2‐1 立ち直りが早いのは、数少ない取り柄なのだ。
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ぴちゃん。ぴちゃ、ん。
「ん……」
ゆっくりと、意識が、視界がはっきりとしていく。だけど体は思うように動かない。
ぴちゃん。
僕は薄暗い空間に仰向けで倒れているようだった。天井から落ちてくる雫が、頬を叩いて起こそうとしているみたいだ。
池に飛び込んだところまでは記憶がある。ただ、気づけばこんな場所にいた。
つまりここはもう異世界『ポモッツ』。
懸念通り、僕は皆とはぐれてしまったのだ。
上体を起こして、首を動かす。視界が悪いなりに観察してみると、ホテルとか、金持ちの家みたいな部屋に見えた。
制服のポケットに手を突っ込むと硬い感触があった。
スマホの電源は入らなかった。諦めてポケットに戻す。
のろのろと部屋の外に出ると、絨毯の敷かれた廊下が奥まで続いていた。金持ちの家と思ったけれど、お化け屋敷なのかもしれない。
照明のスイッチは当然ながら分からないので、恐る恐る足を踏み出す。
人の気配はまったく感じられなかった。この館に他の三人がいる可能性は、ないに等しいだろう。
昼なのか、夜なのかも分からない。そもそもベルブラドが世界のどこにあって、近いのか遠いかすらも分からないのだ。
「地図を書いてもらったりすればよかった……」
今さら後悔が湧いてくる。基礎知識を教えてもらえばよかった。すべて、今さらだけど。
きら……ん。
溜め息を吐き出したとき、前方に何かが光った。小走りで近づいてみると、窓ではなくて巨大な鏡だった。
そこに映る自分の姿を見て、僕は反射的に鏡面へ手をつけた。その冷たさはこれが夢でないことを突きつけてくる。
「嘘だろ……!」
銀色の髪も朱い瞳も、その顔立ちも自分のものではなかった。しかも、身長も伸びている。今ならオドゥバーハと並んでも同じくらいに違いない。
「魔王……」
右薬指の指輪と、着ているブレザーだけが僕が僕であることを示している。
体は熱いのに指先がどんどん冷えていく。顔を触ると、鏡の魔王も顔を触った。ばくばくと鼓動の音がやけに大きく響いた。動揺をそのまま音にして吐き出す。
「どういうことだ、説明しろ。いるんだろ! 僕の内側に!」
……。
声を上げてみるも反応はない。体内にずっとあった違和感も消えている。
ポモッツへ来たことで、魔王に何らかの障害が起きたのは間違いなかった。だけど僕の見た目がこれでは困る。
オドゥバーハには間違いなく攻撃されるだろうし、プラート・シーに攫われてしまう。
それに、櫻子さんを悲しませてしまう。そんなのは耐えられない。
きらきらと静かに光る指輪へ視線を落とした。
はぁ、と大きすぎる溜め息が出る。足取りが重たい。見た目が魔王になっていることにショックを受けたせいだ。
それでもなんとか出口を探して、立派な扉を両手で押して開けた。
ぎぃ……。
ふわり、と風が頬を撫でる。頭上で広がる光景に、心臓が跳ねた。
「月が……! 月が、ふたつ!」
夜空ではなく青空に、滑らかな球体がふたつ並んでいる。あの晩に迫ってきた球体に似ている。
ここは本当に異世界なのだという実感が湧いてくると、少しだけ前向きな気持ちになれそうだった。
だって、願いが叶ったのだ。
僕も異世界へ行けたら、と。櫻子さんが戦って平和を掴み取った世界を見てみたかった。
そして今立っているのは、まさしくその異世界なのだ……。
「くそっ。負けてたまるか」
心の方向性が決まれば話は早い。立ち直りが早いのは、数少ない取り柄なのだ。
僕は謎の館へ一旦戻って、クローゼットならぬ衣装部屋を探し当てた。
部屋にはいかにもな肖像画が飾られていた。
濃い青色の長い髪の女性で、モナ・リザみたいなポーズをとっている。この館の主だろうか。
「お借りしまーす……」
なるべく体が見えないようにできるフード付きのマントを拝借する。
「くしゅんっ」
制服の上から少しだけ埃っぽいマントを羽織るとくしゃみが出た。
鏡で確認すると、ちょっと異世界の旅人みたいでかっこいい。この世界では、僕が異世界人なのだ。
館は丘の上に立っていて、眼下の半分にはヨーロッパのような街並みが広がっていた。もう半分は、緑色。どうやら森のようだ。
よし、と足に力を込める。気合は、充分だ。
◆
「ま、街、だ……」
うれしさのあまり叫び出したいのをぐっと堪える。
スニーカーの裏が、じんじんと痛い。
どれだけ歩いたのだろうか。なかなかの悪路で、小石や木の枝に何回もつまずきかけた。最終的には、途中で拾った木の棒を杖代わりにして歩いた。もうへとへとだ。
現代日本の舗装技術に、心から感謝したい気分だ。
ふたつの月と晴れ空の下、色とりどりの露店が並んでいる。子どもの頃に行った縁日の露店よりも圧倒的にカラフルでおしゃれだ。
海外へ行ったことはないけれど、まるで海外旅行に来たみたいだ。
「すご……」
それに、店主や行き交う人々はゲームのキャラクターのような恰好をしている。
髪の色は黒以外なら何でもあるようだ。櫻子さんは黒髪だっていう理由だけで投獄されたって言っていたし、珍しいのかもしれない。
黒髪ではなく銀髪、というか魔族姿の僕は、改めてフードを目深に被り直した。背中を丸めて、なるべく目立たないように、するりと人混みに紛れ込む。
単語は分からなくても会話は聞き取れる。それだけで、ちょっと安心できた。
「そこの人、ちょっとちょっと」
突然、地面に布を敷いて品物を広げている店主から呼び止められた。
あぐらをかいて座っているおっさん店主は指輪を僕に掲げてみせた。
「勇者オドゥバーハ様の指輪のレプリカだよ! ひとつ五百クィだ。どうだい?」
「ぶっ」
勢いよく吹き出してしまった。確かにそれはオドゥバーハの指輪にそっくりだった。
「ま、間に合ってます……」
「そうかい、残念だ!」
店主は消極的な断りに手慣れた様子で、次に足を止めた人間へ同じ台詞を繰り返していた。
次の客は迷うことなくレプリカを買って嬉しそうにしている。小学校の修学旅行で級友たちがこぞって木刀を買っていたのを急に思い出した。こういう場所で買うと、なんだか特別感があるのかもしれない。
レプリカが商売になるって、流石は勇者様だ。態度はでかいけど。
「お兄さんお兄さん、見てってちょうだイ」
またもや僕は呼び止められる。今度はテーブルの上に色んなものを並べている店だ。
「これ、お兄さんだけに特別ヨ。戦乙女が祈った香り袋ネ」
店主は自分の手のひらの上に桜色の布袋を載せて見せてきた。
お世辞にもきれいとは言えない見た目の小袋だ。
めちゃくちゃ嘘っぽい。流石にだまされないぞ、これは。
本当に櫻子さんが祈りを捧げたなんちゃらだったら欲しいと思うけれど……という雑念を振り払い、断って先へと進む。
それにしても活気のある商店街、露店街だ。
そして、勇者や戦乙女の知名度たるや! あちらこちらに、櫻子さんやオドゥバーハの名前を謳ったうさんくさい商品が蔓延している。
きょろきょろとしていたら、食べ物の店を見つけた。
オレンジに似ている果物や、テントの柱に吊るされた干し肉や、見たことのない食材。話し言葉は理解できても文字は読めないみたいで、説明文はさっぱり分からない。
ただ、料理したら面白そうだ。本来の目的から逸れた好奇心が湧いてくる。ちょっとだけ緊張が和らいできたのかもしれない。
葉野菜らしきものを食い入るように見つめていたら、右の方から怒声が聞こえてきた。
「ちょっと、そこのアンタ。盗った財布を返しなさい」
ちょっと低めの女性の声だ。
一斉に視線が声の主へ集中する。
髪の色は、濃い目の青。ベリーショートで、耳に数えきれないほどのピアスを飾っている。
発言に似合うちょっと勝気な顔つき。露出が多めの服で、ショートパンツからすらりと足が伸びている。
言われた側はスキンヘッドでがっしりとした体格の男だった。
「はぁ? 何のことだ」
「とぼけんじゃないわよ。今ワタシとすれ違ったときに、財布をすったでしょうが」
身長差もあるのに女性は一切怯んでいない。
周囲の人々はふたりから距離を取って遠巻きに眺めている。僕も、そっとその輪に入り込んだ。
「おいおい。言いがかりも大概にしろよ」
男が腕を振り上げた。
このままでは女性が殴られてしまう! 僕は気づくと人混みから飛び出していた。そして、男の振り上げた腕を掴む。
身長が高くなっているからか、魔族の体になっているからなのか、難なく成功した。
「なっ、何だよお前。こいつの知り合いか」
僕はフードを被ったまま横暴な男を睨みつけて、声色を意識して低くする。
「暴力は感心しないな」
睨みつけること、数秒。
「……く、くそっ! 返せばいいんだろうが!」
もう片方の手で懐から革袋を取り出すと男は乱暴に地面へ投げつけた。
「やっぱりアンタじゃないの! 死ね!」
革袋を拾い上げた女性は、そのまま男の股間を蹴りつけた。
「おぉぅっ」
男が悶える。僕も思わず目を瞑った。
手を離すと、男は股間を両手で押さえて地面へ倒れた。自業自得なので同情はしない。
……というか、僕が助けなくてもよかったパターンなのでは?
「プリテル様の財布をすろうなんて百万年早いだよ、クソが」




