2-4 早く大人になりたかったし、今だって思っている。
「だだだ、大丈夫だよ」
距離を詰められて慌てて両手を向ける。
櫻子さんはメイクをしていなくても肌が艶々としていて、眩しい。
「心配しすぎだ。カナタだって悩める青少年なんだから、眠れない夜のひとつやふたつあるだろう」
プリテルがおかしなことを言い始めた。ツッコまないでおこう。
そんな僕たちは、森の入り口に立っている。フードをしっかりと被り、僕はふたりへ向き合った。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
頷いて、気合を入れて最初の一歩を踏み出す。
湿った土の感触がスニーカー越しに伝わってきた。謎の館からオルロイの街へと歩いてきたときとは違う。
顔を上げると、広めの神社にいるみたいだった。
時々吹いてくる風が心地いい。空気の澄み具合からか、奥に聖なる樹があるからなのか。
人間のままだったらこんな風には感じることができないというのは、ちょっと残念だ。
導かれるようにして砂利道を進んで行く。
小石に足を取られないように歩いて行くと、次第に道が狭まってきた。大きな岩がちょうどよく道を作っている。両腕も使いながら、進む、進む。
汗が滲んできた。気づくと、若干息も切れ始めていた。
マントで汗を拭って、進行方向を確認する。
ぶわぁっ。
風が道の奥から吹いて、フードを頭から外させた。
『お父さんもお母さんもいなくて、かわいそうに』
『お父さんもお母さんもいないのに、偉いね』
風が、今度は声を連れてくる。
それらはかつて、僕の胸を刺した言葉たちだ。
僕だって少しは、自分じゃない誰かになりたいと思ったことはある。
だけど、魔王になりたいと思ったことは、ない。
「誰からもかわいそうと思われない人間になりたかったんだ……」
感情は言葉になって、風に飛ばされていった。
早く大人になりたかったし、今だって思っている。
僕が今なりたいものは、自分じゃない誰かじゃなくて、『大人』なんだ。
『気分はどうだ?』
いつの間にか、道は消えていた。
進行方向、頭上には魔王が浮いている。
黒地に紫色の縁取りがされた立ち襟の装いは、まさしく魔王と呼ぶにふさわしい。マントの下からちらりと、腰元に剣を佩いているのが見えた。
「魔王。お前、今までどこにいたんだ」
『貴様の内側に、ずっと』
ノークの口元がにやりと歪んだ。
薄かったはずの霧が、少しずつ濃くなってくる。道が消えたんじゃなくて、視界が悪くなってきているようだった。
『我はこの世界のすべてを手中に収めたかった』
「聞いたぞ。人間の聖樹を手に入れようとしたんだって? 滅ぼされて当然のことをしたんだ」
『敗者を悪と称するのは世の非情なる常だ』
少しも悪びれてはいない。これが、世界を混沌に陥れようとしていた、魔王。
「お前なんかに、櫻子さんを殺させはしない!」
僕は魔王を指差して叫ぶ。
『威勢のいいことだ。その方が、より強い絶望を味わうことができるだろう。覚えておくがいい。貴様は、無力だ』
「そうだよ、僕は無力だ。だからこうしてあがいてるんだ!」
ぶわぁっ!
霧が晴れると、そこに魔王の姿はなかった。
「幻……」
だとしたら魔王ノークは一体どこにいるのだろうか。
ぶるっ、と身震いした。どんどん空気が冷たくなっていた。吐く息が、白い。
「……歩こう。今の僕にできるのは、それだけだ」
再び前進し始めると、ようやく、視界の奥に大きな木を捉えることができた。
ようやく、見えてきたのは一本の大きな木。
「……!」
近づくにつれて、全身の毛穴が開いて、ざわりと震える。
どくん、と心臓が大きく波打った。
目の前に立つともはやその巨大さを理解することはできなかった。
「これが、フヴィエズダ族の聖樹……」
頬を涙が伝っていって、神木の根へぽたりと落ちた。
幹は一本で太いというよりは、何本もの幹がねじれて一本となり、そこからさらに空へ向けて再び分かれていっているように見えた。ざらざらな樹皮だけど、どことなく瑞々しい。
見上げると、葉っぱは僕の顔より大きいのが分かった。ちょっとハート形に似ていて、葉脈がきらきらと煌めいている。
神木を目の前にして湧き上がってきたのは、ふしぎな感覚だった。
その力に抗うことは許されないような熱。
僕はこの感覚を知っている。
そうだ、櫻子さんのことを、好きだと思ったときと同じ――。
「そうだ。クゥワストを探さなきゃ」
はっと我に返る。僕の役目は、お酒を持って帰ることなのだ。
神木の根上がりにつまずきかけながら歩いてみると、洞は簡単に見つかった。液体の詰められた瓶がぎっしりと詰まっている。
「いただきます」
僕は苔むした一本の瓶を手に取った。ずっしりと重たく、抱きかかえることにする。割れてしまっては元も子もないのだ。帰りは慎重に、かつ素早く戻らなければならない。
往復で約一時間という説明だった。
行きの道が分かっていれば、帰りはこわくない。
……ところが。
歩くにつれて、どんどん息苦しくなってきた。初めは胸が詰まっている感覚があった。それから、いくら息を吸っても、体に行き渡っていかない。頭がふらふらしてくる。
汗を拭って手元に視線を落とすと、さらに息苦しさが増した。
「手が……」
褐色の肌ではなく僕自身の肉体に戻っていた。つまり、僕の今の姿は、魔王ノークではなくて福山叶汰なのだった。いつの間に? 何がきっかけで?
「くそっ。どうして、このタイミングで……」
戦乙女の櫻子さんですら行くことを止められた場所に、普通の人間に戻った僕が行ける筈もない。
流石に心が折れそうになった。泣かないように唇を噛んだ。鼻水もすする。
足が鉛のように重たくなってきた。必死に、右足と左足を交互に動かす。足だけ前に出していれば、人間は歩くことができる。
櫻子さんに会うまで、倒れてたまるか。
死んでたまるか……。
「叶汰くん!」
……声が光となって薄暗がりに差したような、気がした。
なんとか僕は、森の入り口まで戻ってこられたようだった。
「さ、櫻子、さん……」
「ちょっとアンタ、人間の姿に戻ってない? マズイ!」
プリテルが慌てて走ってくる。
その後ろで走り出した櫻子さんを確認した瞬間に、視界がどんどん白く塗りつぶされていき――意識がぷつりと途絶えた。
◆
「……ん……」
岩の天井らしきものが視界に入ってきて、そのまま視線を下げる。
どうやら僕はベッドに寝かされているようだった。この感触には覚えがある。ヴォダさん用のベッドだ。
ということは、僕は生きて戻ってこられたんだろうか。
扉が、ぎぃと開いた。
「か、か、叶汰くん。意識が……!」
入ってきたのは櫻子さん。
視線が合うと、櫻子さんのこわばっていた表情が緩んでいき、ぺたりとその場に座り込んだ。
「さ、櫻子さん? あいたたたた」
びっくりして体を起こすと、激痛が走った。発信源は背中と腰だ。腕には包帯が巻かれていた。
「サクラー。包帯替えるとき、これも塗ってあげてー」
後ろからプリテルが現れる。僕と櫻子さんを交互に見て、ふふっと笑みを浮かべた。
「目が覚めたか。おはよう、カナタ」
「僕は、どれくらい眠っていたんだ?」
「今日で三日目でした。よかったです、ほんとうに……」
櫻子さんが立ちあがって僕の隣に来る。
「感謝しなよ。サクラがかいがいしく看病してくれていたんだ」
「えっ」
「打撲もひどかったけれど、人間にとって霧は幻覚も見せる毒だからね。しっかり毒抜きをしてくれたんだよ。流石は戦乙女、聖女様だ」
「そ、そんなことは……」
さささ、櫻子さんが、僕の看病を?
櫻子さんも僕も、口をぱくぱくさせて酸欠の金魚みたいになっていた。
「ご、ごめん。櫻子さんにまた迷惑をかけてしまった」
「ばーか」
ごすっ。プリテルが僕に近づいてきて、脳天にげんこつを食らわせた。
「い、痛っ! 何するんだよっ」
「そこは、ありがとう、だろうが」
涙目になって頭を押さえつつ、うっ、と別の意味で呻きが漏れた。
……そうだ。そうだよな。僕は自分の手を見た。
人間に戻っている。そして、右薬指には銀色の指輪が光っている。
櫻子さんを助けようとして、また、助けられてしまったのだ。
「櫻子さん。ありがとう」
言葉に出すと、じんわりと何かがこみ上げてくるようだった。




