1-10 僕さえ耐え抜けば、なんとかなる……!
それはどんどん勢いを増していき、池から現れたのは黒いもや。
「テムノッタだ」
オドゥバーハが左腕を空へ向けた。
「〈解き放て、サングェ!〉」
「〈羽ばたけ、オンソルーレ〉」
ナデジェも指輪を空へ向ける。
ぱんっ、と空から光が降ってくる。オドゥバーハは勇者に、ナデジェは魔法戦士に戻っていた。
テムノッタは次から次へと表れて、水面を、何事もないように進んでくる。
「〈創りなさい、クワリール〉」
「櫻子さんっ」
僕の目の前に立つ櫻子さん。呪文と同時に生まれたのは半透明のドーム。薄いオレンジ色で、僕を包んでいた。
「叶汰くんはここから出ないでください」
櫻子さんは僕に背中を向けている。
オドゥバーハはまるで空を飛ぶように剣をふるってテムノッタを斬りまくり、ナデジェは光の弓でテムノッタを霧散させる。思わず見とれるけれど、拳を強く握りしめてもしまう。
櫻子さんも櫻子さんで、次々とテムノッタを倒していく。
僕は完全に足手まといな上に、守られる側なのだった。
一旦は減ったテムノッタだったけれど、池の水面全部が黒で覆われる。
「サクラ!」
オドゥバーハが叫ぶ。大量の敵が櫻子さんへと向かっていくところだった。
「きゃっ」
櫻子さんが地面に腰を打つ。それでも抵抗しようと両手を伸ばす。
だめだ。数が多すぎる。オドゥバーハもナデジェも加勢しようとするものの追いつかない。
僕は! 僕は、本当に何もできないのか……?
ぴしっ、と変な音が響いた。急激に体が隅々まで熱を帯びる。
守る、ということ以外何も考えられなくなる……。
(最終的に、貴様は我に降伏するのだ。受け入れて、滅ぼせ)
ノークの声が地響きのように全身を駆け巡る。
(僕は、お前なんかに、負けない!)
(だが、欲しているのだろう?)
――力を。
「うおおおおおお――」
ぴしっ、ぴしぴしっ。
音はドームから発せられていた。正しくはドームにひびが入っていた。
「櫻子さんに近づくな!」
信じられないくらい大きな声で叫んでいた。
僕が腕を伸ばすと、その先にいるテムノッタは次々と消えていく。視界に紅いフィルターがかかっているみたいで、ぼやけているけれどはっきりと分かる。
僕が倒している。櫻子さんに近づく敵を――
「滅びろ! 滅びて、しまえっ!」
テムノッタがいなくなったところでようやく呼吸を思い出して、同時に膝をついた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「叶汰くんっ」
振り返った櫻子さんが僕の顔を覗き込む。
「信じられない」
僕の背後からナデジェの声がした。
「本当に魔王に変身した……」
その声でようやく理解する。肌の色を確認して、認識する。
やってしまった……。両手で顔を覆うものの、変身してしまった事実はどうしようもない。
「だから言っただろう」
オドゥバーハの冷たい声。
「でも、中身はカナタなんだよね?」
「……そうだよ」
振り返って見上げると、ナデジェの表情は困惑したものになっていた。
「ほんとだ。こんな大人しいはずがないもんね、魔王は」
ナデジェもしゃがんで僕に目線を合わせてくる。両手で僕の頬をぺたぺたと触ってきた。
「うーん。分からないことだらけ。でも、たしかにカナタだ」
えっと、これは一体?
「ナ、ナデジェ。叶汰くんが困ってます」
「あっ、ごめんごめん」
ぱっとナデジェが手を離してくれる。
「ノーク様……?」
低い驚きが頭上から降ってきた。
宙に浮いていたのは、魔王の腹心ことプラート・シー。
しまった……。一番知られてはならない相手に知られてしまった。
プラート・シーの顔には動揺が浮かび、瞳が潤んでいる。
「生きて……生きておられたのですか……?」
ぎゅっ、と櫻子さんが僕の服の裾を掴む。
僕は櫻子さんを見て、首を小さく縦に振った。それから立ち上がって、魔王の見た目のままプラート・シーを見上げた。
「僕は魔王じゃない。人間の福山叶汰だ。ただ、魔王が僕の内側にいるのは事実だ。魔王はこのまま封印して消滅させる」
「何だと……? 貴様ごときにノーク様を封印できるとでも思っているのか?」
「やれるかやれないかじゃない。やるんだ。僕が」
すると、プラート・シーは忌々しそうに表情を歪めた。
「予想外の事態だ。貴様を殺してノーク様を取り戻す方法を考えることにする。それまでに命乞いの言葉を考えておくことだ」
身を翻すと、プラート・シーの姿はどこにもなかった。なんとか追い返せたようだ。
脱力感。深く、息を吐き出す。
変な浮遊感の後に、僕の姿は人間へ戻っていた。
手を握ったり開いたりして感触を確かめる。それから、右薬指の指輪の輝きも。
「だからここへ来るのは危険だと言ったのに」
不満を隠さないのはオドゥバーハだ。
「だけどプラート・シーが驚いていたってことは、本当にカナタのなかで魔王が封印されているってことかもしれないわ。共謀していたら、ここでカナタが魔王になってサクラを殺そうとしたかもしれないでしょ」
「ちっ」
「叶汰くん。気持ち悪さがあったりしませんか?」
「……大丈夫だよ」
また変身してしまったことも正体がプラート・シーにバレたこともショックだったけれど、ひとつだけ分かったことがある。
僕さえ耐え抜けば、なんとかなる……!
◆
「何やってるんだよ、佐伯も西島も……」
げんなりしながらふたりを見ると、にやにやしていた。
「経済の勉強だ」
「クッキーを通貨に見立てて?」
わざとらしく溜め息をつく。
「だって、福山の作るクッキーがこんなに美味いなんて知らなかったんだぜ」
「最高記録は、クッキー五枚で、購買一番人気のコロッケパンの交換権利でゴザイマシタ」
「ごめん、基準が分からない。っていうか人のクッキーで商売をするな!」
五限の調理実習で僕が作ったクッキーが、何故かやたらと好評なのだ。
僕たちの会話に、クラスの中心にいる女子たちが入ってくる。
「福山にこんな才能があったなんて知らなかった」
「っていうか、文化祭の出し物、カフェにしない?」
「賛成! それであたしたちも福山にお菓子の作り方教えてもらおうよ」
陽キャ女子たちは勝手に盛り上がりはじめた。
「せっかくだしオドゥバーハくんにホールスタッフやってもらおうよ!」
「異世界風カフェなんて面白そうじゃない?」
「えー、そしたら皆で猫耳つけるってのは?」
「ウケる。それじゃただの猫耳カフェじゃん」
しかも、どんどん賛同の声が増えていく。
「待って待って、そんな」
文化祭の出し物は明々後日のホームルームで話し合って決める予定なのだ。今ここで変な風に決められても、困る。
「叶汰くん、クッキーも上手なんですね」
櫻子さんまで会話に加わってきた。心なしか、『も』が強調されている。
「櫻子さんもよかったらどうぞ」
僕は数少ないクッキーの入ったビニール袋を手渡す。
「いいんですか? 何か対価を……」
「櫻子さんまで何を言い出すんだよ。勝手に商売はじめたのはこの馬鹿たちなんだから、気にしないで。お世話になってるお礼」
「ありがとうございます」
ヒューヒュー、と囃し立てる佐伯をグーで殴る。なお、文句は一切受け付けない。
「あの、もしよかったらわたしの作ったクッキーも貰ってください」
「……いいの?」
「はい」
どうしよう。櫻子さんの、手作り!
手渡されたビニール袋には、クッキー……のようなものが入っていた。
櫻子さんは満面の笑顔。
試されている。魔王云々ではない。これは、僕の片想いに対する挑戦状だ……!
僕は恐る恐る一枚のクッキーのようなものを取り出して、いただきますと口へ運んだ。
ガチッ。歯が欠けそうな硬さ! 逆に、すごい! 僕は右頬を押さえてその場にうずくまった。
「どうですか? 初めて作ったのですが……」
「うん……硬くて……とっても美味しい……」
僕が涙目になっている後ろで、佐伯と西島は僕のクッキーを完売させていた。
「オドゥバーハにもあげますね」
「俺はいい」
何かを察したオドゥバーハがやんわりと断っている。




