メグルトメグル -影一つ-
スマホに指を滑らせて、次から次へと文字を打ち込んでいく。
『よく言うじゃん? 恋するとさ、好きになった人のことめちゃ美化して見えるみたいな』
『あー、言うね。え、なに、めぐる好きな人できたん?』
『できた、と言って差し支えない感じなんだけど、そう踏み切るには今一つ勇気が足りない気がするっていうか』
『煮え切らないなあ。今どこ、家?』
『うん、さっき帰ってきた』
『電話できる? その話、詳しく』
『それは恥ずか死ぬ』
『えー。じゃじゃじゃ、どーいう状況?』
『その人のこと、自然と目で追っちゃう』
『えー、ちょ、えー! 結構、割と、ふつーに、しっかりしたやつじゃん!』
『今朝その人のこと見たら、周りに花が咲いてた』
『急なホラーやめてください』
『違くて違くて! ほら、さっきの美化されるって話! あれって本当だったんだ、って! 少女漫画って本当だ!って』
『少女漫画かよ』
『ぼく、少女漫画みたいな恋しか知らないもん』
『花が咲いてるの、この子の頭の中だったわ』
『ええ~? だってみんな、少女漫画な恋が理想なんでしょ』
『いや他にもたくさんあるわ! ドラマとか! なんか映画とか!』
『無慈悲な現実に、ぼくは左右されたくない!』
『いや、めぐるさ、ていうか、誰なの? あたし知ってる人?』
『ノーコメントで』
『ちょ、おィい! ここまで話しといてぇ!』
『ぼくの気持ちは知って欲しい、でも詮索はしないで欲しい。乙女心』
『乙女心って言えば、なんでも許されると思うな』
『うわべだけの恋バナしたいときって、女子にはあるくない?』
『あるぅ~!(emoji:それな)』
『他人の片思い話ほど、ハニトーぺろりといけちゃうくない?』
『あるあ……いやそれはない。重ッい。胃もたれしちゃう』
『えー、ハニトー美味しいのに』
『美味しいけどもね。てか、めぐる、もうそれは恋よ』
『え!? ぼくやっぱり恋してる!?』
『してるしてる、ていうか、自分で言っちゃってんじゃん。「乙女心」だとか「片思い」だとかのワードをさ。それもう恋以外なくない?』
『ないぃ~!(emoji:それな)』
『めんどっ。も、あたし寝るから。めぐるも遅くまで少女漫画読むんじゃないよ』
『うん、ぼくももう寝るよ』
おやすみスタンプをぽんと送り合って、スマホのディスプレイを消す。
午前零時過ぎ、照明の消えた部屋でひとり。くう、と目頭を押さえる。もうこんな時間かと、最後に時計を確認した記憶がおぼろげだ。ぼくは長時間、肩をこわばらせてクラスメイトの水穂とやりとりをしていた。
指を走らせている間じゅう、妙に汗をかいていたみたい。はあっ滅茶苦茶ドキドキした。大きく息を吐き出して、呼吸を整えようとするもまだ心臓が早鐘を鳴らす。自分にしては思い切った告白だったんだな、と改めて気づき、胸に手をやった。
水穂はそうだよって言っていたけど、うん、そうだよね。と、胸から湧き出た想いにその名を付けた。
「うん、ぼく恋をしているんだよね」
ぼくの周りには「音」が多い。
それはたとえば自室の中。
木造のドア越しにさまざまな音がやってくる。特に多いのは飛来物だ。ドアに直接ダメージを与えるものもあれば、床に落ちて割れるものもある。不定期に飛んでくる物はこれまたさまざまで、陶器のお皿やステンレス製のマグカップにテレビのリモコン。
怒号も飛んでくるものの一つだ。母親の金切り声がドアを軋ませて、野太い男の声が床の隙間から這い寄ってくる。ドア越しに耳をそばだてると「音」の原因物質は、その多くがぼくの母親から発せられたものだとわかる。
音は窓の外からもやってくる。
自室の小窓を少しだけひらくと、外の香りに乗って苛立たし気な声が吹き込んでくる。この声はきっと下の階の住人だ。母親の怒号に呼応するように、負けじと窓越しに訴えを投げ込んでくる。支柱は重量鉄骨とはいえ、ドアや内壁は木造の箇所があり、古い造りのマンション。喚き散らす母親の挙動は、さぞや階下に響くだろう。
さてと今夜もぼくは、カーテンを外して結んでつなげて、窓から放る。ベッドの足にくくり付けて固定し、ここは三階、お気に入りのハイカットのエアフォースワンを履き、いざ飛び出した。
階下のベランダに引っ掛からないように、左右に体を揺すって腕力だけで自重を支え、ちょっとずつ滑り降りていく。訓練中の消防隊員のように。
錆びついた手すりに足をかけ、音を殺して草っぱらに飛び降り、ひと息でマンションの外壁を乗り越える。金網に空いた大型犬でも通れそうな穴に身をくぐらせ、抜け出た。
ふう、ようやく外の香りを肺いっぱいに吸い込む。「うぐぐ」っと、肘、肩、背中、腰を伸ばし、軽やかな足取りで町の中心を目指す。外灯のない真っ暗がりな道から、景色が流れるたびに、じんわりと光に導かれるホタルのように、瞳の奥が明るい色に慣れてくる。
まだ夜更かしにはほど早く。大きめのパーカーを着たぼくは、フードを目深にかぶり身を屈めつつ歩く。
第一、第二商店街をつなぐ大橋の辺りまで足を延ばした。
大通りから脇へひとつ入り、お腹をさすりながら、食欲を満たしそうな香りに誘われてミツバチのように或る軒先へ吸い込まれる。こんな時間から焼売片手に街を闊歩するのも、華の女子高生としていかがなものかという葛藤に苛まれるけれど、箸を入れたときじゅわっと沸き立つであろう肉汁には抗えない。飲食フロアは奥にあるものの、店内調理ではなく、道路との境界ギリギリまで増設したテイクアウト用の軒先販売点心は、客の眼前で調理をしてくれるため、ぼくのようなミツバチもどきが列を成す。中華飯店東風家は残業でくたびれた会社員にも、飲み会で胃を荒らした大学生にも、ぼくのような夜歩き未成年者にも、その間口を、罠を張る餌待ち爬虫類のように大きく広げているのだ。
もがが、っと焼売を頬張りながら大通りへ足を戻す。この焼売は本当に大きい。ひとくちでは到底食べきれない。でもどうしてもあふれ出る旨味を口から逃がしたくなくて、ひと息ついては大きくクチを開けて放り込む。ついと目線を前に向けると、ブティックのショーウインドウにその様が映されて、なんだか可笑しくなった。
鏡に映った影二つ。そのパーカー姿は!とか言いながら真っすぐに近寄ってくる。八重歯をむき出しに、にこぉっと笑った金髪男子が鏡越しに手を振ってきた。
「あれえ、今日は来ないかと思ってたのに、こんなとこに居たァ?」容姿その通りの軽薄そうな口ぶりで、ぼくのフードを勝手に取り、顔を覗き込んでくる。「ヨータが寂しがるからさあ、連絡送ってたんだけど気づかんかった?」連れを指さしてにやける金髪を、陽大が小突いた。思いのほか深く小突かれて、ぐう、と脇を抑えている。
ぼくも背が高いほうだけれど、頭一つ抜き出た長身で腕が長く、程よく筋肉の乗った大柄な男子がこじんまりとした仕草で頬をかきつつ、太眉を下げた。「ああ、と。今日は、そんな、気分じゃなかった?」陽大はおずおずとこちらを伺ってくる。
別に気分じゃないわけではなかったんだけど、焼売を食べるのに忙しくてと弁明するのも違うので、もう一個クチに放り込んだ。沈黙が肯定と取られたのか、肩をすくめつつ金髪が焼売に手を伸ばしてきた。
「おっと、旨そうなもん食ってんじゃん! へへっ、いただきっ!」ちょっとそれ、ぼくの焼売!と抵抗しようとした矢先。鏡に映る影が一つ、揺れた。
ナイキのパーカーをだぶっと着こなし、ショートパンツにハイカットのエアフォースワン。男性にしては長めの髪を片耳にかけ、ショートボブが揺れる。七分丈からのぞく腕は細いながらも筋力がしっかりと。「馴れ馴れしいんじゃ、ないの」と金髪の腕を掴んで止めた。
金髪は完全に虚を突かれた顔で、こちらを見た。徐々に「なぜ」と不審な目の色へと変わってくる。
栗のような丸々とした空色の瞳が、ネオンに反射して夜に輝く。鏡に映った髪が長くまるで少女漫画から飛び出してきたかのような男子が、ギラリと眉を上げる。「助けに来たよ、とか、期待してた?」
言うが早いか、ぼくの逃げ足を促し踵を返した。わき目も降らず一目散に二人組から距離を離していく。びかびか光るネオンから背を向けて、夜の闇へと駆けていく。去り際に見た陽大の表情は、まるで狐につままれたようだった。
「前もこんなことあった気、しない?」と走りながら彼が言う。小首を傾げて、「以前もあの二人に絡まれていたような……あれ、違ったかな?」と記憶を探る彼の表情が可愛くて。陽大の顔色なんて吹き飛んでしまった。
ううん、違わないよ。ちゃんと、いつも来てほしいときに現れてくれるもの。
夜歩きを始めるようになって最初のころ。夜の繁華街にぼくひとりでいるのはやっぱり怖いなって思っていた。
陽大たちとの「3on3」をするようになってからも、妙な視線を感じたり、不安はいつでも付きまとった。
それでも夜の街に出てくるのは、彼がいたから。何かに巻き込まれても彼が来てくれるという安心感があったから。家にいるよりむしろ、安心していたりもしたんだよ。
「ぼく、もしかして早とちりしてない、よね?」
不安げな声で彼、木谷くんが聞いてくる。ダイジョウブだよ。陽大は一見威圧感満載で、金髪くんの風貌は不信感の塊だけど、一応ストバスメイトだから。
「うそ、マジ、ああァだから見覚えあったんだ。なんだ、じゃあ、逃げなくてもよかったんじゃん。てっきりまた妙なのに絡まれてるのか、って」
「うん。ごめん。ちょっと言い出せなくて」
笑うのをこらえながら返すと、お互いに息が上がりながら走っているのも馬鹿らしくなってきて、空を見上げた。こらえた笑いがこみあげてきて、どちらからともなくぶはっと噴き出すと、天下の往来で笑い転げた。
そりゃあ言い出せないよ。横顔が凛々しくて、見惚れてたんだから。
こんな夜の逢瀬を繰り返していたら、いつしか彼に惹かれていた。
ああ、でも、とお腹を抱えながら思う。
知られちゃったな、陽大たちにも。彼の、木谷くんのこと。
ぼくの、好きな人のこと。
体操服の上着のポケットが震える。水穂からだ。
『なんで、体育館にスマホ持って来てんのさ。いけないんだよ』
『自分だって持ってきてんじゃん』
そう指摘するとコートの反対側で水穂が手を振った。
『球技会の日くらい、いいの。待ち時間長いんだから』
ぼくたちが待機しているのはバスケットコート。出番は二試合先だ。全校生徒投票で種目はバスケとサッカーとなり、男女一チームずつ組めてしまうもんだから、進行がまあ遅いこと。
それでいて、こういうお祭り騒ぎには熱を持っちゃう人が少なからず居り、クラスメイトを取り込みつつ勢力を拡大していく。かく言うぼくも巻き込まれた側で、暴風域の只中に放り込まれた唯一の経験者だ。この季節の体育館は蒸すから、屋外でサッカーが良かったんだけどなあ。
『サッカーはうちのクラス、絶対優勝とか息巻いてた』
バスケの方は期待薄と語るところ、クラス間、競技間で温度差がある模様。
『ええ、いいなあ、ぼくもそっちのクラスがよかった』
『あんた経験者だもんね。何、優勝狙えるの?』
『いやあ無理でしょ。先輩のトコと当たったらひとたまりもないよ』
『じゃ、なんで鉢巻させられてんの。必勝とか書いてんじゃん』
『なんかねえ、ちょっとアツい子がいてさ。いやだいぶアツい子で。いや暑苦しい子で』
チームメンバーを鼓舞してコートの隅っこでパスキャッチの練習とかし始めてるくらいの暑苦しさだったので、見て見ぬふりをしてスッと得点板の陰に気配を隠した。「ここは私たちががんばりましょうね」と耳元でキンキン鳴かれる日々がここ数日続いていたため、正直、本番を迎えるのが億劫だった。
『ああ、そういえばあんた、しつこく部活に誘われてたね』
その子とは中学校時代のバスケ部で出会っているんだけど、名前も顔も覚えがなかったもんだから初動の応対間違えたんだよね。それで妙に付きまとわれたりもした。
『ライバル同士が手と手を取り合って~、みたいな熱い展開に変なスイッチ入ってる感満載ガール……』
『や、もうその文面がめんどくささ良く表してるわ。お疲れさん』
『もしそっち行っても、体調不良ってことにしておいて』
次の試合開始まで彼女とは極力、距離を置いておきたい。
『ん、まあ、ぼちぼちね』「って、めぐる危ないっ!」
悲鳴と風切り音に乗って、ボールが迫る気配を感じ、っと。
「おっと」
危険を告げた水穂の声で、ディスプレイから咄嗟に顔を上げ、頭を守ろうと反応する束の間。眼前に伸びる手。息をのむ間際。結構な速度で飛来したであろうボールを受け止めた衝撃音が、一瞬冷やりとしたコート内の緊張をほぐした。パスミスで丁度、ぼくの頭部を襲う筈だったボールの回転は、その手の中にピタリと収まり、周囲に安堵が伝播する。
「危っぶな」と、耳元で声を漏らしたのは彼。どうして木谷くんがここに、と聞く隙をくれず、ボールがコートに戻されゲームが再開する。
試合そっちのけで謝りに駆け寄ってきた子に、気を付けてねと爽やかに応じる姿にぼくは心臓を掴まれる。いつだってぼくが危ない時に傍らにいてくれるのは偶然なの?ぼくの自惚れ?っていうかさっきのボールハンドリングやばくない?片手でばしっと吸い付かせてたじゃん。
「え、ああ、小・中学でやってたんだよねバスケ」
そうなんだ、言ってくれたら良かったのに。ぼく最近、街でストバス参加してて。
「ああ、このあいだの夜の、ろくでもない二人組の」
ろくでもない、こともないけれど、そうだね。ほら、夜は長いから。
「ああいう手合いの人たちと付き合うのは好ましくないけれど、あ、やば、そろそろ出番だ」
今度一緒に夜バスケやろうと誘わせてはくれず、木谷くんはぼくの意識の外側へ。弾かれたように手にあるスマホの感触を思い出し、対岸の水穂へ視線を向けた。
水穂は目が合うとほっとした表情を示して、ディスプレイを見るよう促してきた。
『男前じゃん』
『そうでしょ?男前だよね、顔に似合わず意外と逞しい系っていうのが、堪らないよね。やっぱ花咲いてた』
『は、何言ってんの、自画自賛乙。てか指とか大丈夫なわけ?』
『ぼくはぜんぜん無事。むしろ木谷くんが怪我してないか不安。突き指してないかな?』
『その木谷の心配をしてんだ、あたしゃ』
『ええ、水穂も木谷くんの魅力感じちゃった?でもだめ。それを知っていいのはぼくだけなんだから』
『割とあんたが逞しいってことは周知の事実だけどね。そこドヤられても、っては思うけどまあ、大丈夫そうで安心した』
『木谷くんのこと、知れば知るほど、もっと知りたくなる。奥深いね、恋って』
『お、なんだ、自分探しの旅でも行く気か』
『恋って盲目って聞いてたけど、それはそう。だって常に目の前に現れるんだもんね』
『本当に大丈夫か、やっぱ頭ぶつけたんじゃないの、めぐる?』
『水穂にああいう風に言っちゃったからさ、もうメチャクチャ意識しちゃって、このあいだも夜会った時なんてうまく言葉にできなくてさ、あ、今もびっくりしすぎて言葉にならなかったの、ちょっとウケるよね。たはー、やっぱ少女漫画のモノローグみたいにほわんとした効果と共に〈言葉にならない……〉とかなるの本当だったんだ、って』
『ンかみ合わん!(emoji:だみ声)』
自室の木造の扉を慎重に開ける。くあ、と生欠伸が出る朝。およそ寝起きとは思えないほどの眠気を噛み殺しながら、ゆっくりとドアを動かし割れた陶器の破片をずらしていく。昨日はまた特に酷かったみたいだ。寝ぐせを掻きながらステンレス製のマグカップやテレビのリモコンを避けて足を運ぶ。自室前に飛び散った破片が生足に刺さらないように、つま先立ちで跳ねるように一歩、また一歩、と台所へ向かう。細い廊下を挟んで引き戸でつながっているため、首だけひょっこり出してシンク辺りの様子を伺った。
それがいけなかった。
「きあああああああああああああああああァァァァァァァァァ!」
野生動物のような、壊れたエアコンファンのような、地を這い空を舞う黒光りの昆虫類の羽音にも似た金切り声を上げた人影が、問答無用にこちらへ突進してきた。視線を動かし、状況を見て取るので精一杯。その手には鋭利な刃物が握られている。咄嗟に腕の軌道をずらし防御姿勢をとる必要がある。反応しろ。
「いつもいつもいつもォォ! 私の意のまま動かないィィ! 昨日はァ! どこへ逃げたァ、私を置いてェ! いつもいつもいつもォォ!」
廊下に押し出され、背中を戸棚で打ち付けるも、振り下ろされた凶刃はその手首を引っ掴むことで防ぐことができた。興奮を抑えきれずに尚も握力を振り解こうともがく人影にまずは呼びかける。
「母さん、ぼくだよ! わかる? 恵琉だよ!」
切っ先が眼前で震えている。恐怖心や悲壮感を何とか喉の奥で押し殺し、なるべく普段通りの声色で呼びかける。母さん、大丈夫だよ。ぼくはここにいるよ。どこにも行かない。
昨夜仕事から戻ってメイクを落としていなかったのだろうか、涙や汗で目尻の大きな皺から、額の縞模様がくっきりと露出しきっている。しばらく手入れできていない長い髪をまた掻きむしってしまったようで、ぼさぼさに散らばってその表情を覆い隠しているけれどきっと泣きはらした鬼の形相をしているだろうことは想像に難くない。
「めぐるゥゥ……、ふゥ……ふゥ、めぐる、どっちのォ……?」と興奮状態は抑えられないまでも、うわ言のようにぼくの名を繰り返しはじめた。もう少し落ち着けば、刃物を取り上げられるかもしれない。呼びかけを続けた。
母さんは、夜中にちょっとだけ気がふれる。
東京から列島の西の端にまで引っ越してきてしばらくは自分たちの生活に必死だった。母さんも徐々に環境に慣れてきて、ようやく落ち着ける気がしていたのに。これまでもたまに思い出したように東京での苦痛に苛まれることはあった。最近その頻度は増え、夜が来るたびに物や人にあたるようになっていた。
これじゃ、ようやく出来た彼氏にも愛想つかされちゃうんじゃないか、ぼくは危惧している。
「おはよう、母さん。ぼくだよ、昨日はちゃんとご飯食べた?」
母さんは興奮した夜明けには、ちょっとぼくのことが分からなくなることがあるらしい。目を細めて怪訝な表情でぼくの顔をねめつけると、少しだけ安堵した様子で、肩から息を吐き出した。だんだんと弱視になっているのだろうか、実の息子のことが見えなくなるなんて、とてつもない苦痛を感じてるんじゃないかなと、心配になる。
「根を詰めて働きすぎじゃない? やっぱりぼくも学校を出て働こうか?」
握力が緩んだ隙に刃物を取り上げた。顔を寄せて笑いかけると、やっとぼくをぼくだと認識してくれたようで、「持つべきものは……息子ね……」と消え入りそうな声で、力なく呟く。母さんは言ってから、堰を切ったように涙をこぼし始め、嗚咽の中で、大丈夫よと返してくれた。
働かなくていい。いま社会に出て、短絡的な稼ぎ方をしてしまうと、生涯月収はそこで天井を迎えてしまう。きちんと学校を卒業しなさい。堂々とキャリアを積んでいくの。そこまでの費用は、お母さん、がんばるから。
あなたの成長だけがいまの私を支えているの。そういった気持ちを一生懸命に伝えてくれる。耳にタコができるほど聞いた言葉だけれど、素直にうなずく。ただぼくは、いまこの瞬間に苦しんでいる母さんを何とか救ってあげたくて仕方がないだけなのだけど。
想いを吐き出しすぎて、その声が次第に掠れていくのを止められなかった。少しばかり逡巡しているうちに、また母さんが頭を掻きむしり目を吊り上げた。
「どうして……あなたなの……お兄ちゃんじゃなくて……どうして……あの人を呼んで、あの人はどこ……!」
あの人を呼んで!今すぐにここに呼び出して!と、自分ひとりで負った荷が膨れ上がっていったんだと思う。取り上げた刃物に手をかけようともがく。母さんの元から去っていった、ぼくにとってはかつて父だった人のことを、その瞳が今また母さんの脳裏に去来しているのだとわかる。
もういないんだよ、あの人は。母さん、聞いて。最愛の兄も、もういない。ここにはぼくと、母さんしかいないんだよ。と、何度も何度も、呼びかける。母さんの心を苛む苦痛を消し去ろうと、何とかぼくが支えたいと、呼びかける。
やがて置時計が午前七時を伝えた。機械的な時報が耳に届き、母さんは突然、糸が切れた人形のように腕をだらりと下ろし、瞳孔が宙を彷徨い、「仕事行かなきゃ」と唇が動いたと思えば、途端に身支度を始め、生ごみをまとめ、パリッとしたスーツ姿に身を包み、玄関を出ていった。
ぼくはその場にへたり込み、しばらく立ち上がることがままならなかった。学校へは遅刻かな、これは。
「これはぼくが、とある人を好きになったって話なんだ。聞いてくれる?」
「あ? ああ、おお。なんだ藪から棒に」
どうせ遅刻なら堂々と昼休憩から教室に溶け込んでやれと、重役出勤してきたものの、ものの見事に校門をくぐり抜ける姿を担任教師に見つかり、もはや次の授業まで一〇分という寸での刻まで説教され、慌てて教室に入りパンを頬張っているぼくに、さっそくカミガミが話しかけてきた。だからその減らず口をふさぐようにカウンターパンチを繰り出す。パンだけに。
うん、話は聞くよ聞くけども、つまりそれは俺の、どうしたんだめぐる遅刻してくるなんて珍しいじゃないか、生理か?という、デリカシーのない問いかけを違う話題にすり替えるということかな。とでも言いたげなカミガミの鼻先を押さえるようにぴしゃりと言い放つ。
「それはある日の放課後。彼女を見かけたときのこと」
「わざと突っ込んだ聞き方したのになあ、小話始まっちゃったよ。授業までに終わるの、これ?」
終わる。
ていうか、彼女?と小首を傾げるカミガミをよそに、いまでも有り有りと蘇る茜さす神々しさを讃えた恋すべき君の、はちゃめちゃな美しさを言い聞かせんとする。
それは、まだ夏の香り残る初秋の候。運動場からは野球部が白球を追う金属音が、旧校舎からは吹奏楽部がコンクール課題曲を合奏する音色が、開け放たれた廊下の窓から耳に届くそんな放課後。教室の中で談笑する輪の中に彼女はいた。徐々に陽が短くなっていき、その横顔を暖色に照らすと、弾ける彼女の笑顔はその場にいる誰よりも輝いて見えた。
自分も談話する暇に見惚れてしまい、友人らの声で我に返る。手元を覗き込むと皆でスマホを突き合わせゲームに興じているらしかった。男女共に分け隔てなく交友しているのだろう、彼女を取り囲む一円に性別の偏りはない。
スマホケースは手帳型で左開きにしたままディスプレイに目を落としている。開き口に視線を流すときらりと光る小さな手鏡が挟んである。そこから窺える彼女の容姿は観音の如し。まじめな顔も、怒った顔も、笑った顔も、悲しむ顔も、ゲームの展開に一喜一憂しながらころころと表情を変える様を見ていて飽きない。
表情が変わるたびに揺れるショートボブを、片側の耳にかける仕草にハートをワンヒット。力強い瞳と、キリっと上向きのまゆ毛は、少女のあどけなさを見事に中和している。大空の青さを湛えた眼球は、窓の方へ目線を送った際に夕陽との対比を映し出し、ぼくの心臓をツーヒット。口は割と横に広く、大口を開けて笑うものだから、整った顔がくしゃくしゃになる。けれどぼくはスリーヒット、その彼女の笑顔が最高に美しいと思える。ワンブレイク。ハートビートダウン。
ぼくは彼女を知っている。
ずっと前から知っていた。
ゆっくりと、でも確実にその子のことを好きなっていった。
周りの友人たちが呼びかける。めぐる――。こたに――。木谷恵琉。と、その名を。
ぼくにとって木谷恵琉はひと時の清涼剤。鼻から抜けるミントの香り。今日みたく、くさくさした心の荒みを鎮めてくれる。
「ちょちょちょちょ、ちょい待て、待って待って。めぐる? え、いまなんて言った?」
カミガミが余計なクチを挟む。なによ、いまいい所なのに。
「めぐる? こたに、めぐるって言った、いま? いや聞き違いかな、俺の気のせいだよな、きっと」
聞き違いじゃないが。確かにぼくはそう言った。
立ち上がったカミガミが腰を抜かしたように、椅子に着陸した。それに呼応するように背後で椅子が倒れる音が響く。振り返ると肩を震わせた女生徒。たしか別のクラスだったと思うが、名前は秋河水穂と言ったか。
「神上、聞き違いよねそうよね。……なに気持ち悪い冗談言ってんの、めぐる」
それ、マジで言ってる?と問い詰めるような声色で、こちらに顔を寄せてきた。
気持ちの悪い冗談?何と無礼な言い草なんだ。
ぼくはおくびもなく指さして断言した。ぼくは木谷恵琉に恋している。指の先はしっかりと彼女を指している。自分の顔を指している。何か問題でも?
いつしか昼休憩の喧噪も静まり返り、教室にいた全員がぼくたちの方へ注目していた。ほら授業始めるぞ、自分のクラスに戻れよ。と教師が入ってくるまで、全員の視線はぼくのことを人ならざる者、常識からかい離した異質な存在、まるで級友に向けているとは思えないほど冷遇的だった。
昼寝をして起きたら、ぼくに、おっぱいが生えた。
その、あまりの衝撃的な事実に、ああ、夢かと、一度は脳を壁に打ち付けて気を失ってしまおうかとも思ったが、はたと思い直す。ちょっと待て、こんなラッキースケベ夢でもそうそう出くわすもんじゃない。せっかくなら骨の髄まで楽しみ尽くしてから、意識を浮上させることにしよう。
そう意気込んで姿見を覗き込んだら目の前に木谷恵琉その人がいた。ひえ、すみませんすみません邪なことを考えてしまいすみません。ぼくもひとりの男子高校生なんです。と、飛びずさって顔を覆うと、姿見の中の木谷恵琉も同じような体勢で怯えていた。
おや、と思う。
姿見に向かって右へ左へ顔を動かしたり、手足を合わせてヨガしてみたり、恐る恐る胸に手を当ててみたり。うっ、鼻血が垂れそうになるのを必死にこらえている姿も、ぼくの動きをトレースしているようにしか見えない。こ、これは、これはもしかして、あの、伝説の、映画とかでしか見たことのない、まさか、まさかのぼくたち、入れ替わってる!ってやつなのではッ!?
あの昼休憩での出来事。教室内の視線に耐え切れず、次の授業が始まってすぐに飛び出してしまったぼくは、一目散に駅前の漫画喫茶へと身を隠していた。個室で小一時間寝ていたようで、眠気まなこに手洗いへ向かったぼくはひとり、シャワー室前で右往左往、悶えていた。さぞや傍から見ると妙な光景だったろう。平日の昼間から制服姿の高校生が漫喫の姿見でのたうち回っているのだから。
そこまで意識が回るようになってきて、やばい、夢なんかじゃなかったと再び思い直すと、一足飛びに個室へ駆け込み、後ろ手で仕切りを閉めた。
息が荒くなりながら、ひとつの仮説を立てる。「「ぼくたちの恋焦がれる思いが強まりすぎて、ぼくはぼくになってしまったというのか!」」
スマホを開いてもう一度顔を確認する。間違いない。視界の端で花が咲き乱れている。間違いなく彼だ。
チェック柄の学校指定のスラックスを大きめサイズにだぶっと履いて、インナーにナイキのパーカーを着込んでいる。女性と見紛うその容姿でありながら、上腕筋や腹筋の盛り上がりを感じる。
か、カッコイイ……!
落ち着け落ち着け、もう一度。もう一度、鏡に自分を映す。いや間違いない。あの日の茜色の神々しき美しさ。間違いなく彼女だ。
学校指定のブレザーを羽織るも、袖丈は短めでインナーをのぞかせる。フードを出している姿は肩肘張らない自然体の、馴染みやすさを感じさせる。そして何より呼吸に合わせて上下するその胸の膨らみに、大いなる母性を享受したくなる。
か、カワイイ……!
い、いけない。ぼくに見惚れてしまう。顔が紅潮しているのが、鏡を見ずとも分かった。ぼくがぼくだなんてそんなこと、ある!?
ああ、しんどい。
胸が締め付けられるように熱く、それでいて長年刺さっていた楔が解けていくかのような想いに駆られる。
仮説は確信に変わりつつある。
「「あの……」」と鏡に呼びかけてみると、ぼくの声は、耳元で変換され彼の、彼女の声で再生される。はわわわわ、どうしよう。あごを抱え、首を抱え、脳天を抱えた。木谷恵琉を目の前にして、ぼくのCPUはすっかりと二〇年物のポンコツコンピューターに成り下がっていた。個室をどたんばたん、しきりにうろうろ、クッションに声にならない声を吐き出す。さぞや隣りの利用客は迷惑がっているだろう。
はっ!と、ぼくの脳裏に稲妻走る。
そうだ。こんな時だ。こんな機会めったにないぞ。思いついたことがひとつある。いけ、めぐる。言ったれ、めぐる!
あの、ええと、ぼく……ぼくはですね、実は……。
「「ぼくに、恋をしているんだ」」
鏡に向かって、思いのたけをぶつけていた。
言ったものの自分の行動に恥ずかしさがこみ上げてきて、なおも芋虫のように悶えまくったが、ここは漫画喫茶。デスクトップパソコンの起動音だけがじーっと、物言わずぼくを見ていた。画面には、よく遊ぶオンラインゲームのアバター、男女の特徴を有したユニセックスキャラが、こちらに笑いかけていた。
了




