくれていた。
「色々と、ありがとう」
「調子に乗るな。貴様に対する行為はすべて、ノーク様を取り戻すためだ」
プラート・シーのペースにもちょっと慣れてきた。根から悪い奴ではないのだ、たぶん。
「……何日経った?」
「三日ほどだ。安心しろ、追っ手は来ていない」
左手で右薬指に触れる。短い間だったのに、指輪がないということへの違和感がある。
今の僕には櫻子さんの指輪がない。僕の居場所は、簡単に見つかりはしないだろう。
プラート・シー曰く、今の僕の見た目は福山叶汰だけど、瞳の色だけが魔王ノークと同じ朱色になっているらしい。単純にいえば、指輪の効果が切れているということだ。
「……情けない話だ。我が一族の滅亡が、あんな輩に仕組まれていたとは」
しばらくして、そろそろ動けるか、とプラート・シーが尋ねてくる。
僕は大きく頷いた。本調子ではないものの、このままここにいてもいたずらに時間が過ぎていくばかりなのだ。
「あの男の国葬が執り行われるらしい。人間として。実に滑稽な話だ」
「……! 本当に、ヴォダさんは死んでしまったんだろうか」
「そんな簡単に死ぬ訳がないだろう。まだこの話には続きも裏もあるようにしか思えない」
僕も同意見だった。ふたりして黙り込む。
「ところで、聖樹はこの近くにあったの?」
プラート・シーが顔を歪ませた。
「何故そんなことを尋ねる」
「見てみたいんだ。今回の、始まりとなった聖樹を」
「……ついてこい」
病み上がりに対して容赦がない。起き上がると、背中がぱきっといった。
あいてて、とぼやくと、振り返ったプラート・シーが睨んできた。
閉じこもっていた部屋から出ると、筒状の空間に緩やかな階段が続いていた。そこから時間をかけて降りていくと、巨大な空間に立派な柱が何本も立っていた。
何かで見たことがあるような気がして記憶を探る。テレビで見た、外郭放水路ってやつみたいだ。あれはたしか、大雨が降ったときに水を逃がすための施設だったはず。
迷宮というよりは、地下の要塞。
照明もないのに明るいのは、壁自体が淡く光る乳白色だからだろうか。そっと触ってみると、ひんやりとして硬かった。
しばらくして、プラート・シーが溜め息をついた。
「私の一族は代々、王族に仕えていた。親しく接していただくことなどありえない使い捨ての一族だ。それなのに、ノーク様は自ら私に近づき、話しかけてくれた。本当は心お優しい方なのだ……」
僕に話しかけているというよりは独り言のようだった。
そして、それきり、地上に出るまで無言の時間が続いた。




