P.017 楠見風芽と椛島咲柚という逸材
〈所謂名前呼びイベントというやつ〉
燦々と煌めく真夏の青空の下、俺は無心で海水の中を泳ぎ進んでいた。その姿はさながら泳ぎ止めることを許されないマグロのようであることだろう。
リア充の巣窟、自由に泳がせてもらえない、後始末が面倒。こんな御託を並べて並べて海や水泳を毛嫌いしていたものの、やはり気ままに泳ぐその瞬間はなんとも気分が晴れやかになる。後始末をしなければならない現実は変わらないが、どうでもよい。高度なスイミングスキルはなくとも、ただひたすらに水を掻いていれば今は良い。ビーチバレーで命の危機を感じたこともあったが、今は関係ない。正直、今日来てよかったとさえ思える。
ひとしきり泳いだところで、水分と塩分を補給するためにマグロの状態から人間に戻る。先輩たちから『疲れる前に休憩』ということをキツく仕込まれたからである。文芸部の健康意識は高いようで感心だと、部を高次の視点からつい見てしまう。
突き刺すような熱さを帯びた砂浜を踏み固めながらパラソルへ戻ると、2人の先輩はペットボトルから紙コップに水を注いでいた。
「ペットボトルそのままでもいいんじゃないんですか?」
「直接ボトルに口をつけるより、紙コップに移した方が衛生的に良いだろう。」
「それは、まぁ......」
本当は『わざわざ手間をかけなくても大丈夫です』ということを言いたかったのだが、至極真っ当な論理で言い包められてしまう。健康意識の高さに少し戸惑ってしまうところもあるが、そんなことは意にも介さず先輩たちはテキパキと用意を進める。
寄る辺ない俺は、シート上にあぐらをかく。先輩たちは妻で、俺は亭主関白のような、そんな構図にも見えてくることだろう。実際の力関係は全くもって逆のはずではあるのだが。
「篤哉くんどうぞ〜」
「ありがとうございま......」
肩を軽く叩かれたのに反応すると、楠見先輩が紙コップを差し出していた。渡されたものはなんてことない、ただの真水なのだが......振り返った先の楠見先輩は少し前屈みで、嫌でも深い深い谷間を見せつけられてしまう。
「あの先輩、姿勢は良くなさって......」
「どうして〜?」
「下賤の民め......」
あくまでも楠見先輩は無意識のうち、らしい。俺の狼狽えの真意にも全く気づかない。
しかし椛島先輩の方はビーチバレーの時と同様、すぐさま察したようである。険しい表情で放つ『下賤の民め......』は、椛島先輩の持つ俺への侮蔑の心を事細かに表している...... あくまでも不可抗力であることを、言い訳だとしても椛島先輩に伝えたいところである。ただ、伝えたところでニワトリのように締められるのは目に見えているからやらないが。
2人から目を逸らして、水を一気に喉の奥へ流し込む。海の方を向けば、2人は背後に回ることになるからひとまず安心である。
「南原、これも食え。」
「どうも。」
飲み終わったところを見計らってか、椛島先輩は塩分補給代わりの菓子を渡してきた。サディストは果たして何を渡してくるかと不安にも駆られたが、普通のサラダせんべいだった。さすがの先輩でも、口にするものまで俺を苦しめるものにしないということか。
「いただきまふ......」
つぶやきと同時にかぶりつくと、尋常ではない違和感、というか刺激が口元を襲った。これは......
「かっっっっっら!?」
激辛菓子である。
「フハハハハハハハハハ!いい顔だ南原ぁ!まんまと引っかかりよる!なんて快感だぁ!」
「咲柚ちゃんあんまりいじめちゃダメよ〜。はいお水おかわり〜」
俺は辛いものが苦手だ。確かにそうなのだが先輩たちにはそのことを言っていないはず。なのに罠にハマったということは、先輩が野生の勘で俺の苦手を炙り出したということか。そういうことならば、椛島先輩は対象の相手に死ぬか後遺症が残らない限りは、なんとしてでも人の悶える姿を見たいというのか。その悦楽に歪んだ表情がもはや俺には狂気にしか見えない。
一方で楠見先輩は、変わらずの聖母っぷりだ。体つきこそ世に言うサキュバスのそれなのだが、すかさず追加の水を差し出すなど、今だけは楠見先輩を崇め奉りたくなる心境である。目は逸らしたまま受け取るが。
「ふぅ......全く、後輩には優しくしてくださいよ。」
口の中の刺激が落ち着いたところで、背後の先輩に愚痴を投げる。
「甘いな南原、生物はストレスに晒されるほど深みが増していく。野菜だって雪の下で保存するとうまみや甘みが増すだろう?」
「咲柚ちゃん、ロジックがめちゃくちゃだよ〜」
「人間がストレスだけ感じても雑味が蓄積されるだけなんですって......」
さすがの楠見先輩もこれに関しては話が分かる人でよかったと、心から思う。こんなとんでも論理を武器に好き放題サディズムを振り回されたんじゃ身体も保たない。楠見先輩という、椛島先輩の相棒かつ制止役がいて、なんとも頼もしい。
「でもそうだなぁ。私も篤哉くんに言いたいことはあるな〜」
「え......なんです、っ?」
今度は楠見先輩からもめちゃくちゃな論理を投げつけられるのだろうかと覚悟を決めようとしたところ、降りかかったのはめちゃくちゃなロジックなどではなく–楠見先輩の正面への急襲だった。
この期に及ぶともはや先輩の見た目に狼狽えるというような精神は薄れてきた。ただし今に限っては、普段細く目を開いている先輩がほんの少し目を大きく開いては輝かせているため、また別の意味で困る。なぜそんなに幼児のような澄んだ瞳ができるのか。
「篤哉くんそろそろ先輩呼びやめようよ〜」
「はい?」
結局、訳の分からない論は飛んできた。
「いやそろそろもなにも、先輩たちは俺よりも学年が上の紛れもなく先輩なんですから、やめるとか無いでしょう。」
「えぇ〜、いいじゃな〜い!光ちゃんやまりあちゃんには名前呼びなのに〜」
「だからそれは2人が俺の同期だからそうなのであってですね......というか近いですって!」
俺は確信した。楠見先輩の論理、椛島先輩以上にぶっ壊れていると。
目の前の楠見先輩が俺に物理的に迫ってゴリ押しでねじ伏せつつあるという事実を抜きにして冷静に考えてみれば、おそらく俺は今、所謂名前呼びイベントというやつに参加させられているのだろう。
先輩じゃなくて、名前で呼んで–フィクションの世界だったら大いにときめくことだろう。しかし、ここは現実世界。俺がただ今置かれている状況も相まって全くときめかない。そもそもあまりにも突然のことで脈略が掴めない。
「まぁ落ち着け南原。上下の隔たりをできるだけ無くすための名前呼びだ。本来なら海で遊ぶうちに打ち解けていくんだが、お前がなかなかに強情なものだから、風芽も慌てたんだろう。」
さっきまでとはまるで形勢が逆転してしまった。
「強情って、普通に呼吸して海満喫してるだけなのですがそれは......」
「やっぱり......篤哉くんは先輩とか後輩の区別気になるのかなぁ?」
「い、いや......」
ぶつくさと俺がぼやいている間に、楠見先輩は上目遣いと子供の甘えるような声という二段構えの攻撃を仕掛けてきた。まりあもそうだったように、この手の女子の仕草に俺はめっぽう弱い。後ろを振り返って椛島先輩にアイコンタクトを送るが、腰に手を当てこちらを見つめるだけで物も言わなくなってしまった。自分でどうにかしやがれ、ということなのか。
仕方あるまいと、腹を括る。
「わかりましたよ風芽さん、これからそうしますよ。」
高校以前は陰に生きてきた人間にとって、これほどまでに先輩という存在と濃密に過ごしたことはなかったというのに、あまつさえ名前呼びを求められるというのは困惑するばかりである。というより、背中が温まる。
ただ、椛島先輩の言葉にも認めるべきところはある。名前呼びで親交が深まるということも、無いということはないだろう。顔が赤らむのを止められないほど気恥ずかしいが、楠見先輩–いや風芽さんの提案に、乗ってみようではないか。
「えへへ......」
これまた風芽さんは、まりあのような喜びの反応を見せる。普段感情の振れ幅が大きくないイメージがあるから、これはこれで新鮮である。
また一歩、俺の歩み寄りが進展したところで背後の椛島先輩に視線を送ってみれば、ご満悦と言わんばかりの表情である。
「こういうことでしょう?椛島先輩。」
「いやなぜだッ!」
「いてぇ!?」
しかし一転、流麗な平手打ちである。こればかりは理不尽、裁判沙汰と言えよう!
「そこは私も名前で呼ばれるはずだろうッ!」
「えぇ......」
「面倒そうな表情をするな!?」
面倒そうというか、煙たがっているような表情だと自分では思う。それは今問題外であるが。
そもそも椛島先輩が名前呼びを欲するとは全く思わず。なんの気なしに先輩呼びをして血相を変えられるとも思いもせず。肩透かしにあったような心地である。
「せんぱ......咲柚さんも名前呼びされたいんですね。」
誤って『先輩』呼びをしそうになると、咲柚さんの目元が分かりやすく吊り上がる。音速で訂正。
「当たり前だろう。私だって部の一員だ。風芽だけ名前呼びで、私だけそうじゃないというのは道理に合わないだろう。」
「そうだぞ〜」
「それは......そうっすね......」
『椛島先輩、もとい咲柚さんを名前呼びしたら加虐性欲を得るための口実になる』、そんな無意識バイアスを突かれたような感じがして、ぐうの音も出ない正論で打ち負かされる。いつだったかめちゃくちゃなロジックを展開していた人物とは全くの別人のようだ。
言い負かされた人間は、手のひらを返して日本流の誠意を見せるのが常套だろう。
「ホント申し訳ございませんでしたぁッ!」
JAPANESE DOGEZAを披露する。正座から手先まで何もかもが整ったやつだ。おまけに肌色成分も多いやつ。部外者が見れば調教現場と勘違いしてもなんら変哲はない。
「篤哉く〜ん、他の人もいるからね〜?咲柚ちゃんも口角あげるのやめようね〜」
かくして、2年生の2人とのある夏の名前呼びイベントはなんとも他人に誤解されそうになりながら終わりを見せたのであった。
〈保母さんとライフセーバーさん〉
夏の昼下がり、気温も最も高くなる頃、俺たちはシートやパラソルを畳んで帰ることにした。ビーチバレーで生命の危機に瀕したり、マグロになったり、名前呼びイベントが発生したり、自ら恥辱を受けようとしたりなど......とても1日の間の情報量ではない。
「篤哉くんはなにかスポーツやってたの〜?」
「中学の時に部活でバスケをやってたくらいですよ。もっとも、真面目にやる気はなかったのでそんなに上手くないですけど。」
「そう謙遜するな南原。今度私とやってみよう。」
「それは......本当に勘弁してください......」
今の移動時間も含めてフリートークでは各人のパーソナリティを探り合った。もっとも、俺は気が引けてそれほど探らなかったが、先輩たちの新たな一面を知るという意味では今日のこの日は有意義であったと言えるのではないだろうか。咲柚さんのスポーツの誘いは、恥を捨ててでもお断りであるが。
情報過多で、さすがに疲労感が俺を襲う。早く着替えたい、早く電車に乗りたい、早く家に着きたい、早く妹で癒されたい。今持っている全ての感情を疲労感が生む。
歩速を速めようとする。が、突然風芽さんが立ち止まって、どこか一点を見つめるようだった。
「どうしたんだ風芽?」
「ん〜、あの子、大丈夫かな〜って。」
彼女の見つめる先には、下を向いて歩く水着姿の女児が1人。元気が無さそう、保護者らしき大人も周りに見当たらない。深く考えずとも、その女児が確実に迷子であることは分かった。
「ちょっと行ってくるね〜」
「えっ、ちょっ?」
そして風芽さんは見つめるだけに止まらず、実際の行動に移した。おそらく迷子の女児を助けるのだろう。あまりにも突然であるから、俺や咲柚さんも反射的に走って風芽さんに付いていった。
「ねぇねぇお嬢さん?」
「へ......?」
風芽さんの語りかけがナンパのようである。
「お父さんお母さんはいるかな〜?ひとりじゃ危ないよ〜?」
「うっ......」
いつにも増して風芽さんの声には優しさが溢れて、なんと言えばよいか......どこかすべてを包み込むような母親の雰囲気がある。体つきや表情はもちろんのこと、声色にも母性が溢れ出ている。
そして、自分に目線を合わせてしゃがみ込み、声をかける風芽さんに対して女児は、堪えていたものがこちらも溢れ出したようだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
「おぉ〜、よしよ〜し。はぐれちゃったんだね〜。大丈夫大丈夫、いっしょに探そ〜。」
柔らかに女児を抱擁するその姿は、まさしく子供の扱いに慣れた母親や保育士のようである。優しさに包まれた女児は見る見るうちに落ち着きを取り戻しつつある。
「そうだ、暑いからお水飲もっか〜」
「でもっ、しらないひとからもらっちゃだめって、ママが......」
「そっか〜、ちゃんとママの言うこと守れてえら〜い!でもお日様の下にずっといると体の中のお水無くなって疲れちゃうから、少しでも飲んでほしいなぁ。」
ひくついている女児は風芽さんの説得に応じて、水の入った紙コップを手に取った。警戒心のある子供ですらも手懐けてしまうというのか。風芽さんの子供に対する態度や言葉選び、全てが感嘆に値するものである。パーフェクトな彼女を前にしては、何も手出しができない。
「すごいですね......この包容力。」
「そうだな、さすがは大家族の長女なだけある。」
「風芽さん、下のきょうだいそんなにいるんですか?」
「あぁ。前に一度、風芽に家に行ったことがあるが、あのカオスはとてもじゃないが私の手には負えない。それを風芽は容易く手中に収めたからな。すごいもんだ。」
他人の家庭を『カオス』と形容するのはいかがなものかという議論はひとまず保留するとして、咲柚さんを脱帽させるほどであるということは、その包容力は大家族の中で培われた本物なのだろう。
聖母・風芽の尽力により、女児は完全に落ち着きを取り戻して水を口に含んでいる。
「さてと、この子を迷子センターに連れていかないとねぇ。」
「あぁ、そうだな。」
「でも2人を夏空の下で待たせるのも悪いし〜、先に着替えてて〜」
「いいんですか?」
「2人がいてもどうにもならないしそもそもあまり大人数で押しかけても迷惑だからね〜。私なら1人で大丈夫だから行っててよ〜」
「めちゃくちゃはっきり言うじゃないですか......」
「実際その通りだから仕方ない。荷物は運んでおくからこっちくれ。」
「咲柚さんも呑み込み早いな......」
にべも無く戦力外通告をされるのはいくらなんでもショックなものである。それが普段は否定しない人で、今も表情や声に優しさがある人ならなおさらである。無論、甘んじて通告と荷物を受け入れる咲柚さんが正しいのは当然ではあるが。
「飲み終わったかな〜?それじゃあママを呼びにいこ〜」
「おー!」
女児は完全に元気を取り戻したようだった。拳を高く突き上げて、半分傍観者となっていた俺をも安心させてくれる。
そして女児は、風芽さんと手を繋いで連れられていく。その遠ざかっていく彼女の後ろ姿は、とても一つ年齢が上の高校生の先輩には見えない。一児の母だ。間違いないね。
「さて、風芽の言う通り先に行くとするか。」
「そうですね......」
風芽さんが去ったのち、俺は咲柚さんと2人きりということになる。また取って食われてしまうかと身を案じていると、またしても厄介事が起こる。
次の発端は女性の叫びだった。
「誰か!子供が!」
その女性に目を向けると、海の方を指さしていた。さらに目を凝らしてみれば–そこには、今にも溺れかけている男児の姿がある。おそらくだが、波に流されてしまったのだろう。距離からすれば、男児は大人でも足がつかない深さのところにいるだろう。これは......早く助けないと危ない。
しかし、これこそ俺たちが解決できるような問題でもないだろう。解決を俺たちで図ろうとすれば、間違いなく無駄に終わる。助けたい、でもプロに任せるべき。2つの考えが俺を揺らす。
「南原、風芽の荷物とこれ、頼んだ。」
咲柚さんは前を見据えながら、荷物を手渡してきた。ただし、これまでに飲みきった空のペットボトルが入った保冷バッグは除いてだ。この行動を取る咲柚さんに、とある予感が俺の身体中を駆け巡った。
「まさか、咲柚さんが助けに行くんですか?」
「そうだ。」
手に持っていた保冷バッグを、咲柚さんは肩にかけた。
「いやいや無茶ですよそんな!咲柚さんだって足のつかない深さです!ここは堪えてライフセーバーを待った方が......」
「私の運動神経、舐めるな。」
咲柚さんはそう鋭く言い残すと、海に向かって駆け出していった。人命救助は並の運動神経ではどうにもならない。簡易的な救命具である空のペットボトルを携行したとしてもだ。
しかしそんな俺の懸念は、すぐに溶けてなくなった。水中に入った咲柚さんは、とてつもないスピードのクロールを泳いでみせた。
「なんだ?」
「女の子が向かってったぞ!」
周りからざわめきが起こるほど、彼女の有り様は異質だった。実際、常人ほどの泳力である俺を優に越す泳ぎで海水をかき分けている。もはや超人と表しても、過言ではない程であった。並の運動神経では、などと俺は戯言を垂れ流したが、咲柚さんは明らかに並ではない運動神経の持っている。バレーにしても、今の人命救助にしても、だ。
彼女は足がつかないところまで泳ぎ進めたようだったが、苦戦している様子は全く見受けられなかった。あと少しで男児のもとに辿り着きそう、というところである。浜に戻ってくるまで安心してはならないはずなのに、安心感が俺を包み込んでいた。
しかし同時に、俺は無力さを感じる。風芽さんにしても咲柚さんにしても、先輩たちの貢献の他人への貢献に手助けすることができない自分を、少しだけ軽蔑した。ただ突っ立って見ているだけの自分が情けなくなった。
※
「ほんっとうにありがとうございました!このお礼はまた日を改めて......」
「お気持ちだけで十分です。私が勝手にやったことですから、礼には及びません。」
その後、無事に咲柚さんは男児と共に浜へ帰ってきた。両者、身体に異常はないという。
男児に保冷バッグをリュックのように背負わせて簡易的な救命胴衣とする。俺はかつてそのことをどこかで聞いたことがあるから知っていたが、一般女子高生ではそのような発想は浮かばないことだろう。そもそも、知っていたところで易々と行動に移せるものでもない。咲柚さんの桁違いの運動神経と勇気に、その子は救われたのである。彼女はプロのライフセーバーにも負けなかったのである。
そして無事に男児を助け出した咲柚さんは、その母親から特大の感謝を受けていた。あくまで礼を受けることはしていないと、咲柚さんは母親の謝礼を突っぱねようとするが、どちらもなかなか折れない。
「命の恩人なんですから!この通り!」
「分かりましたから、頭を上げてください......」
しかし、結局は咲柚さんが母親に折れる形となったようだ。深くお辞儀をされてしまえば、折れない方が不躾ということにもなるだろう。そういうことで咲柚さんは、渋々ながらも連絡先を伝えたそうな。
「そうだ、お子さんに言いたいことが。よろしいですか?」
「もちろんですよ!」
咲柚さんは何かを思い出したようにそう要求した。それに応えて母親は、横にいる息子を彼女の前に差し出した。
「勇悟くん、だったかな。分かったと思うけれど、海はとても危ない。これから泳ぐ時はちゃんと大人に見てもらうんだよ。」
「うん......」
「でも、私が君のところに行ったとき、ジタバタしていなかった。そこはとても良かった。大変な目に遭っても、冷静でいること。これを覚えておくんだよ。」
咲柚さんの男児に対するアフターケアは、アメとムチである。戒めは残しながらも讃えるところは素直に讃える。話し口は変えていないから、子供にもその堂々たる雰囲気が伝わっていることだろう。このようなメッセージが、子供へ真に伝わっていくのだろう。
そのメッセージと咲柚さんの見た目の凛々しさで、なぜか俺も惚れてしまいそうな心境である。様子は完全に優男、イケメンのそれなのだから。
「お姉さん、助けてくれてありがとう!ぼく、きをつけるよ。」
「そうかい。分かってくれて、嬉しいぞ。」
喜びを噛み締めるように微笑んで、咲柚さんは男児の髪をそっと撫でる。そこにいつものサディスト・咲柚の面影はない。『お姉さん』と男児は呼んでいるが、存在感は頼もしい兄貴。そんなところであろうと、俺は思う。
そしてようやく、咲柚さんが解放されて戻ってきた。太陽もかなり西に沈み始めている。周りの海水浴客たちも撤収を始めている。
「今度こそ行くぞ。風芽が待ちぼうけを食らってるだろうからな。」
「ですね。」
だいぶ時間が経って、俺らが待っていたはずだった風芽さんは逆に俺たちを待っていることだろう。早く行かねば、そんな義務感に駆られて早足で向かう。
結論からすれば、やはり今日はとても有意義であった。2人だけとはいえ先輩のプロフェッショナルにも負けず劣らずの能力や新たな一面を垣間見ることができて、これから共に部で活動していく上では重要な1日だった。もちろん、部長もいればなおよし、ではあったが。
そういうことで、思っていたほどの心地悪さを感じることはなかった。これで次の缶詰め合宿にもなんとなくの希望が持てた。
俺の無能さにも気づいてしまった1日だったが............改めて心の奥底から言える。今日は楽しかったと。来てよかったと。
めちゃんこ久しぶりの投稿でございました。ようやく海編完結。次はみんな大好き合宿(ど偏見)
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