2‐3 だって、ずっと見ていたから。
僕が僕であることの証明をしなければ。
違う。
僕が、櫻子さんを知っていることの、証明?
「『赦しの桜』!」
ありったけの大声で叫んだ。
櫻子さんが、ぴたりと動きを止める。
それは昇降口に飾られた、櫻子さんの描いた油絵のタイトルだ。毎日見てきたから、間違いようがない。
「桜の木の絵。文化祭の実行委員に立候補したこと。クッキーはこの前の調理実習で初めて作った。お昼によく食べているのは、メロンパン。僕の知っている櫻子さんの話ならいくらでもできる。それは、決して魔王にはできないことだ」
だって、ずっと見ていたから。
……その理由は、決して口にできないけれど。
かぁ、と櫻子さんの頬が朱色に染まる。無言で剣を鞘に収めると、両手で顔を覆った。
「恥ずかしいのでやめてください。分かりました。あなたは間違いなく叶汰くんです」
ぼっ。
僕も貰い照れをしてしまって、顔が熱い。自分で言っておいて、むしょうに恥ずかしくなってきた。
「あ、あの、櫻子さん……?」
「アンタたち、落ち着いたかい?」
すると、少し離れた場所でプリテルが苦笑していた。
「いっ、いつから」
「割と最初の方から。助けに入ろうかと思ったけれど、その必要はなさそうだな」
櫻子さんが僕から離れて立ち上がった。丁寧な動作で頭を下げる。
「騒がしくして申し訳ありませんでした。わたしは」
僕も体を起こす。櫻子さんが軽いということも僕の記憶に追加されてしまったけれど、できるだけ早く忘れるように努力しよう。そうしよう。
「……戦乙女のサクラだね?」
驚いた櫻子さんと起き上がった僕は顔を見合わせた。
「櫻子さんってやっぱり有名人なんだ」
「そんなに顔出しはしていないつもりだったのですが。この髪色のせいでしょうか」
すると、プリテルは短い髪をくしゃくしゃとかき回した。
「それは、ワタシの父から話を聞いていたっていうのもある」
もう一度僕たちは顔を見合わせる。
「父、というのは」
「ワタシの名前は、プリテル。飲んだくれの賢者、ヴォダの娘だ」
◆
プリテルが椅子を追加してくれて、僕たちはテーブルを囲んだ。
改めて自己紹介をしてから、櫻子さんと一緒にこれまでの経緯をかいつまんで説明した。それから、記憶喪失を装っていたことも謝った。
「メジーシュ族の王をねぇ……。気の毒だったね、カナタ」
僕は苦笑いで返す。
力が欲しいかと言われて頷いてしまった自分に責任がある。浅はかだったかと問われれば、浅はかだったと反省するしかないのだ。
神妙な面持ちで櫻子さんが尋ねた。
「勇者オドゥバーハから、ヴォダ様はベルブラドにいると聞きました。オルロイからはどのように向かうのがいいでしょうか」
「まぁ、プタークが一番早いだろうな。乗ったことはあるかい?」
櫻子さんが頷く。プタークというのは、何かしらの乗り物のようだ。
「父に会うなら、せっかくだしクゥワストを持って行くのがいいよ」
「クゥワスト?」
首を傾げる。今度は、櫻子さんも知らないという反応を見せた。
「クゥワストっていうのは隣の森の奥にあるオルロイの神木の樹液を発酵させた酒で、父のお気に入りなんだ」
「酒……」
酔っぱらいに酒を手土産として持って行くのは、果たして適切な行為なのだろうか。
「そもそも、ワタシの母方の一族がクゥワストの醸造をしていてね。ここの地下が、醸造所になっているんだ。今はあいにく休業中だけど、最後に仕込んだ残りがあるから」
こつん、とプリテルが床を蹴った。
「クゥワストがあれば、機嫌がよくなって話が進みやすいと思う。森の奥、神木の洞に飲み頃の瓶があるから、持って行きな」
「教えてくださってありがとうございます。早速取りに行ってきます」
「アンタはだめだ」
向かいに座るプリテルがぴしゃりと櫻子さんを止めた。
「知っているだろう? 神木の周りには人間に害のある毒が充満している。普通の人間では命を落とす」
プリテルが僕へ視線を向けた。つまり、今の僕なら行けるということか。
「もちろん、知っています。オルロイの神木とはフヴィエズダ族の聖樹のことですよね。わたしは戦乙女ですから、問題ありません」
「いくら戦乙女だろうと、体の作りは普通の人間と同じだろう」
「櫻子さん、僕がひとりで行くよ」
僕は、さらに口を開きかけた櫻子さんを制した。
「ですが」
「僕の今の体は魔族なんだ。安心して、任せてよ」
「カナタの言う通りだ。大丈夫さ。往復で一ケットもかからないから、ワタシたちは茶でも飲んで待っていようじゃないか」
「一ケットとはおよそ一時間のことです」
そっと櫻子さんが説明を付け加えて、不満も表明する。
「それでもわたしは心配です」
食い下がる気がないのは表情からも伝わってくる。だけど、プリテルにあそこまで言われてしまったのだ。一緒に行く訳にはいかない。
すぅ、と僕は息を吸い込んだ。普段はまともに見られない櫻子さんの顔をしっかりと見て、しっかりと、瞳を見つめる。
「お願いだ。僕を、頼ってほしいんだ」
「……」
櫻子さんは無言ののち、しぶしぶ呟く。
「……わかりました」
なんとか、説得成功。僕は勢いをつけて立ち上がった。
「そうと決まれば早速行ってくるよ」
「待ちな。今日は森じゅう霧がひどいから、取りに行くのは明日にするんだ」
「でも」
「戻ってきたらプタークを貸してやる。そうすれば明日の昼にはベルブラドに到着できるさ。今日はうちに泊まればいい」
この世界に来たばかりで疲れているだろう、と言われると、頷くしかできなかった。
色々とありすぎて疲労を忘れていたけれど、確かに、僕は今日、異世界に来たばかりなのだった。
◆
その夜は、櫻子さんに食材の説明を受けて料理をしたり、順番に水浴びをしたり、完全に林間学校の夜のようだった。
そして僕が借りたのはヴォダさんが遊びに来たとき用の客間で、寝心地のいいベッドが置いてあった。
ようやく疲れが取れていくのを感じると同時に、眠れないことにも気づく。寝ようとすると色々と考えてしまって、最終的に寝るための努力を放棄した。
夜の月も見てみたかったんだ、という言い訳を頭に浮かべて塔の外へ出た。
「すごい……!」
昼間と大きさも輝きも変わらない、ふたつの月。
櫻子さんは言っていた。ふたつ合わせて、太陽と月の役目を果たしているのではないかと。
空気が澄んでて気持ちいい。僕は目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。
ちょっとだけなら、森に近づいてもいいだろうか。
「よしっ」
決意して歩いて行くと、先客がいた。
森の入り口を見つめていたのは、櫻子さんだった。月明かりに照らされて、横顔がきらきらと光っている。
まさに、神聖。眺めていると、櫻子さんは、両手を組んで瞳を閉じた。
「……どうか、叶汰くんから魔王を追い出せますように」
澄み渡る夜空に、櫻子さんの願いが溶けていく。
「平和な世界を今度こそ実現できますように」
かさっ。
地面の落ち葉を踏んでしまって、音に反応した櫻子さんが顔を僕へと向けた。かぁ、と頬が紅く染まる。
僕は勢いよく両手を合わせて目を閉じる。
「ごめん! のぞき見するつもりはなかったんだ!」
ふわっと櫻子さんの表情が和らいだ。
「森の奥へは行けない代わりに、祈りを捧げていました。本当は聖樹を見てみたかったのですが……」
「フヴィエズダ族の聖樹、だったっけ」
「はい」
僕は櫻子さんの隣まで歩いて行き、同じように森の入り口を見た。
おどろおどろしい雰囲気。夜の森というのは、塗りつぶされたように闇色が濃い。
「フヴィエズダの、ってことは、他の魔族にもあったりするの?」
「はい。この世界は、ふたつの月と四本の樹によって成立していると言われています。メジーシュ族、フヴィエズダ族、スルンツェ族。それから、人間族。それぞれにとって、それぞれの樹が守護神なんです」
人間にとっての聖なる樹は、王都の中心に。
フヴィエズダ族の樹は、オルロイの森の奥。
スルンツェ族の樹は、とても巨大でその枝の下にひとつの国を作っている。
そう、櫻子さんが説明してくれる。
「旅の途中で、王都の聖なる樹とスルンツェ族の樹は間近で見ることができました。どちらも神聖な空気を纏っていました」
「メジーシュ族の樹は?」
櫻子さんの表情が硬くなるのが分かった。
「……何故、メジーシュ族が人間族を征服しようとしてきたか、叶汰くんには話していませんでしたね」
うん、と僕は頷く。
「メジーシュ族の聖樹は、魔王ノークが生まれたときに枯れてしまったそうなのです。そこからメジーシュ族には不幸が続き、彼は代わりとして人間族の聖樹を求めました。それが、すべての争いのきっかけだと言われています」
ばさばさっ。森の中から鳥が飛び出して、暗闇へと羽ばたいていった。
そのさらに上には、ふたつの、完璧に丸い球体が静かに輝いている。
◆
結局、一睡もできなかった。
話をした後、僕たちは一緒に塔へと戻って部屋の前で別れた。
櫻子さんに言われてしまった。おやすみなさい、と。それが不眠の原因である。単純明快、とても情けない理由ではある。
「ふゎあ……」
我慢できずに大きなあくびをしてしまった。
「本当にひとりで大丈夫ですか? あまり眠れなかったようですし」




