P.008 まりあ様の光と影
〈南原篤哉はまりあ様に悶絶する〉
「助動詞、いやいきなり読解でも......」
俺は今、人生最高の熱量で自分の机に張り付いているような気がする。そのきっかけは数時間前まで遡る。
※
「うん、俳句短歌はこれで良いかと思うな。」
「私も南原君と同感だ。これで提出してみよう!」
「あ、ありがとうございますっ!」
文芸部オフィスにて、俺と部長とで石川さんの作品をチェックしていたのであった。俺ほどの素人が評価するのもおかしな話ではあるが、短期間であれほどに良い作品を仕上げてしまうことに尊敬すら覚えてしまった。
そして何より......あの健気さを思わせる笑顔が俺の心にどストレートに響いた!シンプルにかわええ!あぁ、文芸部員としてあるまじき著しい語彙力の低下を引き起こしていた......
「それじゃああとは散文だね。ラストスパート頑張ろう石川くん。」
「はい!なるべくすぐに持ってきますねっ。」
いやもう、小柄で健気とか優勝せざるを得ないのだが?......そう思った俺は自分自身が世に言う限界オタク、あるいは娘を溺愛する父親のようであると感じた。キモいキショいキツいの3K揃い踏みであった。石川さんに俺の持つ3Kを見せないようにするのもまた、困難を極めた。
そして今日のタスクも終わり、解散しようとなったその時、石川さんがある提案をしてきたのであった。
「ねぇねぇ......南原君?」
尋ねる声色すらかわいかった。
「どうした?石川さん。」
「南原君って、古典得意なんだよね?」
「えっ。ま、まぁ国語は並大抵の人よりかはできる自信あるけれども、どうして?」
「その......私、国語でも現代文の方はそれなりにできるんだけど、古典がどうも苦手なんだよね。だから、南原君に古典のコツ?みたいなものを教えてもらいたいなぁ、なんて。いいかな?」
「なるほど。そういうことなら大丈夫、やろう。」
あくまで外界には冷静さを保っていた俺であったが......心境はもはや、パーリィナイト!だ!天使様から頼られることがあるというのはこんなにも誉れを感じることかと、ただただ身に沁みていた......!
俺が恍惚としていると、石川さんがスケジュール合わせを始めていた。意識が軽く飛ぶのはさすがいかん。
「都合の悪い日とかはあるかな?」
「いや、俺は基本的に毎日フリーだから特にそういうのは。」
「ほんと?それじゃあそれじゃあ、早速明日の学校終わりとか......」
「あぁ、大丈夫空いてる。」
「ほんと?ありがとうっ。じゃあね......」
俺が半ば地に足がついていないような心地で石川さんに応えていると、徐ろに何かを書き記し始めたのであった。書き終わるとその紙は俺に手渡されたのだが......
「そこが私の家なんだ。明日学校終わったらそこ来てね!」
「あ、あぁ、了解。」
浮遊感から一気に現実に引き戻される感覚に襲われた。自宅に男をあげるというのはいかがなものか......ということを考えたからだ。無論、俺には石川さんにやましいことをしようなどとという意思は微塵も無いのだが......女の子の家に上がり込むということに、つい変な意識をしてしまった。
一方の石川さんは変わらずの調子であった。先輩たちを美化して見ているあたりも含め、実は天然なのか?と思ってしまった。
「フッ......」
「どうしたんですか星谷先輩?」
「いやなんでもないさ......南原君と勉強、がんばってくるんだね。フフッ......」
「笑いを堪えられてないんですって。」
オフィスのちょっとした環境整備を行なっていた部長が突如噴き出した。多分俺と同じ問題意識を抱いたからだとは思う。笑うくらいなら石川さんに指摘してほしいとは思ったものの、それはそれで気恥ずかしいことになることが予想されるため、考えることを止めた。
アイコンタクトで意思疎通を図っていた俺と部長を尻目に、石川さんはクエスチョンを頭上に浮かべているような表情だった。石川さんどうか気づいてくれという感情と、将来悪い男に騙されたりなどしないだろうかという懸念が俺の心を交差するのであった。
「それじゃあ石川さん、また明日ということで......」
「あっ、南原君。」
「ん?」
「南原君、ずっとさん付けで呼んでくれるけど、その......まりあ、って呼んでもらえたら嬉しいなぁ、って。光ちゃんみたいに。」
「ほ、ほう......」
俺は相変わらず平静を保......とうとしたのだが、その出来事が青天の霹靂であったため我慢ならず口が緩んでしまった。その物語の中のような、いかにもな萌えイベントを目の前にして、少しだけ石川さんが恥じらうのを目にして......俺の精神状態は溶けて水になった氷だった。
「まぁ、明日ちゃんと分かるようにやろうな、まりあ。」
「うん!篤哉くん!」
自然な雰囲気で名前呼びにして気恥ずかしさを緩和しようとしたものの、さりげなく俺も名前呼びをされてしまったことでもはや照れは不可避だった。こんなにも胸が甘い感覚でいっぱいになるものなのか......ある意味辛いわ。
そして部長の動きがないことに気づいてオフィスを見回してみると、部長はなにか悟りを開いた顔つき、言うなればアルカイック・スマイルを顔に浮かべで静止していた。この人は......と思うと照れがあっという間に引く感じがした。
「さてやることやったし、帰るとするかね。」
「星谷先輩はどうしたのかな?」
「さぁね......とりあえず放っておいても大丈夫だろう。」
部長がツッコミ待ちをしているような気がして、まりあとともにオフィスを去った。なんだコイツと、正直なところ思った。
※
そして帰宅して、今に至る。『ちゃんと分かるように』などと言った手前、抜かりない準備をしている。ひとくちに古典が苦手とは言っても、単語の意味が覚えられないのか解釈ができないのかはたまたそれ以外のことなのか、いろいろな要因が考えられる。その点を帰る前にまりあに確認すればよかったのだが、あまりにも互いの名前呼びで気分が高まったことでそういう考えが頭から消えていた。そういうわけでどんな苦手の段階であってもいいようにと、念入りにプランニングする。
「アツー、エマお風呂出たから早く入ってよー。」
「ノックしろっての。了解。」
いつもならもう少し乗り気で妹の呼びかけにも応えるところだが、余裕がなくそっけない対応となってしまう。
教員生活とはこういうものなのだろうかーそんなことを思いながら夜は深まっていく。
〈南原篤哉はまりあ様を再発見する〉
昨日の約束からほぼ丸1日。授業などすべて終わったためまりあから受け取った指示書の通りに家へ向かうことに。
「あれ篤哉、なんでそっち?」
「おぉ光か......」
なんとなく人目を気にしながら自転車を取り出して歩み出したところ、運悪く光に見つかってしまった。しかも俺含め幼なじみ衆が使っている門とは逆方向ーまりあ宅に近い方の門に向かっていたため、少々めんどくさいことになりそうだ。
「あぁ、ちょっと買い物があってな。ほら、あっちの方に有名なケーキの店があるだろ?そのケーキを荏舞が食べたいらしいから、買っていこうとな。」
俺が必要以上にやましさを感じているだけで、何も変なことはないのだから光にアレコレ隠す必要は無いのかもしれない。ただ......光は何かと気にしすぎな人間である。ここで正直に伝えると悪どく説教をされそうなのだ。時間を浪費してもなるものであるため、どうにかこうにか光をやり過ごす。
「それじゃ、気をつけて帰れよ。」
「え、えぇ。」
強引ではあるが、早々に切り上げることができた。戸惑う光を背にして、俺は自転車を走らせた。
数分後、『石川』と表札のついた一軒家に到着。徒歩でも学校からたどり着くのに10分はかからなそうな距離だった。それでいて路地裏の家であるため、他の生徒には目がつかない。今の俺にとってそれはとても都合が良いものである。
自転車から降りて呼び鈴を鳴らすと、驚くほどの早さでまりあが扉を開けた。
「いらっしゃい、自転車はその辺りに停めておいてね〜」
「オーケー。」
こんな一場面、弥や光の家に遊びに行った小学生の頃を思い出す。行き当たりばったりで予定を立てて放課後遊びに行く。それが小学生の遊びというものだった。今回もシチュエーションこそそれに瓜二つだが......大天使のまりあが出迎えてくれるということは他の何にも例え難い!
「上がって上がって。」
手招かれ敷居を跨ぐと......石川まりあは、桜ヶ丘高校の生徒とはまた違う人物のように思われた。制服に袖を通したままではあるのだが、なんというか......家庭に身を置かれることでいつも纏っている外の世界用の概念的な身ぐるみを何枚か脱衣しているからとでも言うべきか。
こうなると異性の自宅に上がり込むことへ変に意識をしてしまうのも無理はないのかもしれない。決して俺は行動を起こしたりなどしないが......先導しているまりあの背中ですら、愛おしく思えてしまう。あぁ、3Kの極致だ。
「そういえば誰もいないようだけどひとりなのかい?」
「そうだね、共働きで6時頃までお母さんは帰ってこないから。」
なんで他の家族の不在を確かめてしまったのだろう。やましいことなど、何度も確認するがないのに。気分が完全に高まってしまっている。
そして、やがて導かれたのは2階の一室。まりあが扉を開け放つとそこには......
「あんまり片付いてないけど、ごめんね。」
「いやいや、めちゃくちゃ整ってていい感じだよ。」
変に甘すぎず、変に乱れていない空間があった。適度に生活感が感じられながらも、キレイにまとまった部屋である。一般的な高校生の女子の自室とはこのようなものなのかと、新たな発見をした気分である。さっきここへ来る前に会話した某本荘さんの部屋は、俺の記憶を辿ればこんな部屋ではなかったはずである。......これを口に出さなくて良かった。口に出せばまりあから情報が漏れて後々挽き肉にされてハンバーグやつみれに応用されるところだった。
「そうかな?ありがとっ。へへっ......」
へへっ、という少し乱れたような笑いも、少なくとも部活では見せていないものだろう。こんなまりあの一面を見られるというのは......貴重な芸術作品をお目にかけることができたのと同じことであるとさえ思える。それほど尊いことなのだ。
「じゃあ、はじめよっか!」
「あぁ、だな。」
まりあの号令でハッキリと思い出したが、あくまでここに来た目的はまりあの家庭教師をすることである。あくまで大天使としてのまりあを尊ぶことではない......まぁ結果的に、ということにはなるだろうが。
そこから古典のアレコレー文法、単語、解釈、和歌、常識、句法ーを一通りさらったわけだが......褒めることしかなかった。
「すごっ!この識別できるのなかなかイケてるな!」
「ここの解釈もいい感じ!こんなふうに読み取れるのはセンスあるし練習すれば伸びるぞ!」
「この掛詞見抜けるのか......マジすげぇよ!まりあ!」
などなど、2時間近く家庭教師をしていたが6割以上は俺の褒める時間だった。そして、途中数学の話になったのだが、こちらに関しては俺よりもすごい能を持っていた。教えられっぱなしであった。
「こういう感じで、必要十分条件を考えるときはpとqの間で『重・要』がどうなるか見るとわかりやすいし忘れにくいと思うよ。」
「おぉ......なるほどな。いやぁまりあすごいな!国語なら俺でも張り合えるかもしれないが、数学は本当に弟子入りしたい程だよ!ありがとう!」
それでもなお、まりあを褒めに褒める時間であった。ただただまりあの気分を高めた。
そんな調子でまりあを褒める片手間で互いに弱点領域について教え合うことをしているとー
「.......さて、終わりましたと。いやぁこんなに数学の課題がパパッと今まで進むなんてなかったわ!まりあ、ありが......」
感謝を伝えようとしたが、正面に座るまりあは首を曲げて下を見つめるようだった。うたた寝だろうかと、再び声をかける。
「おーい?まりあさん?」
「ねぇ、篤哉くん。」
「は、はい?」
やっと答えくれたかと思うと、その声はいつものかわいらしい声とは違う、ドスのきいたものである。なにかまりあの癇に触ることをしてしまったのだろうかと、動揺が止まらない。
「私、こんなに褒めてもらえるなんて思ってなかったから、すごく嬉しい。」
「そりゃあ、想像以上に力があるし、逆に教えてもらったりしたわけだから当然だろう?」
「でもね......快楽、喜び......そのあとには苦痛、罰があるものでしょう............?」
「えっ、いや、は?」
何を、言ってるんだ?
意図せず漏れたのは、困った時に口をついて出る言葉の殿堂である。癇に触ったわけではないようだが......今起きている事態のほうがずっと俺を動揺させている。本当にあの大天使まりあの発言なのかと、自分自身が信じられない。
訳の分からないセリフを吐いたその次、まりあは立ち上がって、ゆっくり、こちらにやって来る。
「ど、どうしたんだよ?」
その問いかけに答えることなく、まりあは俺のもとに正座する。その雰囲気たるや、もはや狂気である。そして続く言葉で、俺の先程までの夢心地は、暗黒へと変貌を遂げる。
「あんなに喜びをくれた篤哉くんは、どれだけ痛みをくれるのかな?」
さらなる狂気を体感して、単純に、逃げたい。そう思った。けれども、そこで逃げるのは無責任なようにも思えた。
「いや、別に俺は心からまりあがすごいと思ったからたくさん褒めたのであって」
「え、篤哉くんは私に、痛みをくれないの?ねぇ、なんでなの?ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ」
「ちょっ......」
まりあの性癖、いや深層の心理状態は重く曲がっている。疑いようもなく今の状況がそれを真であると示している。心の奥にある重度のマゾヒスト、メンヘラ気質を俺が発掘してしまったということか......そのようなことを考えている間にもまりあの攻勢が強くなっていく......!いつかの星谷部長のように身を俺の方に乗り出してくるが、勢いが違いすぎる!
「や、やめてくれぇ!」
耐えきれず、俺はまりあを突き飛ばしてしまった。もろに身体を地面に打ちつけてしまい、鈍い音が出た。やってしまった。
「ま、まりあ、ごめん!大丈夫か!?」
「んん......」
意識はしっかりあるようだった。取り返しのつかないことにならないようで良かった......
「あれ、篤哉くん、なんで私こんなことに?」
どうやら、元のまりあの人格が舞い戻ってきたらしい。所謂二重人格というやつなのだろうか。そうなるとだいぶ厄介だ。
「それと......起き上がりたいからどいてもらっても......」
「え、あっ。」
そして俺は、今気づいてしまった......仰向けのまりあに覆い被さるように膝をついていることに。これは......誰かに見られたら勘違い必至だ。
「まりあー、誰かいる......」
俺はとりあえず、今日に限ってはツイていないらしい。タイミングの悪さがそれを示す。18時頃母上帰宅とは聞いていたが、ちょうどその時間に当たったようだ......
「あらぁ......ごめんなさいねぇ〜」
まりあの母上と思われる人物は、この光景を目の当たりにして半分逃げるように扉をそっと閉じた。
「ちょっとお待ちください?!」
静止の呼びかけが遅すぎたぁ!というか予感通り勘違いされてるやつぅ!さらに言えば娘の危機的状況にそんな反応なのかよ!
覆い被さっていた俺の身体も、激しく動揺して気づけばまりあから離れていた。
「あまり記憶が無いんだけど......なんかごめんね......?」
元に戻ったまりあはやはりかわいいのだけれども!さっきの変貌といい俺の粗相といい母上による勘違いといいすごく気まずい!ただただ逃げたい......
荷物をまとめて、母上の勘違いも一応解いて、その後家を去った訳だが......明日からまたいつも通りにまりあと関わることができるのだろうかと思うと、俺の精神状態は完全にボロボロに崩れた............
二次試験前の受験生の執筆シリーズ第3弾でございます。
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